スコットランドの香炉峰
徒然なるままに検索していたら、『才女』という唱歌についての記事を見かけた。原曲はスコットランドの音楽家Alicia Scottが1838年に作曲した『Annie Laurie』(アニー・ローリー)である。
『アニー・ローリー』は、17~18世紀のスコットランドの詩人ウイリアム・アダムス(William Douglas、1672-1748)が、深く愛し合いながらも周囲の意向で別れざるを得なかった恋人アニーへの慕情をうたった詩である。死後90年ほど過ぎて曲がつくとどこか物悲しく、かつ讃美歌をも思わせるメロディーが多くの人の心をとらえたか、19世紀半ばごろから広まったという。100年以上前に書かれた詩作品を歌曲にしようとする試みがなされたこと自体、この物語が当時の地元の人たちに愛されていた証拠だろう。
日本には1870年代の、いわゆる”文明開化”の時代に伝わったとみられる。
学校教育における「唱歌」の科目は、1880年から始まった。初等教育課程にある子供に西洋音楽の素養を身につけさせる目的のみならず、当時の流行だった「自由民権運動」をアピールする民衆歌の影響を抑え込む目的もあったという。まずはテキストが必要ということで、1881年から1884年にかけて「小学唱歌集」が作られた。現在の『君が代』は1880年に作曲され、この唱歌集に掲載されている。
が、この唱歌集のほとんどは海外のメロディー、すなわち”洋楽”に日本語の歌詞をつけた楽曲で占められている。『見わたせば』(むすんでひらいて)、『蝶々』、『蛍の光』(Auld Lang Syne)、『故郷の空』(Coming through the rye)など後年の人にもよく知られた曲もある。『Annie Laurie』も、情操教育に適しているとみなされたのか、日本語の詞がつけられた。ただし、原詞の悲恋物語とは全く異なる内容である。
1番は紫式部を題材にしているらしいが、極めて抽象的な書き方である。対して2番を一読すれば、『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」、すなわち「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」のエピソードを描いているとわかる。「小簾」は「御簾」の誤りとみられる。
「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き」も入っているし、中宮定子の心情も描写されているではないか。やはり『枕草子』のほうが、一般人にも身近だったのだろう。
この時代の人もまた、清少納言と紫式部の二人が平安時代文学を代表する存在であったと認識していたことが窺える。作品が時代を越えるとはそういうことだろう。
また、文明開化が浸透して、富国強兵の道を歩み始めた時代を生きた人の間でも、中宮定子は憧れと畏敬の意を捧げるべき”伝説の后”であり続けたともわかる。21世紀を生きるテレビシナリオライターが恣意的に扱ってよい人ではない。
それにしても、スコットランドの音楽家が作った曲に、900年近く前の平安京内裏後宮で交わされた、唐の時代の漢詩に基づいた機知の話の詞をつけて歌わせるとは!「世界中の文化何でもごった煮」の”歌謡曲”的発想は、既にこの時代から存在していたことになる。
最初は外国で歌われていた楽曲に日本語の詞をつけ、少し時代が進むと国内の音楽家が新たな唱歌を作るようになったという流れもまた、1960年代以降のカバーポップス→和製歌謡ポップス→シンガーソングライターの流れと符合するではないか。その意味で『才女』は極めて日本的というか、日本でしか生まれ得ない楽曲と言えるだろう。さすがのウイカさんも、このお話まではご存じないだろう、おそらくは。
『才女』のメロディーは、原曲と一部異なっている。それでもなお、古来からのわらべ歌や俗謡に慣れている一般の子供にとって、音程が取りづらい題材であっただろう。後年、原詞の悲恋物語をふまえた訳詞が数バージョン作られ、改めて唱歌『アニー・ローリー』として広められた。