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守らされた後は?

台風シーズンたけなわである。(2024年9月11日執筆)
9月1日は「防災の日」となっている。
8月は宮崎県沖で大きな地震が発生した。

天候が荒れてくると、気象庁の人が
「命を守る行動を取ってください」
と訴える、記者会見の模様が中継される。

特に荒れていない時も、しばらく地震がない時も、「首都圏ネットワーク」などのテレビ番組はしょっちゅう”防災対策コーナー”を設ける。

気象予報士や、若い記者たちが口を揃える。

「ひとりでも多くの人の命を守るにはどうすればよいか、私たちは引き続き考えていきます。」

高齢者施設や障碍者施設などで、災害発生時に全員避難させるために工夫を凝らすスタッフの取材も、よく見せられる。

台風や強い低気圧が接近する予報が出ている時は

「増水した川や田んぼ、海の様子などを、絶対に見に行かないでください。災害が切迫している場合は、少しでも命を守る行動を取ってください。」

と、大声で言う。

メディアに出る人たちが騒ぐほどに、私の気持ちはざらついていく。

命を守れ、守れ、守れ。
とにかく守れ、守れ、守れ!

…もう、うんざり。
私は切り返したい。

「じゃあ、守った後どうするの?
奪われた暮らしはどうするの?」

もちろん、彼らは知らんぷりするしかない。
絶対安全なスタジオで声を枯らさん限りに叫んで、命さえ守ってもらえれば、それで使命成就であり、満足なのだろう。

彼らには、大切な視点が欠けている。
「人間には尊厳があり、その人らしい暮らしが保障されてこその命である。」
という”人類の営みの基本”を。

水害の時、田畑や港の様子を見に出かけて、濁流に飲み込まれる人のニュースが取り上げられるたび、心理学で言う”正常性バイアス”のせいにされる。

それを否定はしないが。
「様子を見に行きたい」人たちにとって、田畑や船は生活の糧を稼ぐための大切な基盤である。”命の次に大切な”という慣用句があるが、彼らには命と等しく大切なものである。それを奪われたら、社会的生命が絶たれてしまう。

生涯、情熱を捧げてきた生活基盤を奪われてしまうという恐怖や絶望に苛まれながら、命だけ守らされて、何とする。

中世の戦いで、敗れたほうの非戦闘員を捕虜にして、その手に穴を開けて吊り下げ、見せしめにする軍隊があったという伝説を耳にしたことがあるが、それと同じく、両手を奪うようなものではないか。

災害の種類や規模にもよるが、人々がそれまで生きるよすがとしてきたものが全て失われた挙句、何ヶ月も停電や断水が続くような災害の時は、それを潮時とする考え方が認められてよいのではないか。

まして昨今は太平洋高気圧が凶暴化して、どこかの新聞販売店員か屋根修理業者の如く、延々と居座っている。偏西風はそっぽを向いたまま。往年の”大震災シミュレーション”のほとんどは、火災発生のリスクが最も高い「冬期の夕方」を想定していた。暑い季節に無理矢理命を守らされた後、事実上の生命維持装置となったエアコンが使えない環境下で長時間過ごすことに関しては、まだほとんど想定されていない。

平常時において亡くなる人は、近年”終活”の概念が急速に普及した。「その人らしい、納得できる最期」を目指して、認知判断力が衰えた際の身の振り方、看取りや弔い、財産処理の希望をエンディングノートに記すことが推奨されている。結構なことである。「首都圏ネットワーク」などでも、時折紹介されている。

それなのに、大規模災害の場合は”一律強制延命”が当然とされるのは、おかしくないだろうか?

今のところ、東京など首都圏は壊滅的被害をもたらす災害が起こらずに済んでいる。が、私には戦争末期、京都や広島が最後近くまで空襲被害を免れていた歴史的事実と重なってみえる。次に東京や首都圏が大規模な災害に見舞われる時こそが、現代の社会体制が終わる時ではないかと思う。

「長生きして、それを見てみたい」という、高名な学者もいらっしゃる。どうぞお好きなように、と申し上げたいが、私は真っ平御免。大規模災害が起こって「死者X名、行方不明者Y名」と報道される、そのX名かY名のうちに含まれたい。

戦争を引き合いに出したついでに言わせていただく。今、テレビ局が熱心に伝えている「命を守る工夫」は、地方都市や農村・漁村部を襲った強い地震や台風、およびまだ人口が少なく、電化製品がほとんどなかった時代の都市災害の教訓を基本としている。様々な社会的立場を持つ、何十万人もの人たちの長期避難生活に耐えられるものではないだろう。”竹槍でB29に備えよ”に等しいものと心得てほしい。

1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路震災)以降の災害報道の歴史は「美談製造の歴史」でもあった。阪神淡路では”ボランティア”、2011年の東日本震災では”絆”が流行語になった。

私は当初から、それを100%賞賛して「日本人の優しさ、人情の素晴らしさ」を誇る気には、とてもなれなかった。普段から人のあら捜しや噂話が大好きで、退屈になるとすぐにいじめを始める習性を持つ、ある意味陰湿な民族である。”就業していること”に異様なほどの高い価値を置き、様々な事情で労働から離れている人にはあくまでも冷酷な民族である。伝えられる美談の後ろには、数千倍・数万倍のトラブルや小競り合い、醜い言動が隠されているに違いない。

災害が発生して、避難を命令されたその時から、否応なく集団生活を強制される。自分ひとりでいられる時間を取り上げられ、心のよすがとする物から全て切り離され、食事も衛生確保も睡眠もままならず、”ルールマナー警察”気取りの仕切り屋に、いつ何時どやされるかもわからない緊張感が24時間途切れることなく、何日も続く。それで気持ちが荒まないほうがおかしい。小学生かよ!と言いたくなるほど幼稚な「大人のいじめ」も、大手を振ってまかり通るだろう。

自分にとって信頼できる人、安心できる人は犠牲になってしまったのに、何かと自分を目の仇にする人、笑い者にする人はしっかり生き残って、すぐ近くで避難している。その場合の、決して口には出せない失望感の重さはいかばかりだろうか。DVに遭い、保護されてきた人にとっては、自分の生死にも関わる大問題である。それでもなお、まず命を守らなければいけないのか。

東日本震災では、それまで陽気で明るかった老人が避難所でみるみる元気をなくしたり、仮設住宅に入った途端認知症が急速に進行してそのまま身まかったり…などの事例が、1年過ぎたあたりからぽつりぽつりと報道され始めた。氷山の一角と心得るべきだろう。

2016年の熊本地震あたりから、ようやく「災害避難所のリアル」」が少しずつ語られるようになった。送られてきた千羽鶴を、炊き出しの燃料として使わせてもらうという話もSNSで発信された。戦時中の”千人針””慰問袋”的発想に、ようやくNo thank youを言えるようになった。少し遅きに失した感もあるが、一歩前進だろう。

能登半島地震の際に政府や自治体が取った態度は、「被災地をこのまま見捨てる」と受け止められても仕方ないほど冷淡なものであった。若い人の多くは見た目の格好よさや、威勢のよい発言が魅力的に映っているようで、思慮浅く冷淡な政策を取る政治家を支持している。その流れが社会に定着しているのならば、老いた命など無理に守らずとも結構。

2011年の震災は、当時勤務していた職場で遭遇した。最初は新潟県中越地震よりもひと回り大きいくらいかと思っていたが、帰宅してよいとお許しが出て駅に行ってみると電車が全て止まっていて、ようやく事態の深刻さを悟った。タクシー乗り場には長い列、車は一向に姿を現さない。覚悟を決め、そこからおよそ30kmの道のりを7時間かけて歩いた。幹線道路の都心方向は車で埋め尽くされ、全く動かない。徒歩で追い抜いた車に後で抜き返されることは一度もなかった。やがて反対方向の車線を、白く大きな布に「災害支援」と手書きして貼り付けた自衛隊の車両が何台も走っていった。路線バスもその方向は辛うじて動いていた。道路に面した商店やビルでは、一部で商品散乱が見られたが、ほとんどは被害にあっていなかった。

都県境を越えると、都心方面から歩いてくる人とのすれ違いが急に増えてきた。集団をなして歩く人たちもいる。皆さんたくましい。深夜、家にゴールインしたら、本棚の本が飛び出す寸前まで膨らんだ状態で止まっていた。

この体験で得たものは大きかった。次に大きな災害が起きても7時間歩けばよいという自信にもつながった。しかし数年後「就業中に被災したら3日間職場に留まって、命を守れ」というお達しが出て、会社もそれに従う方針になってしまった。

私の心は戦慄した。自分の家や、大切なものがどうなっているのか全然わからないまま、嫌な人物も近くにいる環境で、ただ命を守らされるためだけに2泊3日など、とても耐えられない。その状況を想像するだけで涙がこぼれた。その涙こそが私の本心だった。

再雇用には申し込まず、会社都合で辞められる日が来たらすぐにおさらばしたいと、この時決意した。せめてその日までは大災害が起きませんようにと祈り続けた数年間であった。

命を守りさえすれば、それでよいのか?
この命題に答えようとする試みは、私の知る限り二つある。
ひとつは、永井隆・著『長崎の鐘』。著者は最終章「原子野の鐘」において、人々の住居再建の様子を4期(現代の言葉では”フェーズ”)に分けて綴っている。

爆撃直後(注・1945年8月)は防空壕の中あるいは壕を利用し、その入口に屋根をかけて地上地下両生活をする壕舎期(ごうしゃき)で、これは一ヶ月くらい続いた。(中略)
わずかに生き残った人々が奇しき因縁を互いに感じ、乏しい物を譲り合い、共に用いて暮らしていた。(後略)

第ニ月(注・1945年9月)から第四月(注・同11月)位までが仮舎期で、新生活準備期ともいえる。(中略)焼け残りの柱やトタンで二坪内外の仮舎を造り、この中に兄弟姉妹、あるいは従兄弟などという近い肉親が集まって相互扶助の生活を営んだ。このころには生存の感激がうすらぎ、他人同士の共同生活では利害関係上、感情生活の危険が既に起こっていた。

永井隆『長崎の鐘』(1949年)より

以後、12月に仮建築が進む段階まで筆を進めた永井は「この内容の豊かな原子野生活こそ真の文化生活だと思われる」と評しているが、現状に不満を抱く人々がいるという現実から目をそらしていない。

もうひとつは、2021年に放送された連続テレビ小説『おかえりモネ』である。主人公永浦百音の上司の気象予報士・朝岡覚が、自身にとって深い思い入れがあり、たびたび訪れている宮城県某市で発生した水害のニュースを伝え、ただちに避難するように呼びかける。犠牲者は出なかったという続報を確認した朝岡はスタジオを出ると、こうつぶやく。

「全員命が助かって、本当によかった…。でも、生活があるんだ。」

この作品を監修したNHK気象班の人たちが、普段の放送では決して口にできない本音を朝岡のセリフに託したと、私は解釈した。

改めて記事に書く機会があるかもしれないが、本作は主人公の永浦百音と、”俺たちの菅波”こと医師の菅波光太朗が丁寧に愛情を育てていき、いわゆる比翼連理の仲であることをお互いが自覚するまでの道のり(周囲の友人や目上の人たちはとっくにそれと気づいている)にスポットライトが当たりがちである。もちろんそれも大いに結構だが、「気象予報の本音」的な側面も忘れずに押さえておきたい。

ドラマは、しばらく離れて暮らさざるを得なかった二人が気仙沼大島の海辺で再会を果たし、万感の思いで抱き合って幕を閉じたが、”菅波百音”となった主人公がその後直面するであろう問題も気にかかる。

地域FM放送で大きな災害が発生する恐れを伝え、「ただちに避難して、命を守ってください」と呼びかけた後で、リスナーから以下のように切り返されたらどうするか。

「そりゃモネちゃんは、素敵な旦那様もいるし、子供もいるから、命を守んなきゃなんねえだろうけどよ。おらはもう家族もいねえし、友だちもいねえ。下手に命を守っても、避難所で鼻つまみ扱いされっから、もういい。モネちゃんにはわがんねだろけどさ、避難所にいると、人の醜さを嫌と言うほど見せられるんだよ。もう、あれはこりごり。おらは、あの震災を生き延びられただけで十分ださ。」

ドラマでは、百音が下宿していた銭湯の若い主人が

「どんな人も、いるだけでいいじゃない。そこにいてくれるだけで。」

と言っていたが、現実の世界において、それは絵空事の理想論に過ぎないことを、作者の安達奈緒子さんが一番よくわかっているのではないだろうか。

だらだらと書いてしまった。
激甚災害時にも「エンディングノート」のように、自らの意思を表明して、周囲がそれを尊重できるようにならないだろうか。それに「自分はありがたくも、もう十分に生きることができました。無理をしてまで命を守りたくありません。」と書けるように、残りの健康寿命期を悔いなく過ごしたい。






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