消えた愛のココナッツ(前編)
島崎藤村は行っていない
『椰子の実』の歌は、今でも広く知られている。防災無線を用いた夕方のチャイムの曲として使っている自治体もいくつかあり、うらやましく思う。(私が住んでいる自治体の夕方チャイムは音割れするほどひどい音で、しみったれた曲をかける。うるさく押しつけがましく、毎日聞かされるたびに気分が沈む。かつては”サザエさん症候群”的抑鬱を引き起こすアレルゲンでもあった。)
『椰子の実』は現在、作家・島崎藤村(1872-1943)の代表作として位置づけられている。愛知県田原市、渥美半島先端の伊良湖岬近くに、その詩碑が建てられている。
この詩碑と向かい合うように、海を背にする形で、作曲した大中寅二(1896-1982)の音楽碑も設置されている。
「伊良湖岬近く」とはいえ、フェリー乗り場や道の駅がある恋路ヶ浜地区からは2kmほど東にあり、アップダウンのあるサイクリングロードをそれなりに歩かされる。
地元では島崎藤村の名前を前面に出して、全力でPRしているが、藤村はこの地を一度も訪れていない。来た人は、若い頃に藤村と親交のあった柳田國男(1875-1962)である。
1898年夏、東京帝国大学2年生だった柳田國男(23歳、当時は松岡姓)は体調を崩し、知人の勧めで伊良湖を訪れ、およそ2ヶ月間滞在した。療養を兼ねて読書や散策を日課としていた。この伊良湖での体験が「民俗学」という新しい学問を切り開く契機になったと言われている。
ある日松岡(柳田)は、現在恋路ヶ浜と名付けられている、岬の南東側の海岸を散策していて、椰子の実を見つけた。
「デジタル台風」のサイトで天気図を検索すると、柳田が言う「暴風のあった翌朝」は1898年9月7日の可能性が高い。前日9月6日夕方から夜にかけて台風が遠州灘付近に上陸して、7日朝に山形県付近まで移動している。気象庁サイトの「過去の気象データ検索」における「津」の降水量記録も裏付けになる。
8月末、伊良湖に逗留中の松岡國男のもとを友人の田山花袋が訪れ、数日宿泊して東京に帰っていった。9月になると、松岡(柳田)は田山に宛てた手紙に、椰子の実を拾い上げた話を書いている。
「田山君が伊良湖に来てくれた時、一緒に歩いた海岸で、面白いことがあったよ。」と伝えたくなったのだろう。この手紙もまた、椰子の実伊良湖漂着は1898年9月7日朝の出来事と推定する裏付けとなる。
松岡(柳田)が東京に帰り、島崎藤村にその話をすると、藤村は異様に食いついてきた。
藤村は前年(1897年)最初の詩集『若菜集』を発表、新体詩の旗手として一躍文壇の注目を浴びた。1898年はその勢いに乗る形で『一葉舟』『夏草』と、次々に詩集を出した。藤村にしてみれば、今で言う「ネタの仕込み」として、友人が伊良湖で経験した話をキープしておこうと考えたのだろうか。
「全て山の中」と形容した、木曽の馬籠村に生まれた藤村にとって、海は青春の最も多感な頃に初めて触れた「大いなる憧れ」であっただろう。1893年(21歳)、失恋した後に関西方面を10ヶ月ほど旅して、神戸と高知の間を往復したと記録されている。当時の高知県に鉄道はなく、交通手段は船舶のみだった。その旅路で見た実物の海に、様々な読書で得た外洋の描写を頭の中で重ね合わせて、文学的な勘を養っていたと思われる。松岡(柳田)から聞いた話はまさにおあつらえ向き、絶好の題材であった。
新体詩 meets 万葉歌
1899年、藤村は長野県北佐久郡小諸町(小諸市)にある小諸義塾に教師として就職、東京から移り住んだ。最初の結婚も果たしている。
藤村は小諸で海の詩を数編書いた。『椰子の実』もそのひとつで、他の海の詩とともに、1900年6月発行の文芸雑誌「新小説」に発表された。翌1901年、最後の詩集となった『落梅集』に収録している。
小諸に生活基盤を得たことにより、藤村は身体的にも精神的にも”漂泊者”である自らの有り様に区切りをつける。それは新体詩を携えて登場した「文壇の若きスター」の終焉でもあった。
1904年に出したアンソロジー『藤村詩集』の冒頭で「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。」と盛大にあおりつつも、藤村自身はこれをもって詩の世界から退き、本格的小説家を目指す決意を固めていた。
新体詩は、当時の読者の目には極めて新鮮に映っていただろう。しかし後世の人間である私には、日本の詩歌の伝統をなす五音・七音の枠の中で、二人の人物の対話形式(後年、ボブ・ディランや松本隆氏が作詞に使ったテクニック!)など目一杯新しい表現を試みていたように思える。韻律の枠を越えた”現代詩”の発想が現れるのはもう少し後の時代になってからである。
藤村の詩の多くは「七五調」が用いられているが、現代にも語り継がれる代表作は『椰子の実』も『小諸なる古城のほとり』も「五七調」である。特に『椰子の実』は最後を「七・七」で締めていて、『万葉集』の”長歌”に近い。「いずれの日にか国に帰らん」の前に、たとえば「われもまた」など五音を加えたら長歌のスタイルになる。その場合、反歌を詠むのが面倒になるだろうが、ここでは考慮しない。
一世を風靡した新体詩の終着点は、日本古来の万葉歌に近いものだったという事実は、長い間海上を漂っていた椰子の実の海岸漂着ともどこか重なり合い、改めて趣深い。
国民歌謡
1910年代に入ると、柳田家の養嗣子となった柳田國男と島崎藤村の交流は途絶える。柳田は田山花袋などが推進した自然主義文学を批判するようになった。藤村は官僚になった柳田に私的な口利きを頼み、柳田がそれを断ったことで疎遠になったという話もある。二人の交流は終生復活しなかった。
それでも『椰子の実』の詩は語り継がれた。1936年、日本放送協会大阪中央放送局(JOBK)で「国民歌謡」という番組が制作された。レコード歌謡の時代を迎え、”エログロナンセンス”と評された退廃的楽曲の流行に対抗するべく、「誰もが愛唱できる、明るく健全な歌を放送で伝える」という目的を擁する企画であった。
番組制作が東京中央放送局(JOAK)に移ると、そこの担当者は島崎藤村の詩に曲をつけて歌手に歌わせることを思いついた。最初に作られた曲は『労働雑詠・朝』で、次が『椰子の実』である。『朝』はかなりの長編詩で、難解な語句も多く使われている。曲をつけて歌っても、当時のラジオ放送のレベルでその意を完全に伝えることは困難だったのではないかと推測される。対して『椰子の実』は放送でかけるのにほどよい長さで、難しい言葉もない。言葉のリズム感も優れている。先に『万葉集』長歌との類似性を指摘したが、同時に後年の歌謡詞に通じる側面をも有する作品である。
「国民歌謡」制作担当者は、山田耕作の弟子で、東京市赤坂区(東京都港区)霊南坂教会オルガン奏者の大中寅二に白羽の矢を立て、作曲を依頼した。担当者は大中に何らかの伝手があったのだろうか。大中は2パターン作り、そのうちの1つを提出したという。
藤村は『椰子の実』の楽曲化について、何のコメントも残していない。大中に作曲を依頼するにあたり、JOAKの担当者が島崎邸まで許諾を取りに行ったのではないかと思われるが、その記録もない。歌が評判になると、藤村に詩作の契機を問う人も現れたが、藤村は適当に出鱈目を言ってごまかし、柳田國男の名前は一切出さなかった。既に文壇の長老に近い立場で、フランスなど洋行も経験した藤村にとって、『椰子の実』は”とうの昔に自分のもとから離れた若き日の小品”という位置づけで、「使いたいのならばどうぞご自由に」というスタンスだったのだろうか。絶縁した昔の友人の体験談をもとにしたという負い目も抱えていたのか。ラジオで放送されていた1936年7月は、国際ペンクラブ大会出席のためアルゼンチンまで出向いていたそうで、ラジオ放送を耳にする機会もおそらくなかっただろう。
柳田は、藤村が先に死んだこと、および『椰子の実』の歌が戦時中の国民の心の支えとなったことなどをふまえたのか、戦後幾度か、若き日の伊良湖での体験と、それを藤村に話したエピソードを語っている。先に引用した神戸新聞連載記事『故郷七十年』(1958年)の他、1952年に書いた論文『海上の道』で、民俗学の見地も加味して振り返っている。
藤村は、自分が困窮していた時に柳田が手を差し伸べてくれなかったことを、あるいは終生根に持っていただろうか。対して晩年の柳田は「恩讐の彼方」と言わんばかりに、若き日の藤村との交流を懐かしみ、かつ詩才を高く評価している。
柳田は『海上の道』で、日本人の来歴について「南方から島伝いに渡来してきた」という推察を提示している。遺伝子解析などの科学的手法を用いた近年の研究ではほぼ否定されている模様だが(学術雑誌"Nature"で2021年に発表された、遺伝学・言語学・考古学国際研究チームによる論文では、中国東北部から朝鮮半島を経て日本列島に渡来した可能性が指摘されている)、柳田が南方渡来仮説を立てた背景には、おそらく「椰子の実拾得体験」の影響があるのだろう。
9月7日は”椰子の実記念日”
1999年の5月連休の頃、私は大阪に出かけ、帰途近鉄と伊勢湾フェリーを乗り継いで伊良湖を訪れた。フェリーターミナルを兼ねている道の駅内の掲示に、思わず頬をゆるめた。
渥美町観光協会の主催で『椰子の実』の詩の再現を狙い、毎年一度石垣島の沖合に出向き、目印として金属プレートを取り付けた椰子の実を流しているという。名付けて
「愛のココナッツメッセージ」。
唱歌好きの母への、よいみやげ話にもなった。
このイベントは1988年に始まったそうで、私が訪れた時には1998年の第11回投流までの漂着実績が掲載されていた。それに先立つ1979年、伊良湖-鳥羽間航路を運航する伊勢湾フェリーが就航15周年記念として、ロタ島から椰子の実1,000個を投流して、そのうち1個が三宅島に漂着し、地元の人に拾得されたことが企画立案の動機づけとなっただろう。
観光協会では、鹿児島県以北の海岸に流れ着き、拾得者から連絡があった実について「漂着」と認定している。1988年から1998年までに計1,274個を投流(第10回にあたる1997年は二度投流している)、12都県の海岸に56個が漂着したが、この時点ではまだ渥美半島への漂着は報告されていなかった。
(その後の経過については後編で記す。)
この掲示でも島崎藤村の名前はあるが、実際に伊良湖岬で椰子の実を見つけた柳田國男については触れられていない。
ここでは詳述を避けるが、藤村は女性関係において『源氏物語』を地で行くようなことをしている。柳田との交友とその破綻に至るまでの過程を見ても、結構”業の深い”人生を送った人とうかがえる。
藤村は、その”業の深さ”を抱えていたからこそ、深みのある文学作品を多数生み出せたのだろう。しかし、何事においてもコンプライアンスが重視され、ポリコレが過剰なまでに正義とされる今の世の中では、”黒歴史”が思わぬ弱点となりかねない。
「愛のココナッツメッセージ」事業は、2005年の市町村合併以降、田原市の「渥美半島観光ビューロー」が引き継いでいる。田原市で9月7日を”椰子の実記念日”と定め、改めて柳田國男と島崎藤村の二人を合わせて顕彰してみてはいかがだろうか。前述した通り、9月7日は柳田が伊良湖に漂着した椰子の実を見つけた日である。少し苦しいが「ココナッツ」の語呂合わせにもなる。観光ビューローの人がこの記事を見つけてくださったら、望外の喜びである。
参考資料
この記事を書くにあたり、以下の資料を参考とした。
「小さな資料室」 資料487 柳田國男「藤村の詩『椰子の実』」・資料289 島崎藤村『椰子の実』
アンティーク振袖レンタル販売卑弥呼八王子ブログ「伊良湖の風 柳田國男と椰子の実」
「日本の詩歌 島崎藤村」(中央公論社、1968年)
朝日新聞 2008年5月17日