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さらば浪漫館

北海道の道南方面には幾度も出かけているが、鉄道で行くとなぜかハプニングに遭遇しやすい。交通障害、盗難、ホテルの予約トラブル…まあ、いろいろあった。飛行機で行く時は毎回美しく清々しい旅にできるので、よほどこの地域の鉄道との相性がよろしくないのだろう。

寝台特急「北斗星1号」の個室を取った時。勤務時間の都合上上野からは乗車できないので、新幹線で仙台まで行き、先回りする形で待ち構えていたら、北斗星1号は大雨のため福島駅で抑止しているという旨のアナウンスが構内に響いた。急ぎ福島までバックして、停車している列車に乗り込み、個室に入ってひと息ついた。そのままベッドに横たわる。

どれくらい遅れて発車したかもう覚えていないが、一度目を覚ましたら小牛田を通過中で、ホームの時計が午前3時30分近くを指していた。ダイヤでは函館着4時32分だが、5~6時間遅れているみたいなので、このペースならばかえって朝ちょうどよい時間に着けるかも、と思いながら再び眠った。

ところが、朝が来てブラインドを上げたら盛岡に停車していた。ここで運転を打ち切るという。代行として、青森まで臨時列車を出すということで「はつかり」用の583系電車に乗り込んだが、青森県内の線路に被害が発生していると車掌がアナウンスして、その列車も八戸で打ち切られてしまった。そこから先は代行バス。昼間はそれでつぶされて、快速「海峡」に転がり込んで函館に着いた時は、すでに夕暮れどきだった。ホテルに向かう坂道を上り、振り返るたびに街灯りが増えてきて、それはそれで趣があった。

それから数年後、雨上がりの日。函館からの帰りに「はつかり」に乗車した。順調に青函トンネルを抜けて青森県に入った途端、突然停車した。しばらく何の音沙汰もない。隣の線路ではコンテナを並べた長大編成の貨物列車が行き場を失っている。

「津軽線内で土砂崩れが発生したという情報が入りましたので、この列車は函館に引き返します。」と、薄日さす中、無情の放送が車内に響いた。再び青函トンネルを通り、函館に戻された。

まだネットで宿をすぐ探せる時代ではなかったので、観光案内所に泣きついたところ、大森浜に面したホテルを紹介された。これが「大当たり」。すぐに用意してくれた夕食もおいしく、たっぷりといただけた。部屋の窓からは、十数隻のイカ釣り漁船の灯りが水平線に並び、海面を強く照らすさまが見えて、思わず涙がこぼれてきた。

翌朝はすばらしくよいお天気。カーテンを開けて、津軽海峡の光を思い切り浴びた。ホテルを出て、海沿いの道を10分ほど歩くと「啄木小公園」がある。函館山をバックにする形で頬杖をつく石川啄木像が建てられている。ここは、最初に函館に来た時にも立ち寄ったところ。およそ20年の時を経て、このような形で再会するとは思わなかった。台座には

潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ
今年も咲けるや

『一握の砂』より

が彫られている。啄木は函館在住時代(1907年)、大森浜の散策を好んでいたという。上記の歌の他、歌集『一握の砂』冒頭の10首は大森浜を詠んだ歌である。もちろん当時は、私がホテルから歩いてきた立派な道路はできていない。函館駅や港湾施設が建ち並ぶ北側の海岸が”表”ならば、大森浜や立待岬のある南側の海岸は”裏”で、往時は訪れる人もあまりなく、物想いにふけりやすかったのだろう。蟹が歩いていたであろう砂浜を埋め立てた上に道路や啄木小公園がある。

背後に気配がして振り向くと、像と向かい合う形で2階建ての洋館風建築物があった。いつのまにできたのだろう。近づいてみると

「哀愁テーマパーク 啄木浪漫館」

という看板が掲げられている。これは入るしかない。

1階は啄木と妻・堀合節子の年譜と、二人に関する資料が展示されていた。啄木と節子の夫婦愛にスポットライトをあてることが、この博物館の目的らしい。2階にあがる階段の壁にも啄木と節子の短歌を書いた幕が交互に掲げられていた。

この二人は学生時代に大恋愛をしていたが、いざ結婚となると(1905年)啄木はもう飽きたのか、いきなり婚礼をすっぽかす。

人ひとり得るに過ぎざる事をもて
大願とせし
若きあやまち

『一握の砂』より

後に斯様な歌まで詠む始末。それでも節子は啄木を信じてついていき、生まれた子供を育て、窮乏生活をやりくりする。啄木が小樽の新聞社に就職した時も同行したが、さらに釧路に移る際(1908年)には単身赴任となり、節子は娘をおんぶして、雪の舞う小樽駅で夫を見送った。啄木は釧路で、芸者の小奴と昵懇の仲になる。

啄木が単身東京に移ると、啄木の母が「一緒に暮らしたい」と節子にせがむようになり、それを聞き入れる形で夫婦同居を再開したが(1909年)、この姑の意地悪に、節子はつくづく閉口した模様。ついに忍耐の限界に達し、実家に帰ろうと家出する。この時はさすがに啄木がわびを入れたが、夫婦の関係にはすきま風が吹き、見かねた啄木の妹・光子が神学校の休暇中に家事を引き受ける。やがて夫婦・姑とも結核に感染して、1912年3月姑が死去、翌4月には啄木も息を引き取った。その時第3子を妊娠していた節子は、光子の紹介で懇意にしていた宣教師コルバンを頼って安房北条(千葉県館山市)に移り、出産と療養に臨んだが、産後体調を崩し、啄木死去から1年後に力尽きて世を去った。

現代ならば一発で「モラハラ」認定されるところだろうが、啄木の時代はもちろん、私が啄木関連の書籍を読みふけっていた時代にも、そのような便利な言葉はまだなかった。啄木の伝記を熱心に書いていた人は、ほとんどが夫主導の夫婦愛にロマンを抱く”おじさん”である。「節子は、啄木の文学的才能をいち早く見抜き、生涯ゆるぎない愛情でそれを信じていた」という、”妻の鑑”的な解釈が一般的である。啄木浪漫館の展示もその解釈に沿って、節子の愛情を改めて顕彰しようという意図が受け取れた。

啄木は生前「自分が死んだら、日記類は全て焼却処分するように」と遺言していた。芸者との交際や、現代で言う風俗遊びまでこと細かく記録した日記は、自分の命とともに消したかったのだろう。しかし節子はそれに従わず、文学作品原稿とあわせて啄木の友人たちに託した。燃やすために必要な気力体力がもう残っていなかったという現実的事情もあっただろうが、この夫に生涯を賭けた妻の、最後の抵抗であったとも思える。

2階は、啄木が代用教員として勤めていた「函館市弥生尋常小学校」教室再現セットに充てられていた。ハイテク技術を駆使したという「啄木ロボット」が設置されている。

「皆さんこんにちは。私は、石川啄木です。」

と挨拶する声も、写真に残る顔立ちから骨格を推定して作ったという。実際の啄木の声を聞いている人では妹の三浦光子(1968年没)や友人の金田一京助(1971年没)、土岐善麿(1980年没)が長生きしたが、声の監修をしてもらうには20~30年ほど間に合わなかった。

啄木ロボットの案内で、資料をもとに構成された1907年当時の函館の街の様子や、啄木短歌の抒情性を伝える映像が上映された。10分程度と記憶している。終わると海側のブラインドが一斉に上がり、大森浜と津軽海峡が間近に見渡せる趣向だった。エーゲ海もかくやと思われるほどに、まばゆい光が教室に飛び込んできた。昼なお暗く、古い床板がぎしぎし音を立てる教室を保存している、渋民尋常小学校旧校舎とは対照的だった。

それからさらに数年経ち、私は飛行機で湯の川温泉に出かけるようになった。ひとり旅でも個室露天風呂を使わせてもらえるプランができて、リピーターになった。

バスで大森浜沿いの道路を通った際、啄木浪漫館の建物の気配が以前と違っていることに気がついた。通りに面した壁面に、土方歳三の写真が大きくあしらわれている。いつのまにか「土方・啄木浪漫館」と改称していて、土方はじめ新撰組の展示がメインとなった模様。外装もかなりけばけばしくなっていた。

私は内心がっかりした。普段の生活圏はなぜか新撰組ゆかりの地に近いところが多いのだが、新撰組には全く関心が向かない。なぜあれほどもてはやされるのか、理解が及ばない。それに土方と啄木には何の縁もない。啄木は、かつて箱館戦争で反政府軍が敗れたこと自体は知っていた。

函館の臥牛の山の半腹の
碑の漢詩(からうた)も
なかば忘れぬ

『一握の砂』より

に登場する漢詩は、函館で戦死した将兵を弔うために詠まれたもので、新撰組隊士も含まれているが、啄木はそこまで気づいていたかどうか。啄木の時代、函館山の山頂一帯は軍用地で、津軽海峡を監視する要塞だった。おそらくこの碑から上は一般人立入禁止で、啄木は散策で山に登っても、そこで引き返さざるを得なかったのだろう。

この経緯を思うと、土方の展示を割り込ませて、啄木展示を片隅に追いやり「母屋を乗っ取る」ような形に変えるというのは、道理が通らない。一度見たし、もう行くまでもない。以来、バス車内から一瞥するのみとなった。

2024年、9月に入ってもしぶとく居座り続ける凶暴な太平洋高気圧から身を潜めていたある日。押し入れにしまった収納ケースを開けて、啄木浪漫館のパンフレットを久しぶりに手に取った。

啄木浪漫館パンフレット

よく読んでみたら、地元の海産物加工珍味製造会社の社長が1999年12月に開設したという。前年、啄木の孫にあたる石川玲児氏が亡くなり、1999年4月に立待岬の啄木一族の墓に合葬されたことを機に、改めて啄木の功績と、函館における足跡を伝える施設を作ろうと思い立ったようである。

懐かしいわね、と思いつつパンフレットに目を通した後、ネットニュースを見たら「土方・啄木浪漫館、2024年10月末で閉館」という見出しがあって、あまりのタイミングに仰天した。ゆえに、ここの記事で書こうと思い立った次第である。

直接の理由は建物の老朽化と客足減少だが、本業の海産物加工会社は2022年に事実上倒産して、社長は債務整理に追われていたという。それでも浪漫館だけは残そうとしたが、ついに力尽きた形である。

この社長は若くして家業を継ぎ、地元の財界では結構有名な人らしい。しかし近年は逆風続きだったという。途中まで無料で読める「日経ビジネス」のインタビューで不振の要因がいくつかあげられていたが、それ以前に世人の好みが塩味系から甘味系に移ろう流れに取り残されたと感じられた。要するに「スイーツに敗れた」のだろう。

社長は、もともと啄木の詩歌にロマンを感じる人だったのだろう。しかしもはや啄木だけでは、私のようなマニアしか足を向けてくれない時代になっていた。土方との抱き合わせをいつから始めたのかは知らないが、新撰組人気にあやかることで延命を図ったとうかがえる。一方、旅行サイトのレビューではあまり評判が芳しくない。土方ファン・新撰組ファンの肥えた目には、建物の中途半端な古さも相まって、物足りなく映るようである。抱き合わせは経営のために必要という判断だったのだろうが、結果的にはそれが幕引きの遠因となったと、私は受け止めた。

調べていたら、この社長に融資をしていた銀行側からの厳しい見方も目に入った。銀行からすれば、浪漫館は”例の社長の道楽”に過ぎないのだろう。あちらこちらから借金をして、そのたびに自らのふがいなさを責めていた啄木の伝記と、どこか重なるところがある。ロマンだけでは食べていけない時代になったと、改めて実感するニュースだった。

社長は、集めた資料を一括で引き取ってくれるところを探しているとお話されているが、啄木の資料は渋民に譲ることも視野に入れてよいのではないかと、勝手ながら思う次第である。社長都合による土方抱き合わせを解消して、啄木が終生懐かしがった「おもひでの山、おもひでの川」に”里帰り”させてあげたい。

2024年夏、函館にはおびただしい数の観光客が押し寄せ、前代未聞のオーバーツーリズム状態を呈したという。湯の川温泉の個室露天風呂も、外国人向けに改装された様子。もう、私がよく知る街ではなくなってしまった。今後、函館や道南に足を向ける機会は多分ないだろう。十分堪能できたし、美しくほろ苦い旅の思い出として、わが身が衰えるまで記憶に残ってくれたら、それでよい。








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