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防府を訪ねる


”なぎ子”の船旅

清少納言は子供のころ、父・清原元輔の周防守赴任に同行して、周防国府(山口県防府市)でおよそ4年間暮らしていたと伝わる。彼女は966年生まれ説が有力で、元輔が周防守を務めていた時期(974-978年)は8歳から12歳にあたる。現代の感覚ではまだ幼い年頃だが、昔の人は早熟ゆえ、都に戻るころは思春期の入口に達し、多感な時期を迎えはじめていたとも想像できる。もちろん「清少納言」の女房名がつくよりもはるかに前だが、子供の頃の名前はわかっていない。現代の小説やマンガ、子供向け歴史本では「なぎ子」が一般的である。

『枕草子』には、舟がよく登場する。

遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の仲。

言葉なめげなるもの 宮のべの祭文読む人。舟漕ぐ者ども。雷鳴の陣の舎人。相撲。

ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。

『枕草子』より

以上の類聚段のみならず、「うちとくまじきもの」(気の許せないもの)では、船旅の様子や、舟に関わる仕事をしている人たちの姿が詳しく描写されている。実際に船旅を経験したからこそ、書き得た文章だろう。清少納言の経歴と照らし合わせると、結婚していた頃や中宮定子のもとに出仕してからは海まで行く機会など到底なかったはずで、父親と一緒に周防から都に戻る時の可能性が最も高くなる。下向する時はまだそこまで観察眼を身につけていなかっただろう。この段は、彼女が4年間の周防国府生活で見聞を広げ、心身ともに大きく成長した現れでもあろうか。

平安時代の人にとって都の外へ旅することは、それこそ地の果てまで行くような感覚だったであろう。それでも瀬戸内海沿岸は、まだアプローチが楽なほうだったのではないか。

都から淀川を下り、難波津(大阪市)で海に達し、海上の舟に乗り換える。左に淡路島を見つつ須磨沖(神戸市須磨区)を通り、明石(兵庫県明石市)・室津(兵庫県揖保郡)・牛窓(岡山県邑久郡)・下津井(岡山県倉敷市)・鞆の浦(広島県福山市)・風早(広島県竹原市)・江田島(広島県安芸郡)・大畠瀬戸(山口県玖珂郡)・周防富田(山口県新南陽市)などを経由して、周防国府最寄りの勝間田湊に上陸したのだろうか?

当時の船はもちろん手漕ぎの帆かけ舟である。昼間明るいうちに漕いで、日が暮れる前に近くの津で帆を下ろし、そこで宿泊して、翌朝出港して次の津まで移動する方法を取っていただろうか。風雨が強かったり、海上が荒れていたりなどの場合は、舟を出せる状態になるまでそこの津に逗留していたのだろう。漕いでいるうちに天候が急変すると、近くの船着き場に緊急避難する。その繰り返しだったのではないか。

中流受領階級とはいえ都の貴族の一行で、幼い姫までいるとなれば、漕ぎ手も地元の人も相当に気をつかっただろう。最初のうちは、船べりに出ようとするとおつきの人に「姫様、はしたないふるまいはなりませぬ。部屋でおとなしくなされませ。」とたしなめられ、船室に閉じこもっても、船酔いで気分が悪くなった際に外の風にあたったり、他愛ないおしゃべりをしたりで気を紛らわせると酔いがいくらか和らぐと気がついてからは、船べりに出て海や岬を眺めていても、結構大目に見てもらえたのではないだろうか。船の漕ぎ手が出す大声は、清少納言が大人になって都暮らしが長くなると「水夫たちは、無礼で乱暴な言葉づかいをしていたね」と思い出しただろうが、実際船に乗っていた時は結構面白がっていたようにも想像できる。

いまの船旅

20世紀を生きてきた私にとって、防府はブルートレインで通り過ぎる町だった。山陽本線の大畠や富海(とのみ)で海近くの車窓を楽しみ、それがひと息ついたところに現れる小さな古い町だった。駅以外をしっかり歩いた経験がないまま、乗り甲斐のある列車は全てなくなってしまった。

今からせっかく行くのならば、船を使いたい。新幹線などは最初から眼中になかった。心情的理由のみならず、JRがわざといじわるをしているとしか思えない、徳山駅での接続の悪さも後押しした。防府に到着するフェリーはないので、柳井港に行く船を選んだ。

エンジンで動く現代の船は、周防大島の北側の海を快調に進む。行く手に懐かしい大島大橋が見えてきた。

大島大橋付近。柳井港を出た船と反航する

本土側は海に沿って山陽本線の線路が見える。コンテナをたくさん並べた貨物列車が西へ向かう。

どこまで行くのだろう

不意に思い出した。
人生で一番苦しかった頃、早朝の大畠駅に降り立った。どんよりとした雲の下、橋まで歩いた。足元が海になると、ひとつの考えが頭に浮かんだ。

今、ここで身投げしたら。
私を怒鳴ったり軽んじたりする人たちは、少しでも心を痛めてくれるだろうか。

そこで身投げせず、とぼとぼと駅まで戻ったから、今この記事を書いているのだが。あれから幾年過ぎたのだろうか。だらだらと暑いのだけは癪だが、美しい海をこの目で見て、海風をこの身体で感じている”現在”が答えである。

大島大橋が眼前に迫り、やがてその下を通過する。ジャンボフェリーの明石海峡大橋通過は船内放送で大々的にアピールされるが、こちらは静かなものである。地元の人たちの暮らしのため、日々黙々と航行しているのだろう。

かつてこのあたりを訪れた時、小さな白い帆を掲げている船をたくさん見かけた。今は、船そのものがあまりないのだろうかと思いかけた瞬間、数隻の船を見つけた。ほぼ、昔のままの風景である。

大畠瀬戸を象徴する白帆の船

柳井港のフェリーターミナルを出て、道路を横断するとすぐ目の前に柳井港駅がある。下り電車に乗り込む。真っ黄色に塗られた115系。かつてはこれしか走っていなかったが、改めて乗ると重厚な走り方をすると感じる。いつのまにか現代の軽い車両に慣らされていると気づく。早朝から船に乗っていたので、少し眠る。目が覚めたら櫛ヶ浜の工場地帯脇まで達していた。

ほぼ昔のままの新南陽、線路が取り外されたホームに容赦なく草が伸び、放置されたレールに容赦なく赤錆が浮かぶ戸田(へた)を過ぎ、列車は富海の海辺に出る。ここは先年亡くなった、作詞家有馬三恵子氏の故郷である。初期のヒット作「初恋のひと」(作曲:鈴木淳、歌唱:小川知子、1969年)や「ともだち」(作曲:筒美京平、歌唱:南沙織、1972年)などは、故郷の海を思い出しながら綴っていたのだろうか。季節はずれの強い陽射しに、海の色が驚くほど鮮やかに染め上げられていた。列車の揺れに身をまかせながら「初恋のひと」を頭の中でフルコーラス思い出した。

防府駅が高架化されたことは知っていたが、下車は初めてである。「新しいホーム」と言うと、地元の人に笑われるだろうか。

国衙跡

駅を出て、まず周防国衙跡に向かう。高架化工事にあわせて整備されたと思われる駅前広場を過ぎ右折、東方向へ15分ほど歩く。緑町の交差点を左折すると、いかにも地方都市近郊といった趣の家並みの向こうに、高い山が見通せる。大平山という。国分寺入口交差点を右折して広い幹線道路(県道54号)をさらに東へ歩く。通行する車が結構多い。

国衙交差点と大平山

県道を横断して、北へ歩くと次の角に新しい祠があった。脇には「猿田彦大神」と彫られた石碑が建てられている。祠の向こうは田んぼ。小道を東へ歩く。脇には盛りを過ぎたヒガンバナがぽつりぽつりと咲いていた。

彼岸から1ヶ月近く過ぎていたが

写真左側の木立の向こう側が国衙跡である。

周防国衙跡と大平山

ちょっと中富良野を思い起こさせる。逆に言えば、古くから開けている町で、ここまで広い平原が残されていることは奇跡に近い。道路に面して、1860年に建立された「国庁」の碑がある。

周防国衙跡 「国庁」の碑

道路の反対側は芝生になっていて、1970年代から1980年代にかけて防府市が行った国庁跡保存事業の説明板と、国庁寺の説明板が設置されていた。前者の写真を見ると、国庁碑は国衙域の南西隅近くに建てられたとわかる。この碑からもう少し東側にある道路を平城京の朱雀大路に見立てて、それを中心として2町(218m)四方のスペースに、政庁舎や厨屋などから成るオフィス街(国衙域)が作られていたという。

国庁保存事業説明板

国衙域を核として周辺に8町(872m)の土手が張り巡らされて(国府域)、その中に官庁街・寺院・住宅などが建てられていた。要するに小さな都市が形成されていたことになる。この町の造成は奈良時代で、当時としては画期的だっただろうが、8町四方(約80万平方メートル)は東京の高島平(約330万平方メートル)の1/4程度である。電力が存在せず、上下水道の概念がなかった時代においては、多くの人が安全に暮らせる最大限の規模だったと思われる。国府域の南端は山陽本線の線路近くで、海岸には国府津(国府の港)があり、その遺跡も発見されているという。国府津といえばまず神奈川県小田原市だが、あちらは伝承のみなのだろうか。

武士の時代を迎え、律令制が機能しなくなると他国の国府は衰退していったが、周防国府は1186年に東大寺造営料国として同寺の管轄となったことで、原型を留められたという。室町時代にこの地を支配した大内氏や、その後戦国時代から徳川政権下にかけて支配した毛利氏はたびたび寺域を削ろうとしたが、国衙域は東大寺の支院「国庁寺」として守られた。国庁寺は、国庁碑が建てられてから11年後の1871年に解体されている。

国庁碑の両脇には「日露戦役記念」として、弾丸が置かれている。もちろん中身を処理してから置いたのだろうが、先日宮崎空港で不発弾が突然爆発して、滑走路が陥没したというニュースがあり、何とも複雑な思いがした。

日露戦役記念碑

国庁跡保存事業・国庁寺説明板の隣には「清少納言ゆかりの地」の真新しい説明板が建てられていた。

「清少納言ゆかりの地」説明板

芝生の脇には花壇が作られている。これも新しい。桔梗の花がたくさん咲いていた。

芝生を飾る桔梗

順調に気温が下がっていれば、もうとっくに花は終わっているはず。しぶとく暑いがゆえにお花見ができてしまったことになる。

桔梗といえば、函館市桔梗町にある函館本線の「桔梗駅」を思い出す。駅舎の脇に桔梗が植えられていて、8月半ばに行ったところ、数輪がけなげに咲き残っていた。

はつ秋の
桔梗の駅の片隅に
咲ける五稜の花ぞかなしき

啄木気取りで一首詠んだものである。

<参考>桔梗駅(函館市桔梗町、2014年8月)
<参考>桔梗の駅の片隅に(函館市桔梗町、2014年8月)

国衙跡見物を終えて、伝・朱雀大路を南へ歩く。陽射しがまぶしい。

秋はいずこに

県道を渡ると、海の方角に工場の煙突が見えてきた。後で調べたところ、バイオマス石炭火力発電所という。「鐘紡町」と名付けられた埋立地で、昔は多分鐘紡系の工場があったのだろう。

エネルギアパワー山口

山口県の山陽側海岸は、工場地帯のイメージも強い。徳山に停車する新幹線から眺められる工場夜景は、隠れた名所である。高度成長期は県内自治体で工場誘致合戦も繰り広げられていたというが、防府で目立つ工場はこの施設くらいだろうか。

もう少し南へ歩くと国衙公園がある。今でこそ何の変哲もない公園だが、国府が機能していた時代はこのあたりに国府関係者の住居があったとも考えられている。清原元輔・清少納言親子の家も、この近所にあったのかも?

国衙公園。この南側200mくらいに国司館があったと言われている

国分寺と天満宮

県道に戻り、防府駅方向(西)に10分ほど歩く。国分寺入口交差点で県道を渡り、再び北へ向かう。このあたりで勘づきはじめた。この町は碁盤目状の道路を基盤としていて、正確ではないが、ほぼ東西南北の方向に道路が作られている。平城京を模した町づくりを目指していたのだろう。武士の時代に作られた城下町などとは、明らかに構えが異なる。

さらに10分ほど歩いて、周防国分寺にたどり着いた。この寺院は741年に聖武天皇が出した勅願に基づき全国に建てられた国分寺のひとつで、756年までの間に完成したという。建物自体は幾度か建て替えられているが、創建当初の土地に今でも伽藍を持つ国分寺は全国唯一で、それゆえ史跡に指定されている。

周防国分寺本堂
「國」の銘つき瓦

仏足石や、樹齢800年と伝えられる櫟の木を見て回る。

境内の仏足石

国分寺入口の説明板では、歴代天皇の信仰や国府・大名の崇仏保護を称えているが、私は若干異なる印象を持った。平安時代半ば過ぎまで、この町は周防国における政治・経済の中心だったことは間違いない。しかし武士の時代以降は政治の中心から外れ、近隣の都市から適切な距離を置き続けたことで、政争の場として荒らされずに済んだと見る。

大内氏や毛利氏は本拠を山口に置いた。それにより、東大寺による国衙の寺域保護を尊重する余裕ができた。防府を本拠にしていたら、国衙域はその時代に消滅していただろう。帝国政府の時代になると、広島と下関のほぼ中間地点という条件が、保存に関して有利に働いたのではないか。山陽鉄道は1898年に徳山から三田尻(防府)までの区間を開通させて、一時期終着駅としていたが、あくまで工事進捗上の都合によるもので、1900年に厚狭、1901年に馬関(下関)まで延長開業している。広島と下関を軍事・外交上の拠点としたため、中間の防府は時代の荒波に飲み込まれなかったのだろう。戦争中も空襲の標的になりやすい施設があまり作られなかったのではないか。

戦後の高度経済成長期は、徳山や宇部など周辺の市町村が工場誘致に動く中、この地域ではかなり後まで昔ながらの塩田を残している。

新幹線の駅を”おねだり”しなかったことも良かったのではないか。隣の県には、開業時「近くに駅を作るので不必要」とされたにも関わらず、納得がいかないと駅設置を要望し続け、十数年後に作らせたものの、市街地から離れた山奥で、ほとんど使い道がない新幹線駅がある。都会目線であえて言わせていただくと、地方の「新幹線建設や新駅のおねだり」は正直見苦しい。新幹線そのものが珍しかった時代には、駅の設置が町の発展につながることもあっただろうが(その頃も某県で地元大物政治家のわがままと揶揄される駅が発生した)、どこもかしこも新幹線になってしまうと、ストロー効果によるデメリットのほうが大きくなる。条件のよい雇用環境もろくに整えず、古いしきたりを温存したままで高速交通機関建設のおねだりなどすれば、次世代の人はあっという間に大都会へと渡ってしまう。その土地から見れば「おらが町の誇り、新幹線の駅」でも、都会から見ればOne of themに過ぎない。先人たちが苦労して整備を重ねてきた在来線に、もう少し敬意を払ってよいのではないか。

防府でも、新幹線開業時に駅が作られなかったことを悔しがる人が少なからずいただろうか。が、だからこそ貴重な歴史的遺産がある町として胸を張れるのですよと申し上げたい。

話が横道に逸れた。
ここまで来たのならば、防府天満宮も見ておきたい。神社の現状に関してはいろいろ思うところもあるが、この町を初めて歩くからには、礼儀のうちに入るとも思う。

国分寺から西へおよそ10分歩くと、地方の名所近くによくある形の新しい観光案内所が現れ、その脇にいかにも門前町といった風情の古い家屋が並びはじめる。天満宮はこの町の北側の丘の上に建てられている。

参道入口

参道の先で86段の石段を昇り、本殿にたどり着く。左側には「なみだ恋」(作詞:悠木圭子、作曲:鈴木淳、歌唱:八代亜紀、1973年)の新しい歌碑が建立されている。作曲した鈴木淳氏が、現宮司の叔父という縁で作ったという。

あの歌を脳内再生するには周囲の環境がいささか爽やかすぎ、健全すぎた

天神さまだから梅の名所として知られているが、あまりにも蒸し暑すぎて、その光景に想いを馳せる気にはとてもなれなかった。

本殿の門。左右には菅原道真の木像が飾られている

お参りをして、社務所で御朱印を授けてもらう。

・偏西風の南下
・大陸高気圧の張り出し
・太平洋高気圧退散
・日本近海海面水温の低下

を祈願した。祭神を”学問の神”と見込んで、より具体的に願う。有名な神社仏閣に参拝する際は個人的な望みではなく、自分が暮らす地域の問題や、自然環境に関する問題の解決を願うようにしている。古来より日照りが続くと雨ごい、長雨や冷害が続くと晴天祈願が行われてきた。時の天皇が自ら祈願したこともある。その趣旨に則る祈願内容と自負しているが、「暑すぎる環境を何とかしてほしい」と願う人は、まだあまりいないのではないか。

神社本殿
七五三詣の碁盤。この上に子供を乗せる

石段を下りて神社を後にする。門前町の路地を南へ歩いた。一般の住居やマンションが建ち並ぶ中、電柱に菅原道真が詠んだ和歌を記した幕が飾られている。有名な「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」もあるが、下の写真の和歌に目が止まった。

「君」は宇多上皇のこと。出典は『大鏡』という

現代において「しがらみ」は”腐れ縁”的なニュアンスの、悪い意味で使われることが多い言葉だが、古代では「川をせき止める柵」という本来の意味で使われていた。

菅原道真は901年に身に覚えのない嫌疑をかけられ、大宰員外帥に任じられた。下向の途中同族の土師氏を頼り、周防勝間田に立ち寄った。「この地未だ帝土を離れず、願わくば居をこの所に占めむ」と語ったという。ここはまだ本州で、京と地続きだから、できるならばこの地に留まって嫌疑を晴らしたいという願いである。しかし程なく大宰府に向けて旅立ち、任地で903年に亡くなった。薨去の知らせを聞いた周防国府の人たちは菅公の霊魂が戻ってきたと思い、翌904年に松崎の杜にその居所として神社を創建した。全国初の”天神さま”という。

清原元輔は、松崎の社創建から70年後に国司として赴任してきた。子供の頃は京で天変地異が起きたり、菅原氏排斥でのしあがった藤原氏の有力貴族が突然死んだりするたびに「天神さまの祟り」と人々が恐れおののくさまを、散々見てきただろう。防府の天神社についても、行く前から知っていたのではなかろうか。現地では、道真を直接世話した人たちの2~3世代後の人々が国府に勤務していただろう。赴任早々案内してもらい、「ここが、かの菅公の御霊鎮める地なのか」と、肌で感じていただろう。

文化財郷土資料館

早朝から船に乗り、電車に乗り、陽射しが強い道をひたすら歩いたゆえ、かなり疲労がたまってきたが、もう1ヶ所見ておきたいところがある。

防府市文化財郷土資料館。
今回の旅を企図した時から、一番の目的地としていた。

菅公和歌が飾られている路地に続いて、薄いピンク色の門を持つアーケード街を通り、県道まで戻る。高架下をくぐり、駅の南側に出る。さらに南西方向に歩く。ゆるいとはいえ坂道があり、汗をかきながら上る。天満宮からはおよそ25分で着くが、それ以上の体感だった。

防府市文化財郷土資料館入口
清原元輔・清少納言親子のキャラクター?がお出迎え

いかにも1970年代の公共施設のふんいきが漂う古いビルである。観覧無料は嬉しい。冷房も嬉しい。

1階ロビーは防府市内各地域の歴史概説パネルと、かつて使われていた風呂桶や古代出土品など大型資料の展示に充てられている。パネルには丁寧に解説が記されているが、富海と三田尻以外は、あいにく場所の見当がつきかねる。鉄道の駅名の訴求力の強さを改めて思い知らされる。

2階にあがると、防府市域の歴史や文化に関する詳しい解説展示コーナーがある。係の方はとても親切で、地元名所の写真つきしおりなどを勧めてくださったが、疲れに老眼が加わり細かい文字が読めず、改めて目を通すことにした。防府市史など地域の歴史に関する図書を並べた書架と、閲覧用テーブルも置かれていた。

伊集院静氏が当地出身とは、長らく失念していた。同じく当地出身の作家高樹のぶ子さんの自伝小説『マイマイ新子』と共に、伊集院氏の著作が展示されていた。

解説展示コーナーに歩みを進める。子供向けスペースも作られている。他のお客さんがいない状態だったので、上がらせてもらった。なお、展示品は全て撮影可能である。

漢字の偏と旁の札を合わせて文字を作る、どこかで見たようなパズルもあった。いざマグネット製の札を手にすると、意外と思い出せない。

「枝」、「紡」または「防」も作れる。もちろん他の組み合わせも可能。

大人向け展示コーナーは、縄文時代から現代に至るまで詳しく解説されている。ショーケース脇には、解説している時代を色分けで示す幟が立てられている。ケースの上にも同じ色分けで時代区分を示すパネルが取り付けられ、その時代の主要人物の名前が記されている。優秀で、なおかつ熱意を持つ学芸員がおいでと察せられる。

時代区分色分けパネル

古代において防府は山陽方面・山陰方面・九州方面へ向かう交通の”結び目”で、なおかつ瀬戸内の島々が途切れて海が開ける位置にあり、船はこの地で潮流の変化に対応する必要があったと説明されている。先ほど船で沖合を通った周防大島は、結構重要な位置にある。明石海峡を瀬戸内海の北東門、大畠瀬戸を北西門とする考え方も成り立つかもしれない。

解説は縄文時代から始まる。飛鳥時代の項目には中大兄皇子も登場する。国分寺創建はその次のコーナーである。

飛鳥時代コーナー。列島地図の白い部分はアイヌ文化圏だったか。
欧州民族が大陸東岸に到達するより1000年も昔である。

平安時代コーナーでは、国司館跡発掘調査の成果に基づいて作られた、貴族邸宅復元模型が目玉となっている。

平安時代コーナー
御格子、御簾、几帳などが再現されている

都とは違い、天皇や后、皇族などあまり高貴な身分の人はいない。臣下も、位の高い人はいない。そのような環境で、御簾越しに話すなど、都のしきたりはどこまで持ち込まれていただろうか。

国府跡から発掘された扇の骨。もちろんクラゲではない。

鎌倉時代以降についても詳しく解説されていたが、あまり関心が向かないし、時間の都合もあるので割愛する。特別展示コーナー「平安時代の精神世界」を拝見した。当時の人たちの知見では原因がわからなかった、脅威をもらたす現象(人の死・災害・疫病など)に対してどのように考えていたかについて、パネル展示で説明していた。陰陽師や験者などの職業、物忌みや方違えの習慣について説明されている。『枕草子』の一節も紹介されていた。

真ん中は、ほとんど「山羊さんゆうびん」ではないか

自分ごとならば「方違えに行った先でメシを出さないのはけしからん」と文句をつける一方で、他人ごとになると「宮仕えする人のもとに来る男が、そこでメシを食べるのはみっともない」と平気で書く図々しさがよろしい。

この展示では「菅原道真の怨霊は正しく祀り、その魂をなぐさめることで、雨や雷をもたらす力を持つ神となったと信じられた」と解説されている。ならば先ほど天満宮で太平洋高気圧退散などを祈願したことは、おそらく正しいのだろう。

受付に戻ってしおりをいくつかいただき、図書閲覧コーナーで市史に少し目を通した。清原元輔は当地で鋳銭司長官も兼任していたという。一方、朝廷公式通貨の皇朝十二銭は着任前の963年に鋳造を終えたと記録されている。最後に作られた「乾元大宝」は品質が悪く、流通現場で様々なトラブルがあったという。元輔は名誉職だったか、それとも現代でいう清算事業団的ミッションを与えられていたか、はたまた当時の社会知識では無理筋だった、流通促進策を立てるように言われていたのか。名誉職でなければ、高齢の元輔にはストレスがたまる一方の仕事であっただろう。

資料館を辞して、駅へ向かう。高架脇に「防石鉄道」で使われていた蒸気機関車が保存展示されていた。「石」を名乗るということは、石見まで伸ばそうとたくらんでいた証。1919年に三田尻から奈美まで開通、翌年佐波郡徳地町の堀まで延伸。いずれも人名みたいな駅である。しかし経営不振が続いて石見入りはかなわず、1964年に力尽きた。防石鉄道の社章はレールの断面を梅の花びら形で囲んだデザインで、意外と可愛い。

防石鉄道2号機関車。川越鉄道から譲渡されたという。
国分寺で甲武鉄道から切り離された、飯田町(東京市牛込区)発の客車を
連結して、所沢や入曽を経由して川越(本川越)まで走っていたのか。

秋(?)は夕暮れ

駅に戻ったら、予定より1本早い上り電車が到着するところだった。クリーム色にブルーの帯の115系。「ひろしまシティ電車」の、懐かしい色である。「ひろしまシティ電車」は、1982年に国鉄広島鉄道管理局がサービス向上を目指し、首都圏・関西圏以外で初めて15分間隔のパターンダイヤを組んだ時につけられた愛称で、クリーム色にブルーの帯はそのシンボルカラーであった。かつてこの地域によく出かけていた時は散々乗車したが、いつのまにか全て真っ黄色に塗り替えられてしまった。近年、ひっそりと復活したようである。

西日射す富海の海が車窓から退くと、少し眠った。1時間10分ほどで大畠に着く。時間に余裕ができたので、懐かしいこの駅に降りた。

大畠駅にて。1980年代のままの周防大島のりかえ案内が残されている

「国鉄フォント」で記された周防大島のりかえ案内板をはじめ、ほとんどが40年前のまま。日暮れ時でもあり、一気に時が戻った感がする。しかし、かつて賑わっていたキオスクは影も形もなく、出札口は閉ざされ、改札にはICカードリーダーが青く光っていた。キオスクで周防大島の地図を購入したと思い出す。

あたりの雲をエメラルドグリーンに光らせ、上空の雲を黒く染めながら、太陽が没していく。福岡か長崎へ向かうのか、飛行機雲が細く光った。振り返ると下りホームの向こう側で、フェリーが顔を出した。周防大島伊保田港から柳井港へ向かう「しらきさん」。ちょっと変わった名前の船である。

大畠駅下りホーム沖を航行する「しらきさん」

改めて、空想を巡らせる。
清少納言が人格の最成長期に都を離れて防府で暮らした経験は、大人になってからの宮仕えに大きく役立ったのではないだろうか。防府は都から遠く離れていて、全てが都並みとはいかなかっただろうが、交通の要衝で様々な人や物資が集まってくる環境ならば、漢籍を含めた書物や紙なども案外入手しやすかったのではないか、とも思える。都では食べられない新鮮な魚介類が食卓に並べられたり、大陸から輸入された貴重品を見かけたりする機会にも恵まれていただろう。

父の清原元輔は多忙で、当時の厳格な身分制を考えると、娘に仕事について話したり、その苦労をぼやいたり、和歌や漢籍を直接教えたりなどはありえないだろうが、日頃本をよく読み、持ち前の明るさで周囲と巧みにコミュニケーションを取っていたであろう娘は自慢だったのではないか。

直接何かを伝える機会があったとすれば、「身の回りのあらゆる物を、よく見る習慣をつけよ。正しいと思える道があれば、それに向けてまっすぐ進め。何がまことに正しいかを見極めるためにも、よく見なければならぬ。」といったことだろうか。

元輔は鋳銭司長官として、貨幣を溶かして銅を取り出して売るような不正行為を取り締まる側にいたが、乾元大宝の現状を思うと、不正をやろうと思い立つ側の心境にも一定の理解が及んでいたのではないか。遣唐使がなくなって以来公式にはなかなか入ってこない大陸情報や、山陰・九州の様子を聞き及ぶにつけ、都のやり方を相対化して考えられるようにもなっていただろう。菅原道真の運命に関しても、思うところ少なくなかったかもしれない。その姿勢は、清原家に仕えていた家人を経由して、多感な年頃の”なぎ子”にも伝わっていたと想像する。

清少納言の「好みのタイプの男性像」も、防府時代に培われたのではないか。都に戻り、成人して最初に結婚した相手の橘則光も、宮仕え時代最も親しくしていたとみられる藤原実方も、剛毅な人柄と伝えられている。則光は「わかめ事件」でかなり株を下げてしまったが、もともとは盗賊を返り討ちにするほどの腕前の持ち主。実方は和歌の詠み方に対して強い信念を持っていた。清少納言は、防府への往復および居住時にこのタイプの男性を見かけて、好ましいと思う感性を身につけたのだろうか?

一方、藤原行成・藤原斉信に対しては、異性として見るというよりも、自分に近い感性を持つ上流貴族という認識だったのではないか。だからこそ逢坂の関の和歌はエスプリの効いた応酬となり、後世藤原定家が着目したのだろう。斉信の利に敏い”裏切り”は、それまで自分とどこか似ている人と信頼を置いていただけに、余計ショックだったのではないか。

話は前後するが、女房として就職する際にも、防府暮らしの経験を結構高く買われたのではないか。藤原定子が一条天皇のもとに入内すると、定子母方実家の高階氏が、世話をする女房を集めたと思われる。高階氏は身分にとらわれず、広い視野と人脈を持ち、明るい性格で、定子を新しい時代の天皇にふさわしい妃に育てられるような人材を求めたのではないか。歌人としても有名な清原元輔の娘ならば、まさにうってつけ。離婚した直後というタイミングもよく、ぜひにと声をかけたのだろう。藤原氏の息がかかっていないこともポイントが高かっただろう。天皇の母と妃の父が藤原氏という状況ゆえ、特定の一族による皇室周辺独占は避けたかったと思われる。定子がお上のハートをキャッチしている間に地固めを行い、いずれ他家の姫が入内してきても優位を保てるようにしたいという、高階氏の作戦に与する形で採用されたのか?

清少納言が出仕を始めると、定子から問いかけられる歌枕などの話題に答える際、船旅や防府暮らしで得られた体験をもとにしてイメージを膨らませることもできただろう。須磨をこの目で見てきたことは大きい。当然、答えには実感がこもる。頭のよい定子はそれに気づいていたであろう。

定子はおそらく生涯、都の外に出る機会が得られなかっただろう。身分が高いがゆえに、かえってできないこともある。当時の貴族は「都の外など、どんな魑魅魍魎がいるか、怨霊がいるかわからない。そんな恐ろしいところなど行きたくない。」と考える人と、石山や初瀬、ときには伊勢神宮詣でなどに行ってみたいと望む人に分かれていたのではないか。和歌や漢籍を通じて、都の外にはたくさんの国があり、それぞれに見知らぬ風物がたくさんあると知っていた定子は「叶わぬとわかってはいるが、できるものならば行ってみたい」派だったようにも思える。記録には残っていないが、清少納言の船旅の思い出話を、目を細めつつ聞いていたようにも想像できるか。いわゆる定子サロンの華やかさは、都人だけの純粋培養でないからこそ実現できたようにも思える。そう考えていくと「都落ち」も、決して悪いことではない。

紫式部というある意味”怪物”的な才能の出現により、藤原道長や彰子の生き方に筋が通ってしまったが、道長は兄に、彰子は”夫の先妻”定子にどうしてもかなわないと、内心コンプレックスを持ち続けた生涯ではなかったか。大切な行事がある日に自分の息がかかった貴族を大量動員して挙行を妨害する、自分の思い通りにならないとすぐ不機嫌になって怒り出すなど、道長の小心的な人柄を伝える逸話は、コンプレックスの裏返しだったとしか思えない。栄耀栄華を極めるほどに後ろめたさがついて回り、最後までそこから逃れられなかっただろう。彰子が敦康親王立太子にこだわったのも、筋を通す最後のチャンスで、それに失敗すれば自分は定子に追いつけないままになってしまう「背水の陣」的な思いが隠されているように見える。大人になってから初めて地方暮らしを経験した紫式部は「早く都に帰りたい」と、日々閉じこもっていたという。あまりにも有名な『紫式部日記』の文言は、都落ちさえも人格成長の糧にできた清少納言のたくましさへのコンプレックスを抑えきれずに、文字通り筆を滑らせたように思える。


日暮れて十数分、大畠駅ホームは夕闇に包まれた。オレンジの海に船が浮かぶ。秋とは言いがたい気候でも、やはり「秋は夕暮れ」である。

山の端いと近うなりたるに

次にやってきた上り電車は最新型車両だった。鮮やかな赤色をワンポイントに使い、ドアの横には真っ赤な「C」マークがあしらわれている。赤色を広島のシンボルカラーとして定着させたのは、紛れもなくジョー・ルーツ氏の功績だろう。
115系は4両編成だが、新型車は1両減らされていて、その分混雑していた。

山口県内ではまだ珍しいが…まもなく新旧交代?














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