ブギウギ on 『暮しの手帖』
雑誌「暮しの手帖」は創刊当初、作家・学者・政治家・実業家・芸能人など、著名人の随筆を多数掲載していた。花森安治氏が培ってきた人脈の広さに圧倒される。歌手・笠置シヅ子氏も、寄稿者として名前を連ねている。
「えい子はえゝこ」
笠置シヅ子氏の寄稿は、1952年発行の第16号に掲載された。題は「えい子はえゝこ」。ひとり娘の亀井ヱイ子さんを溺愛する様子が綴られている。
「親がなくとも子は育つ、の諺を痛切に感じます。」と書きつつ、仕事仕事と追われている日々だからこそ、休みの日は一秒も離さず可愛がりたい、さらに「えい子を自他共にえゝ子にする為に働かねばなりません。」と述べる。
連続テレビ小説「ブギウギ」の主人公、福来スズ子は住み込みのお手伝いさんを雇っていたが、笠置氏は今でいうワンオペで、仕事が忙しくなるとその都度周囲の人に世話を頼んでいたらしい。「ブギウギ」に登場したマネージャーは人情に厚く、子供の面倒も喜んで見る人として描かれていたが、笠置氏のマネージャーは悪辣なことも平気でしていたようで、気苦労も絶えなかっただろう。人気商売ゆえの不安もある。笠置氏は、娘をある面「守り神」のように見ていたのだろうか。妊娠中に子の父親が病死して、籍を入れられないままに産んだといういきさつもあり、とりわけ思い入れが深かったのだろう。
この号が発売された時点で、テレビ放送はまだ始まっていない。笠置氏の声はラジオや蓄音機で広く知られていても、姿を見た人はまだ少なかっただろう。雑誌や新聞広告などで写真を見かけるくらいではなかったか。この文章に目を通した購読者は、どのような印象を持っただろう。
「ブルースとブギウギ」
以前の記事でも言及したが、笠置シヅ子氏が歌う楽曲のほとんどを手掛けた作曲家・服部良一氏は1970年代後半、「暮しの手帖」の音楽時評欄に連載を持っていた。
第2世紀第48号(1977年)では、「ブルースとブギウギ」というそのものズバリのタイトルで記事を書いている。アメリカにおけるブルースの起源から話を始めて、都都逸にブルースのブルーノートが含まれていると解説する。
服部氏は、かねてから日本のブルースを書きたいと願っていて、1937年に「本牧ブルース」(「別れのブルース」と改題の上、淡谷のり子氏の歌唱でレコード化)を作曲した。この作品は海外でも評判を呼び、フランスの有名音楽家がパリでレコーディングしたり、タンゴにアレンジされたり、などのニュースに接したという。
一方、国内では中国との戦争が始まったこともあり、ブルースは「亡国調」と決めつけられて、あまりヒットさせられなかったという。
それでも服部氏は挫けず、翌1938年に「雨のブルース」を作曲、同じく淡谷のり子氏の歌唱で世に出す。最初は中国大陸の大連で話題になり、やがて国内でもヒットしたが、阪神間豪雨災害のため、兵庫県では演奏・発売禁止になった。
ブギウギのリズムとの出会いは、戦前に「ビューグル・コール・ブギウギ」というアメリカの曲を耳にしたことに始まるという。正確には、1941年に作られた"Boogie Woogie Bugle Boy"である。
ブギのリズムに魅了された服部氏は、日本の曲に取り入れる機会を狙っていた。1942年に制作された映画「音楽大進軍」で、「荒城の月」をブギにアレンジして演奏する。検閲もパスできた。
以後、連続テレビ小説「ブギウギ」でも取り上げられた「夜来香幻想曲(ラプソディ)」(1945年)、戦後の「ジャズ・カルメン」(1947年)を経て、1948年1月の新譜「東京ブギウギ」に至る。
1950年に「買物ブギ」がヒットして、ハワイに行ったら現地の日系人に「オッサン、オッサン」「わて、ほんまによう言わんわ」と呼びかけられて、とても喜ばれたという。そんなに喜んでもらえるならばと、戦前はブルース、戦後はブギと割り切って書いた、と締めくくられている。
その一方で、服部氏は現代のドラマでは扱えないような話も書いている。ドラマにも登場した、日劇の戦後初公演「ハイライト」に来た観衆はGI(米兵。進駐軍兵士)とストリートガール(街娼。ドラマのおミネのような人たち)が主で、一般の人々は飢えを凌ぐことが先決問題だった、と振り返る。
「ヘイヘイブギ」に、替え歌「担ぎ屋ブギ」が作られていたことにも言及している。担ぎ屋とは、いわゆる”闇物資”を地方から都会に運搬する人たち。違法ゆえ、警察はしばしば取り締まりを行ったが、運ぶものは食糧や生活必需品がほとんどで、都会に暮らす人々は闇物資に頼らないと、事実上生きていけなかった。「違法だから」とあくまで闇物資に手を出さず、その姿勢を貫いたあげく餓死した人もいたというが。
♪あなたが担ぐ時には 私も担ぐ
あなたが儲けりゃ 私も儲ける ヘイヘイ
二人でドッコイ担げば ポリスカムカム
服部氏がこの原稿を書いた時点では、食べ物の心配がなくなってから既に数十年が経過していたので、懐かしい笑い話にできたのだろうが、替え歌がどこからともなく歌われた頃は「ハッピーカムカム」などきれいごとに過ぎず、まず飢えを何とかしてくれ、その日とりあえず食うに必要だからわざわざ担ぎに行っているのであり、ポリスがそこまで取り締まるとは何事か、という民衆の切実な思いのほうが、はるかに勝っていただろう。
「ブギウギ」の脚本を書いた足立紳さんは「暮しの手帖」まで目を通されただろうか。今振り返るとこのドラマ作品は、かなり良心的に作られていたと思う。列車内をステージの延長であるかのように描く演出とか、村山愛助との交際や、オリジナルキャラクターの付け人とのエピソードなどに尺を割き過ぎているなどの難点はあったが、既に歴史上の人物の仲間入りをしている笠置氏・服部氏に対する尊敬の念を軸に据えて、脚本家の自我を抑え気味にして作劇していることが、見ていて伝わってきた。
「ジャングルブギ」あたりまでは実際に起こった出来事を無闇に改変せず、大枠はできる限り再現して、その上で脚色を乗せるように書かれていた。ゆえに、後になって辻褄を合わせづらくなったり、改変に改変を重ねざるを得なくなったりなどの、みっともない目に遭わずに済んでいる。一方、終盤登場した若いマネージャーとか、誘拐事件とか、若手スター歌手とかのエピソードは大きく改変されていて、息切れ感も漂ったが、おそらく諸般の事情ゆえに、事実をそのまま描けなかったのだろうと受け止めておく。
服部氏の文章を読んでいると福来スズ子が歌う姿が頭の中にパッと思い浮かび、その上でクスクス笑う。この号に掲載されている他の記事には長らく覚えていたものもあるが、服部氏の記事は全く記憶していなかった。福来スズ子の”出現”によりイメージが具体化できたがゆえに、文章が私にとって意味を持つようになった。
対して笠置氏が書いた文章は、活字体や仮名遣いの古さもあいまって、笠置氏のモノクロ写真しか思い浮かばない。あくまで笠置氏とヱイ子さん二人だけのものである。
実在した人物をモデルにしたドラマ化とは、そういうことだと思う。
ブギよりスウィング!
服部氏は「戦前はブルース、戦後はブギ」と書いているが、ドラマで福来スズ子が披露した歌は、戦前のスウィング歌謡「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」、南方歌謡「アイレ可愛や」の3曲のほうが、戦後のブギよりはるかに好きである。今も時々聴いている。日本の俗謡や民謡の音階を取り入れつつ、後半は狂気の一歩手前まで盛り上げていき、なおかつメロディアス。戦後、この系譜に連なる曲を作った人はほとんどいない。ブルースとブギは、いずれもご当地ものがたくさん作られるほど有名になった。対してスウィングは長い間忘れられていた形である。タイトルは「ブギウギ」であっても、スウィング歌謡を今の世によみがえらせたことが、本ドラマにおける足立さんおよび服部氏の孫、服部隆之さん一番の功績だろう。