最高権力者性善幻想
私はYoutubeなどの動画サイトをあまり見る方ではないが、新作が公開されるたびに目を通すチャンネルがひとつある。「ゆきんこKUROKO」さんという方が作る、主に関西の大手私鉄で使われている鉄道車両や関西圏の駅を擬人化して、おしゃべりをさせるという趣向の動画である。
私鉄各社で長年培われてきた沿線イメージをバックボーンとしつつ、細かいところまで観察して、話の種を拾ってくる。時事ニュースも迅速に取り入れる。JR西日本で播但線の特急「はまかぜ」に使用されているキハ189系や、南海電鉄で古くから使われている6000系など頻繁に登場する車両は、キャラクターがしっかりと作り込まれている。笑いのツボや、ギャグのセンスもよく磨かれていて、さすがお笑いの本場と感心させられる。
生身の人間がやるお笑いのほとんどはただ騒々しく、内容も笑えない。どこが面白いのだか、全く理解が及ばない。その手のテレビ番組はもう数十年と目にしていないが、ゆきんこKUROKOさんの動画はいわゆる「賑やかし」があまりなく、間合いの静寂をきちんと取っているので、心理的な負担もかからない。テロップの文字も可愛らしい。セリフに全て字幕がついているので、東京の地下鉄車内などで音声ミュートにしても楽しめる。
私は若い頃、神戸市の舞子か塩屋に移住したいと本気で望むほど入れ込んでいて、関西の鉄道には長年お世話になっているが、それでも知らないことがまだたくさんあると気づかされる。阪神の「尼崎センタープール前」駅の由来など、ゆきんこKUROKOさんの動画で初めて学べた。関西では駐車場のことを「モータープール」と称する慣習があると知っていたので、それに倣った命名かと、恥ずかしながら思い込んでいた。
一点だけ気になるのは、吃音を持つ車両キャラクターが時折登場すること。もし、吃音は笑いの対象にして構わないものとお考えならば、それはぜひとも改めていただきたい。
ゆきんこKUROKOさんの動画で一番面白かった作品は、近鉄特急の「ひのとり」「しまかぜ」を、往年の娯楽時代劇に登場する悪代官や、それと癒着してあこぎな商売をする強欲商人(あこぎという言葉は三重県津市の阿漕浦に由来するが、阿漕駅は紀勢本線で、残念ながら?近鉄ではない)になぞらえたストーリー。一般の通勤用車両を「民、百姓」と呼んで見下す。賄賂を渡す際の「黄金色の赤福餅」は近年まれに見る傑作ギャグで、お腹を抱えて笑った。
私がこの話に大笑いできるのは、子供の頃テレビ娯楽時代劇を事実上強制的に見せられる家庭環境にいたがゆえである。父は娯楽時代劇と、特定の球団を持ち上げるために制作される野球中継が大好物だった。月に2回ほど夜勤が回ってくる職業のため、毎日必ずではなかったが、家族揃っての夕食にこだわるタイプ。当時はほぼ毎日ゴールデンタイムに娯楽時代劇が放送されていた。チャンネル権はもちろん父のもので、時間が来ると大音量で時代劇を見ながら晩酌をして、私のテストの成績が芳しくないとお説教を始める。重度知的障害のある妹の、黒板をひっかくような叫び声が加わる。学校でいじめや嫌がらせを受け、ようやく帰った家庭がこの騒々しさでは、家庭を作るということや、家族揃って食事を取ることを肯定的にとらえられるはずがない。父の夜勤日は、猛暑続きの中で涼風に吹かれるがごとく嬉しかった。「飯はひとりで、静かに食うべかりけり」が、私の生涯ゆるぎない生活信条である。
私がまだ幼かった頃は、うるさい・見たい番組が見られないなどの不満はあっても、時代劇の内容はそのまま受け入れていた。「水戸黄門」など、次はどこに行くのかと楽しみにもしていた。
しかしある時期から、娯楽時代劇に強い違和感を持つようになった。徳川光圀、大岡忠相、遠山景元(金四郎)など、歴史上の実在人物を主役にしているが、時代考証は必要最低限に留めて、将軍が町火消の家の世話になるなど、荒唐無稽な設定で物語を進めていく。その基本はまだよい。許せないのはその先の段階である。たとえば「水戸黄門」では、一行がどこに行っても、現地の人は現代の標準語アクセントで話している。撮影所に近い京都・大阪を舞台にする時だけはさすがに関西なまりを出していたが、「方言や訛りは恥ずべきもの」という価値観がまだ社会の中心にあった時代である。
賑々しいBGMも、西洋音楽が基盤となっている。1910年代~1920年代に作られた無声映画を盛り上げるための楽団演奏が起源なのだろうか。少なくとも映像の舞台である江戸時代に存在していた音楽ではないはず。父の世代ならば、幼いころ周囲の大人たちから当時のリアルを伝え聞く機会もあっただろうが、私の世代は自発的に考えないと、つい錯覚を起こしてしまう。現代の”戦争体験語り部活動”にも通じる問題である。
父は、実質的な「おとり捜査」作戦を実行する忍者的キャラクターが、物理的に不可能なはずの飛び方をしたり、お色気要員キャラクターが現代的な衣装を着て登場したりなどの場面にはツッコミを入れていたが、私が口を出すとたちまち不機嫌になり、試験のできの悪さや日頃の生活姿勢をなじり始めるので、もう何も言わないことにした。
今、娯楽時代劇を改めて振り返ると、ただひとつのテーマだけを、手を変え品を変えて数十年間発信し続けていたと気づく。
「最高権力者は最良人格者であり、常に庶民の味方としてふるまう。」
娯楽時代劇における悪役は代官のような下級役人と、それに癒着して私腹を肥やす商人にほぼ固定されている。彼らは富の再分配を嫌がり、被支配者層にあくまでも自由意志という建前で、自分の目的を達成すること以外の選択をすると圧倒的に不利な境遇に置かれるように仕向ける、新自由主義的な信条を行動原理としている。その信条のもとで、貧しくともつつましく暮らす若い女性の性的搾取をはじめ、純朴な青年の奴隷化、地域の貧困化、老人の早期逝去をたくらむ。
そこに、彼らよりも立場が絶対的に上の「最高権力者」が現れる。最高権力者の一団は知恵を絞り、ある番組では自ら庶民に紛れて悪事の意思決定の場を押さえ、またある番組では忍者的キャラクターにエビデンスを上げさせる。悪党一派が実力行使に及ぼうとする段階で最高権力者側が待ったをかけて、その権威を担保とする形でエビデンスを示し、悪党を降参させて、しかるべき刑罰を与える。
この展開は、「最高権力者は民衆に優しい人格の持ち主であり、いち早く”基本的人権”の概念を理解し、富が一部の人に偏在しないよう、常に気を配っている」ことが大前提になっている。
この発想はいつの時代から現れたのだろうか。水戸黄門や大岡越前などは、江戸時代の都市在住者をターゲットとする形で作られた講談本が元になっている。おそらくその時代の庶民が、圧政から一時でも目を背けられるように、”理想の為政者像”を作り上げていったのではないだろうか。
それならばこの種の創作活動は徳川政権の終焉とともに自ずと下火になり、歴史の奥へ消えていくはずである。しかし実際は近代国家体制の下でも生き残り、やがてマスメディアの時代を迎えて、拡大再生産されていった。なぜそれが可能だったのか。私は未だその答えを見い出せていない。
父の時代劇趣味は、幼い頃曾祖母(父から見て祖母)に、その種の講談本をたくさん読ませてもらったことに由来すると聞いた。磐城国浜通りで1867年に生まれた曾祖母は「江戸時代のリアル」が次第に過去のものになっていく時代を生きた人。その立場で”旧体制時代の娯楽”を何の疑念もなく受け入れ、後年孫に喜んで伝えたという事実は、歴然と存在する。
最初から目的にしていたかどうかはわからないが、「最高権力者性善幻想」を原動力とする作劇は、受け手の庶民に「政や世の中の動かし方について、自分で知恵をつけて考えなくてよい。」という、他力本願の考え方を涵養しなかったか。「自分は目の前の仕事を誠実にやりさえすればよい。世の中の動きに口出しするのは畏れ多く、はしたないこと。」という信条を生み出さなかったか。「役人や富豪たちが不正をしても、生活上の不利益を押し付けても、いつかは最高権力者が”世直し”に現れるから大丈夫。」という錯覚は、正常性バイアスの元にならなかったか。たかだか旧世代の娯楽と侮るなかれ。娯楽時代劇がふりまいたこれらの”毒”は、今の社会をも蝕んでいる。
現代社会は”悪代官”と”強欲商人”が何十年と居座り、たまに悪事が露見しても、責任を認めるだけで取ろうとは決してしない世の中である。自分たちの利権のためならば”近鉄の一般車両”の暮らしがどれほど苦しくなろうとも、年貢(税金・保険料など)を増やすことを厭わない。”御兎様カード”を筆頭に五輪、整備新幹線、超高層建築一本鎗の都心再開発など、合理的に考えたら国益も民衆益も損なうはずの事業をどれほど反対があっても強引に押し通し、「民主的に進めている」と胸を張る。若年層に期待しようにも、見てくれが格好よく、やたら威勢のいいことだけ言うが、中身は空疎な人物のほうがもてはやされてしまう。これでは「正義の味方が決して現れない、終わりのない娯楽時代劇」を延々とやらされているようなものである。「暴れん坊将軍」のテーマ曲は今でも結構よく知られていて、スポーツの試合の応援で演奏されているが、それは決して喜ばしいことではない。
制作陣の自覚の有無にかかわらず、娯楽時代劇は結果的に、「パンとサーカス」のサーカスの役割を担ってきた。ノスタルジーをベースとして、ツッコミを適度に入れながら娯楽時代劇を語る人はいるが(連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」でも、主人公は時代劇制作映画会社を就職先としていた)、娯楽時代劇的なコンテンツが長年日本の庶民心理に与えてきたマイナスの影響について直視して、考察を加える活動があってもよいと思う。
本稿を書いているうちに、某大河ドラマも往年の娯楽時代劇の影響を結構受けているのではないかと思い至った。藤原道長を無理矢理にでも清廉潔白な権力者に仕立て上げた挙句、キャラクターがブレまくる。対して藤原道隆や伊周は人格が破綻した敵役として、あからさまな悪意を持って描く。”お色気要員キャラクター”や”忍者的キャラクター”も登場した。丁寧に作劇すれば歴史に残る傑作になるはずの題材を取り上げながら、出鱈目で底の浅い展開に甘んじたのは、脚本の先生や制作陣の中枢がテレビ娯楽時代劇全盛期に育った世代の人であることも影響していないだろうか。