朝の蟲こそ
一年で最も疎ましい季節を迎えた。
年々ひどくなる暑さと湿気。
早朝5時前後に起きて、2時間ほどかけて食事と家事を済ませると、もう汗がにじみ出るほど気温が上がっている。昼前から午後は頭がぼんやりして、何もやる気がなくなる。物を書くのも、音楽に耳を傾けるのも、本に目を通すのも面倒になる。汗まみれになるのが嫌なので、外出は必要最小限にとどめる。眠くなったらすぐ横になるが、10分もしないうちに目が覚めてしまう。仕事から離れて、本当によかったと思う。
夜になってもモワッとする空気に包まれる日が続くと、窒息しそうなほどの絶望感を覚える。
今年は、無事に秋冬が来てくれるだろうかと不安になる。
昔の人が語り継いでいた「炎熱地獄」とはこのような状態のことではないかと思う。決して大げさではなく、人類滅亡への扉が開く音が聞こえてくるかのようである。
これほど暑い未来になるとは思わなかった。
私が子供の頃は、「21世紀は氷河期になる」とよく言われていた。「温暖化する」という予想は、以前にも紹介した『暮しの手帖』第1世紀48号(1959年)の記事くらいである。未来予測の反省会を開くのならば、真っ先にこの件を取り上げてほしい。
おそらくは、このまま暑い、暑い、暑い、暑い…とうめきながら死んでいくのだろう。エアコンはもはや、事実上の生命維持装置である。
…と書いているだけで、気が滅入ってくる。「冬期うつ」という病名があるが、「夏期うつ」「熱帯夜うつ」も認めてほしい。
短期集中的に暑いのならば、まだ許せる。
近年はだらだらと、延々と暑い。
とりわけ5月と9月が、ものすごく暑くなっている。
かつて作詞家の松本隆氏は
で締めくくる歌詞を書き、筒美京平氏が曲をつけてヒットさせた。その頃は8月下旬になると最高気温が30℃に達しなくなり、夜は20℃を下回る日も珍しくなかった。子供は寝冷えに気をつけるように指導され、スイカなどの食べ過ぎを戒められた。もう、この詞でうたわれるような九月は望むべくもないのだろうか。
昔は日本の北東に「オホーツク海高気圧」というものができて、それが強い年はいわゆる”やませ”が頻繁に吹き、冷夏になった。楽しみにしていた海水浴を前に、どうしても気温が上がらず、海の家でふるえながら温かいラーメンを食べた記憶もある。東北地方の農家では、やませ対策に生涯を費やした人も少なくない。対して今は、気温が上がらなくてもいいのに、勝手に上がってしまう。人生とかくままならない。
この記事を準備していたら、「40℃近くなる日が多くてコシヒカリが育たず、収穫しようとしたら質の悪さに絶望した」という新潟県の農家の方の談話がニュースに上がっていた。かつて「冷害で米が作れない、暑くなってほしい」と嘆いていた、その口でおっしゃるのか。
オホーツク海高気圧が”絶滅危惧種”になってからも、関東地方では数年前まで、ひと夏に数回北東からの涼しい風(プチやませ?)が吹き、雲で陽射しが遮られて、いくらか過ごしやすい日があったが、昨年あたりからそれさえもなくなってしまった。一度梅雨明けしてしまうと太平洋高気圧やチベット高気圧が「死ぬまで君を離さないよ、いいだろう」と言わんばかりの勢いで、文字通り暑苦しく抱きしめてくる。(例えが古すぎるか?)生きながら、斎場の炉に入れられるような心地がする。
台風や雷雨も、昔とは違う顔になった。雷雨で一時的に気温が下がっても、すぐに陽射しが出て、湿気が高いままに気温が上がってしまう。”台風一過”はめっきり少なくなり、本体が去った後でも周辺の湿った空気が悪さをする。温帯低気圧化して居座る者も多い。
台風翌日の小学校始業式で、長い訓話を聞いているうちに厚い雲が東へと流され、青空の面積が西から次第に広がり、話が終わる頃にはグレーの雲とブルーの空が半分ずつになり、教室に戻ると同時に校庭が初秋の陽射しに包まれた日は、はるか遠い思い出となった。
人類の歴史は、そのほとんどが寒さや飢えとの戦いだった。暖かくなることを喜び、夏に爽やかな開放感を覚える心の動きは、多分DNAレベルで刻み込まれているのだろう。
難しいことは承知の上で提唱したい。
これからは涼気を尊び、冬を最上の季節として待ち望み、春にそこはかとない哀感と、まもなく長く厳しい季節を迎える覚悟を持つ社会になってほしい。行く行くは「冬眠」ならぬ「夏眠」できるように進化してほしい。
太平洋高気圧。
チベット高気圧。
南からの暖かく湿った空気。
上空1500mの暖気。
30℃を超える海水温。(ほとんど”お湯”ではないか。)
ゆっくり進む季節。
暖冬。
2月半ばの生暖かい風。
これらは全て、人類の敵と再定義してほしい。笑顔で予報している場合ではない。桜の開花宣言が出たら「今年も、厳しい夏への備えが必要です」のひと言を添えてほしい。
と、支離滅裂な悪態をついているが、ひとつだけ昔と同じように、季節の移ろいを感じさせてくれるものがある。
毎朝、庭先で鳴くスズムシやマツムシである。どんなに暑くても立秋を過ぎると少しずつ鳴きはじめ、8月末にはよく響くようになる。朝になってもしばらく鳴いていて、まさに清涼剤である。虫たちの鳴動は気温や湿度とは別の条件でコントロールされているのだろうか。
虫の鳴き声といえば、啄木短歌を思い出す。
1891年、日本鉄道が盛岡-青森間の鉄道路線を開通させて、上野から直通列車を走らせ始めた時、沿線の岩手県岩手郡渋民村に住む石川啄木は5歳だった。「村一番の神童」と持ち上げられていた彼にとって、乗りさえすれば東京に行ける汽車は、憧れの的であっただろう。
しかし、当時の渋民村に駅は設置されなかった。(渋民駅は1943年開業)啄木が実際に汽車に乗り、東京や北海道を目指すようになった時は、渋民村から北へ4kmほど歩き、好摩駅から乗車していた。
この歌は、早朝好摩駅に着いて汽車を待つまでの情景を切り取ったものだろう。スズムシやマツムシ、コオロギの鳴き声に、夏から秋への季節の移ろい、ひいては自分自身や家族の境遇の移ろいを感じ取ったのだろうか。
「すずろなり」は「何ということもない」「思いがけない」「無関係だ」「むやみやたらだ」(Weblio古語辞典より)という意味の言葉である。「頭中将(藤原斉信)のすずろなるそら言を聞きて」の「すずろなる」は「いい加減な、出鱈目な」と解釈されている。もともと、あまりよい意味の言葉ではない。しかし啄木は「何ということもなしに心惹かれる」と、趣のある風物の形容に使っているところが面白い。「すずろなり」の、どこか涼しげな語感と詩的リズム感が気に入っていたのだろうか。
1960年秋、地元の人は72歳になっていた啄木の妹・三浦光子を神戸市から招いて、この歌を揮毫した歌碑の除幕式を行った。戦前戦後を通じてキリスト教伝道師として働いてきた彼女にとって、久しぶりの帰郷だった。新幹線ができる前の時代で、「寝台車はかえって疲れるから」と、東海道本線・東北本線の夜行急行座席車を乗り継いで来たという。現代の”鉄オタ”がどれほど望んでもできない旅である。光子は若い頃、啄木に連れられて故郷渋民を後にして、好摩駅から汽車に乗り、函館を目指した。その後小樽で洗礼を受けてキリスト教を生涯の仕事と定めた。彼女にとっても、朝の好摩駅で聴いた虫の音は、大切な故郷の思い出だったのだろうか。
☆☆☆
今週(2024年8月18日からの1週間)後半は、北から前線が近づいて、全国的に曇りや雨の日が多くなるが、相変わらず蒸し暑く、熱帯夜からは解放させてくれないという予想になっている。せめて、熱帯夜だけはもう勘弁してほしい、後生だから。かつて8月下旬の曇りや雨は秋雨のはしりだったはず。『九月の雨』もその前提があってヒットしたのだろう。その細やかな移ろいさえも地球から奪われてしまうのか。