カトリーヌ・マラブーが語る「神経科学とその不安」:研究セミナーの参加レポート
出会いとしての哲学への権利
キャトリン(以前もそう断ったように、カトリーヌでもキャサリンでもなくあえてこう表記しておきたい)を最初に知ったのはいつだっただろうか。確かあれは大学3年生になり、入りたかった2つのゼミ(1つは財政学、もう1つは実践的な経済学を英語で学ぶプログラム)のどちらにも入れたけど、期待していたような知的興奮を得られず、かなりもがいていた時期だったと思う。どうやってそのイベントを知ったのか全く覚えてないのだが、私は2010年4月23日に確かに一橋大学で西山雄二氏の映画『哲学への権利ーー国際哲学コレージュの軌跡』の上映会に参加した。多分原点に戻るという意味で「哲学補給」が必要だったし、何よりそのタイトルに惹かれていた。私にも哲学にアクセする権利があるのだと自分に言い聞かせながら。そして、銀幕の向こうで初めてキャトリンを見た。
私は相当この西山雄二氏が手がけた映画に影響を受けたし、その後の鵜飼哲氏とのトーク・セッションも刺激的な内容だったことを覚えている。その証拠に私は上映後すぐに、何か勇気をもらったのか、何かが吹っ切れたのかなんなのかわからないが、初めてTwitterのアカウントを作り、初めてのTweetをしてみた。そしてそのこのイベントの感想をこう呟いた:
また影響を受けたと言えば、本作品のポスターのビジュアル。今でもこのnoteやその他SNSで使用している私のアイコンは手が写った白黒写真を使用しており、それはそのまんまへこのポスターへのオマージュである。
そしていつになるかわからないが、この「旅+インタヴュー」形式というフォーマットでリチャード・リンクレーターの『ウェイキング・ライフ』みたいな映画を製作してみたいという夢をまだ持っている。最後に、映画内の7人の話を聞きながら(特にボヤン・マンチェフ氏が公園らしきベンチで語る姿には惚れ惚れした)、改めてフランスへの憧れが強まり、いつか留学してみたいなと思った。まぁ、私は実際、見事その数ヶ月後にはフランスへの交換留学が決まり、その翌年にはフランスに住むことになるのだが。
その上映時、私はキャトリンを7人のうちの1人、ただの国際哲学コレージュの関係者としてしか認識していなかったが、翌月の5月に武藤浩史氏の『「チャタレー夫人の恋人」と身体知』を読んだ際に、その脚注のどこかで脳神経からグローバル資本主義への対抗策を考えている面白い研究をしているフランスの哲学者がいるという一節があり、参考文献からその本を手に取った時に「どこかで見覚えのある名前だな」と思い、西山氏のホームページを再確認して点と点がつながった。「あの一橋で見た西山雄二の映画に出演していたカトリーヌ・マラブーという人が、この『わたしたちの脳をどうするか』という武藤先生の脚注で紹介されていた本を書いた人なのか!」と。
(「論文や本を読めるようになりたければ、脚注に書かれている真理を探しなさい。」フロイト的失言(Freudian Slip)に絡めて、脚注にある小噺にこそ本音が隠されており、本文と脚注を分つ分断線こそが建前と本音の境界線である、ということを私に教えてくれたのが、そう、武藤浩史氏本人である。)
宛先に届くメール:不安、認識、リズム
そこから14年以上が経過した2024年8月上旬。西山氏のポスト(14年も経てばPost-StructuralismはPost-Poststructuralismになり、TruthはPost-Truthになり、TweetはPost-Tweetになる。)からキャトリンが東京で講演を行うことを知り、早速彼女に暑中見舞いの意も込めて、とある写真と一緒にメールを送る。
スイスのヨーロッパ大学院(EGS)での講義から戻ったばっかりであること、9月に東京で会えないのは残念だけど多分講演内容は何らかの形で録画されていると思うということ、また来年の1月末にロンドンで会える機会があれば、という内容の返信だった。それに「イカしている写真もありがとう」とも書かれていた。14年前はスクリーンの向こう側に、それからはずっと文字の向こう側にいたキャトリンと今はメールで連絡を取っている。なんだかまだ夢でもみているような、今でも不思議な気分だ。が、少しだけ時間を巻き戻そう。
約7ヶ月前の1月下旬に「不安について」と題された博士課程向けの研究セミナー(3日間の集中講義)が開催された。普段はある程度空間的余裕のある教室がパンパンになっていたのを記憶している。確か、他大学からの聴講生もいた。キャトリンはイギリスでも大人気だ。
その講義の感想に入る前にまず有権者に訴えたいのは、キャトリンは名前を覚えるのが早いという事なのであります。それには本当に驚かされた。40人弱の学生の名前を最初の一瞬の自己紹介だけでほとんど覚えていた。2日目だったか、私が教室のドア近くの席だったために、外の音が入ってこないようにドアを閉めると、「ありがとう、〇〇」と私の下の名前を呼んでくれた。やっぱり嬉しかったですよ、「あのカトリーヌ・マラブーが私を認識してくれている!」と。もちろんそれ自体が権威主義的だったり、権力の模倣だったりするわけですが(この記事なんてまさにパラサイト的存在だ!)、まぁでも嬉しいわけですよね、スーツのまま田んぼの中に入っていき握手してくれる感じって。ドブ板はやっぱり効くのです、いつの時代も。このわざわざ3日間しか会わない学生「にもかかわらず」名前を覚えるってのがグッときてしまうポイントなのかもしれない。
あとは、キャトリンは英語はもちろんのこと、授業が上手い。授業の構成がしっかりしているし、柔らかな力強さを持つその喋り方によって、いつの間にか彼女の独特なリズムに乗せられてしまっている。そして、その独特なリズムを作っているのが彼女の、一呼吸置くときの「ぅん」という終助詞だ。これはおそらくフランス語の口語的付加疑問文の'non?'からきているのではないかと私は疑っている。「〜じゃない?」「〜だよね?」の意味で「ぅん」と、まるで自分を、そして聞き手を納得させるように、キャトリンのリズムを作っていく。(もし気になった方は、Acid Horizonのキャトリンが出ているこの回を見てみてほしい。ちなみに、共同設立者のAdamは私の通う大学院の博士課程に在籍する先輩だ。)
神経科学とその不安
1日目に主にラカンを使って不安についての一般的導入から始まりハイデガー的不安へ、2日目はフロイト的不安、無力さや欠如の欠如、そして偶発性について、最後の3日目には不安の政治的側面について、という流れで講義が進んでいった。
1日目:ラカン的不安の理解とハイデガー的不安
まず1日目は不安に対象はあるのかという話から始まり、フロイト、そしてラカンは不安というトピックに対するスタンスが途中で変わったことを指摘する、いや、正確にはそのトーンが変化した、と。
そこから不安、恐怖、危険と欲望の差異について、また抑圧の権/力と不安との関係についてが話され、ここで快・不快や時間性が導入され、ハイデガー的不安の持つ「対象の不在」さ、つまり全てにおいてパニック状態であることが説明される。
ラカンの想像界、象徴界(同じコイン(エコノミー)の表裏)を使って、欲望の力によって、愛と不安がいかに近くで繋がっているのかを明らかにし、患者がそのどちらで囚われているのか明らかにすることが精神分析の仕事であることを強調する。魅力的で恐ろしい神への愛を思い出してほしい。「今野、そこに対象はあるんか。」という問い。物自体に変容する不安、現実界。
ハイデガーの現存在の(Dasein)の存在者的と存在論的な二重性。常にすでに、存在するという経験の気分(ムード)の中にいる現存在。不機嫌(ムードのなさlack of a mood)すらもまた気分(ムード)である。このコントロールできない気分(ムード)から不安や恐怖が生まれてくる。不安は恐怖のもとで湧き上がっている。不安とは、何も無がないという経験(experience of nothing of nothingness)、そこからの逃避。
Suspension for anxiety!(不安を煽るために一時中断!)と1日目が終わる。
講義が終わった直後、キャトリンに2021年の脱構築研究会が主催したオンラインの講演を聞いてたよ、と話すと「あの時、実は、こちらの画面からはしゃべっている人の顔が見れなくてすごく不安を感じていたんだよ」と言われたので、「一般視聴者としては問題なかったけど。対象が不在だったら不安にもなるよね」と返したら「上手いわね」と笑いながら返された。
2日目:フロイト的不安、死の欲動、偶発性
2日目はフロイトの不安を、圧力の源泉である欲動から説明することから始まる。逃避と非難の間にある迂回ルートを探る、どうやってこの圧力から逃れらるのかと。なぜ逃れる必要があるのか。それほど欲動は危険で強すぎるから。それは満足を知らないから。欲動によって狂わずにいるために、抑圧があるというのがその本質。意識との距離を取ること。
不安は、あるエネルギーを違うものへ(one place to another) 変容させる。例えば嫌悪。嫌悪は不快なものであるけれど決して危険なものではない。だから不安によって欲動の危険性から守られていると言っていい。その治療の一形態が抑圧。
ここに大転換がある:抑圧が不安を作っているのではない、不安が抑圧を作っているのだ。
ここから不安の起源に迫る。それは切断、分離、つまりはラカンのいう欠如。生は愛である母から見捨てられること、その生もいつか私を見捨てる、つまりは死によって。この分離、見捨てられることの脅威、その救い難いもの、どうすることもできないこの無力さ。死の欲動とはこのどうしようもできない無力さの欲動。2つの回避策がある:1.済んだことを元に戻す、2.疎外。この死の欲動の発見の以前以後でフロイトは全く別の人に変身した。
フロイトにとって死とは、常にあなたを囲む敵によって形成されるものであり(つまり、敵とはあなたなのだ!)、ハイデガー(生とは死に向かうもの)とはまったく異なる、だからハイデガーはフロイトを憎んだ。キャトリン自身の立ち位置を自分で説明すると、彼女は、意識についてはハイデガー的(共に生きる)であるのに対して、無意識についてはフロイト的(死は敵であり、敵はあなたの周りにいる)と確信している。
重要なのはどこでそのナイフでの切断を止めなければならないのか(外科手術的にはメス)。分析とは切断、切ること(キル/Kill?)。プラトンの「哲学者とは肉屋である」を想起せよ。ここで、キャトリンはそのイメージにティム・バートンの『シザーハンズ』をイメージとして使っていた。なぜなら「キャラが可愛いから」という理由だったが、もう少し「哲学者とはエドワード・シザーハンズである」を追ってみてもいいかもしれない。
ここから切断すら不可能な現実界の話に入る。対象の欠如が欠如している。影、ゴースト、母親や鏡を持つ手。対象(物体)ではなくモノ(現実の全体性)に対する恐怖。切断は不可能だが、象徴化は可能な現実界。しかし、象徴化から逃れるモノとしての不可能性。欠如の非意味的構造がモノ、現実界。
反復のエンジンであるオートマトン(automaton)とテュケー(tuchè)。オートマトン(automaton)においては、夢願望が現実界から象徴界へ変容させる。一方、トラウマや理由ならざるものの原因ともなるテュケー(tuchè)。現実界があれば必ずテュケー(tuchè)があり、つまりそれは偶発性ではない。これがキャトリンにとっての精神分析の問題。
ここであの有名な「燃える子供の夢」が登場し、ラカンには必ずロウソクがそこに存在する、してしまう。キャトリンの同僚がヘーゲルには必然しかなく、偶発性がないと彼女に言ったらしいが、それは全くの逆でヘーゲルは偶発性でいっぱいだった(→『ヘーゲルの未来』、またこの本ができた経緯、デリダとマラブーの関係と映画『哀れなるものたち』の共通点についてはこちらの記事を参照下さい)。絶対知とは何か、偶発性で満ちたものを見にいった。しかし、名状しがたいものがそこには横たわっており、どうしてもそれ以上進めなくなり、その場所から行き詰まったために、神経科学へと近づくこととなった。
この日の出来事で今でも印象に残っているのが、キャトリンが「燃える子供の夢」を丁寧に解説しながら、彼女にとっての精神分析には如何に偶発性がないか、いや、そこに必ずロウソクがあること、それが彼女にとって如何に問題なのかを説得的に語っている時に、1人の院生が「その夢って本当の夢ですか、それとも作り話ですか?」って聞いた時にそのアンサーとして一言。'Who cares!'(そんなことどうでもよい!/誰が構うの!/気にしなくていい!)かなりのパンチラインだった。
3日目:不安の政治的側面の幕開け:精神分析と神経学の間に
最終日である3日目は、フロイトによる精神分析と神経学の分離(Separation!)が行われた後、どうして精神分析家は脳という概念に耐えらないのかという話から始まった。感情、感情的な脳という衝撃。「心理的トラウマは無力な者の苦悩である」(ハーマン(1992)『心的外傷と回復』)場合、どこにトラウマを位置付けるか。脳の損傷による人格変化、精神的変化をどう扱うのか。(ここでキャトリンがおもむろに、キューブリックの作品は全て脳について映画、あるいは常に脳に関連する映画だと言っていたのが印象的だった。)
精神分析と神経学、キャトリンの言説はその間にある。例えばスキゾフレニアについてのそれぞれの説明について。OCD、PTSDの登場により、精神分析におけるフロイトの概念から置き換えられていく。ついには不安という概念が完全に消える。脳のメカニズムについての理解を深めるものの、神経学ではうつ病を治せない。
かと言って、精神分析は「理由がないこと(無意味さ)」を常に避け続け、アクシデント(事故、偶然)をどうしても何かと結びつけてしまう。記号化されていない純粋なアクシデント(事故、偶然)が人の人生や自分の生い立ちを変えてしまう。この偶発性には理由はない。偶発性は理由なきアクシデント(事故、偶然)だ。だから、キャトリンの関心はトラウマにある。精神と偶発性の和解をどうやってやるか。ドゥルーズ&ガタリには多様体やそのたくさんの痕跡はある、だけど偶発性がない。
どうやってこの、偶発性という概念を操縦するのか。問題は新しいナラティブをどう発明していくのか、あなたの敵になり得るナラティブを発明していくこと。ナラティブの失敗性。物体に触れることに失敗すること。ヒッチコックの『めまい』。そして最後に、キャトリンの新しいナラティブとして、とあるあまりにも意外なテーマについて話し始めて、それが現在取り組んでいるプロジェクトのトピックであることが明かされて、3日間に及ぶ講義は幕を閉じた。
3日目の講義中に私は2つほど質問した。1つは、フロイトの『文明とその不満』で出てくる「罪悪感としての不安」がこの集中講義で取り扱われた「不安」のどこに位置づけられるのか。2つ目は、「差延」とは対照的に、可塑性の概念は絶対的に有限であるからこそ、ヘーゲルから神経科学、『抹消された快楽』から続くアナーキズム、そして不安から今回最後に明かされたとある意外なテーマへと形を変えているのか、それとも可塑性が概念として十分(適切)ではなくなった(物足りなくなった)ために見捨ててしまったのか。2つ目の質問にはキャトリンも「私がいつ可塑性を見捨てたっていうの?!」とちょっと怒っていたが、こちらの意図をちゃんと伝えると満足のいく回答を得られた。
終わりに:レセプションにて
以前も書いたように、3日間にわたる集中講義の後、Swedenborg Houseでキャトリンによる公開講座が行われた。(音声データもあるから聞いてみてほしいし、音声データにはない質疑応答のエピソードについても書いたので読んでみてほしい。)その後近くでレセプションが催された時に、また彼女と話す機会があった。
いつメンの1人(あのニュージャージー出身のBだ)とキャトリンと3人で話していると「最近、私たちラトゥール読んでるんだけど、彼についてどう思う?」という不躾な質問に対して、「ねえ、私とっても疲れているんだ、わかるでしょ(Hey, I'm so tired, you know.)」とキャトリン。すると、その友人は'Are you tired of Latour?'(「ラトゥールにうんざりしているってこと?」)とB。もう話にならない、といううんざりした顔をした後おもむろに話題を変えるように「そういえば、聞いたよ。なんでも学部は経済で、日本を離れて東南アジアでずっと働いてきて、それで今は哲学で修士課程なんでしょ?」とわざわざ私の背景についても他の先生から聞いてくれていたようだったので、あなたの哲学と神経科学の接続のように、哲学と経済学の接続をメインでやっていきたいということと、ロンドンで哲学やりたいと思ったのもあなたの影響だということを素直に伝えた。
「Kazu(藤本一勇氏?)やYuji(西山雄二氏)やMasaya(千葉雅也氏)やその他の研究者のおかげで日本では受け入れてもらえたし、その他のアジアでも、アメリカでも、こうしてイギリスでも。でもフランスではね。。。」と最後はちょっと寂しそうな表情だった。「そんなミーハーぶらないでよ」と言いながらもツーショットで写真を撮ってくれた後に、最後に「疲れているし、明日もBlackwell'sでイベントあるから先に帰るね、1つだけアドバイス。(どこまで学際的な研究でも)哲学を諦めないこと。」と言ってくれた。
9月7日、9月9日に東京でキャトリンの講演を聞ける人たちが羨ましい限りである。どちらのタイトル(「死の思想をめぐるフランス哲学の新たな展望」と「伝統と革新のあいだの脱構築」)も刺激的である。彼女がメールで書いていたように、もし講演の録画が脱構築研究会かどっかにアップされれば、是非とも見たいな。
「起きて、ねぇ、起きてってば」。たしかに自分の子である。背中が急に重くなったのを感じる。あり得たかもしれない人生を夢で見ていたという自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。笑えてイビキかいて二度寝だ、同じ夢の続きを見るために。
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