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高堂つぶやき集。
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#エッセイ

ウランバートル郊外の草原にはところどころ頂に神が祀られてある。一見、神だとはわからない容貌だけれども、たしかに独特な靈氣を放っている。案内してくれたモンゴル人はシャーマンの末裔で、己自身が神殿なのに改めてそれを外界に置く意味がわからないという哲學の持ち主であった。人こそ神なのだ。

銀座九兵衛の大将に握ってもらった際、醬油皿に鳥が二羽飛んでいた。その折は「あゝ、鳥だ」と感嘆しただけであったけれども、今その一葉を見返すと、なぜ人はこれを鳥と視るのかとおもってしまう。否、おそらく十中八九は鳥として認知されるだろうが、実際は筆でさっと書いただけのものなのだから。

ふり帰れば21回目のビックバン、計2兆5千万年の宇宙がある。たしかに真理から眺めれば時は存在しないものの、逆に云えば「今ここ」こそ2兆あまりの年月の集大成であり、全宇宙の中心になる。それ故に人の寿命はかくも短く、はかない。しかし、それ以上に無常なのは実は人よりも星に違いないのだ。

ハンガリーの博物館で茶を点てた際、収蔵まえの茶碗を使わせていただいた。ご夫人が逝かれたあとに師が焼いた黒茶碗で、現地の客にも愛でられていた。それから三年後の暮れ、師も急逝し、茶碗だけがその博物館に今も収蔵されている。願わくば百年おきくらいに蔵からだし、一服点てて欲しいものである。

世界中で感染なる言葉がニュースをかけめぐっているけれども、私は日本語の「感じて染まる」ニュアンスが昔から好きである。人として日々、感じて染まっていかなければ、生きながらにして死んでいるのと変わらない。無論、コロナ感染はいただけないが、今朝もひとかどのものを感じ、染まっていきたい。

時空越えをされた方は等しくこうおっしゃる。今ここしかなしと。たしかに真理なものの、そんな安易に聖人面される一場というのは概して醜い。やはり真理を識っていてなお、未来に声をあげ、過去を愛す方が増えて欲しい。たとえ真理から外れてもまたそれもおもしろしと視る余裕こそダンディズムである。

人は情報をちゞめて経験する。わずか3%の情報を美化して、外界を視ているわけである。その脳からの脱獄は陽を意識的に視よと先人は説く。その点で過日の海からのぼる朝陽はたしかであった。無論、朝陽と夕暮れの身体的経験はまったく異なる。陽のさらに奥を視ること。これを解脱といった。陽を視よ。

先ほど理事長をさせていただいているNPO法人読書普及協会の総会を終えた。18年の歴史のなかで初オンラインによる総会であったが、北は北海道から南は宮崎までと、全国から「100年後に残したい1冊」を片手にご参加してくださった。やはり、本とのであい&人ととのであいには至極のものがある。

縄文人はこちら(here)をサトと呼び、あちらをヤマ(there)と呼んだ。ヤマは魂が集う異界であった。ヤマ登りは或る意味、神が棲まいし中央へとでかけ、神の遣いとして帰還することであった。それが故に人はヤマ登りを終えたものを英雄視し、サトとヤマのあいだに神社を建ててきたのである。

NY Cafeの玄関には異様に反りかえった天使が彫られてある。借りができたのは着物で真夜中のブダペストを散歩した挙句、迷子になったときになる。方向音痴が過ぎ帰宅困難を覚悟した夜明けに、黒光りする天使が突如現れ、街の東西南北を私に示してくれたのであった。諸君、やはり天使は黒に限る。

東京に豪雨が、プノンペンではしとしと雨が増えて幾年か経つ。それでも淡々と水無月には紫陽花が咲き、年月が流れた。じめじめとして敵わぬとこれまで海外逃亡をくり返してきたが、眼前に花が咲いているでせうと云わんばかりの疫病流行。傘をさし、懐にひっかかっていた時計を今朝も愛でたいとおもう。

水たまりに闇しか映らぬ時分の散歩は厭ではない。目立ちたがり屋の陽ざしも居留守をしておるし、街の喧騒も自粛しはじめる。なにより中空を横断する天使の羽根が黑ずんでゆく夜景がよい。惡魔なき天使なんぞにいつまで現を抜かしているおつもりか。漆黑の日輪を愛で、堕天する。これぞ夜の散歩である。

秋の紅葉より、巫女の袴のほうが映える写真がある。前者には夏の青を背負いし赤を想い、後者には原始の赤を感じる。概して異色のあわせがその深みを際立たせるものの、それは感覚や思考といった五感の獄中での話に留まる。一切を棄て果てたさきにある景色は、血そのものの色しかないのではあるまいか。

靈は霊に堕してから、祝詞箱を意味する「口」を三つも失い、文字通り靈力を失った。人が守護靈に依存するようになった分岐点である。肉がある奇蹟を忘れ、目に映らぬ虚へと逃げた。本来は人が靈を護るべき存在であるのに。このような心意氣を灯せば、日々、靈は肉端会議をしにやたらと人に集まるのだ。