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高堂つぶやき集。
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2020年6月の記事一覧

すっかり西欧化の奴隷になり、絶対美と云えば黄金律とパブロフの犬のように吠えられるが、東洋にもカネワリなる絶対美への計算方法がある。美に東西はなく、たどりつく絶対美もほぼ等しいが、ただ東洋は絶対美をだしたあと、あえて九㎜ほどズラし、近似値をとる。その微かな外れに美を視るからである。

木の根に肥点を打つことで、漢字の「本」は誕生した。上が強調されたなら「末」になり、「本末」ははじまりと終わりをいう。おそらく宇宙のはじまりも本であった。詩集からさえずりが生まれ、絵本から風景がでてきたのである。人が本を書いたのではない。本が己を読ませるために、人を誕生させたのだ。

近年は花より葉が目について仕方がない。葉の名残りが身に沁み、人でありながら植物的な息遣いに憧れる。人の肺呼吸は、より高次元の鰓呼吸への寄り道に過ぎないと視る方がおいでたが、究極、動植物の呼吸を両輪として生きることは可能なのであろう。そのとき初めて人はまことの花を咲かせるのである。

橋には物語がある。概して川は村の外れにあり、そこに橋が架けられるパタンが多かったからだ。新しき靈は等しくあちらからやってくる。そのあちらを繋ぐのが橋であった。やがて橋は巨大になり、文明色が強くなった。真っ暗な川に映る橋の灯りを眺めていると、そこからまた物語が架けられるようである。

皆が来てくれたと祖父は微笑し、祖母の墓に花を活けた。そよ風が吹き、ふと見あげれば光に照らされた紅葉があった。葉は一様に視えながらも、そこには濃淡があった。濃淡ごとに奏でられる葉擦れが青空に響く。やがて風もやみ、千手の紅葉も祖母に合掌してくれた。そんな初夏の一葉を今年も眺めている。

過日の茶室に飾られていたお軸は『渓聲』であった。或る晩に坐っていると、水のせせらぎが釈迦の聲に聴こえたという有名な蘇東坡の句になる。眼と同様、私たちの耳には外界の聲がほとんどはいっていない。おそらく森羅万象が今朝もささやきかけてきているものの、一度も耳を傾けられたことはないのだ。

まだ眼球にできることはあるのだろうか。こうして人は視えぬ世界へと惹かれていくが、近年、私は眼前に映る物質を愛でるようになってきた。量子的に虚構でもよい。今ここで触れる奇蹟はなかなか味わうべきものであろう。そして、やがては視ること自体が眼で触れる感覚にまで昇華していくようである。

NY Cafeの玄関には異様に反りかえった天使が彫られてある。借りができたのは着物で真夜中のブダペストを散歩した挙句、迷子になったときになる。方向音痴が過ぎ帰宅困難を覚悟した夜明けに、黒光りする天使が突如現れ、街の東西南北を私に示してくれたのであった。諸君、やはり天使は黒に限る。

現地名しかなく、しかも私にはそれが聴きとれぬ食べ物がかなりあった。また口に入れたいと渇望するものも少なくないが、いかんせん名がわからないのだ。筆頭はZacatecasの裏路地で出逢ったパンもどきで、帰國まえに再び足を運んだが、やはり覺えられぬ音であった。やはり無名こそ美味である。

東京に豪雨が、プノンペンではしとしと雨が増えて幾年か経つ。それでも淡々と水無月には紫陽花が咲き、年月が流れた。じめじめとして敵わぬとこれまで海外逃亡をくり返してきたが、眼前に花が咲いているでせうと云わんばかりの疫病流行。傘をさし、懐にひっかかっていた時計を今朝も愛でたいとおもう。

水たまりに闇しか映らぬ時分の散歩は厭ではない。目立ちたがり屋の陽ざしも居留守をしておるし、街の喧騒も自粛しはじめる。なにより中空を横断する天使の羽根が黑ずんでゆく夜景がよい。惡魔なき天使なんぞにいつまで現を抜かしているおつもりか。漆黑の日輪を愛で、堕天する。これぞ夜の散歩である。

秋の紅葉より、巫女の袴のほうが映える写真がある。前者には夏の青を背負いし赤を想い、後者には原始の赤を感じる。概して異色のあわせがその深みを際立たせるものの、それは感覚や思考といった五感の獄中での話に留まる。一切を棄て果てたさきにある景色は、血そのものの色しかないのではあるまいか。

靈は霊に堕してから、祝詞箱を意味する「口」を三つも失い、文字通り靈力を失った。人が守護靈に依存するようになった分岐点である。肉がある奇蹟を忘れ、目に映らぬ虚へと逃げた。本来は人が靈を護るべき存在であるのに。このような心意氣を灯せば、日々、靈は肉端会議をしにやたらと人に集まるのだ。