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人とつながりたいのち、つながりたくない。ときどき清潔。ところによってしね。

部屋の電気をつけると、床がカラフルに染まった。

ゴミの入った白いビニール袋、敷きっぱなしのオレンジのヨガマット、真っ青なジーンズ。
その上にはスナック菓子やアイスの食べ終わった袋と空のペットボトル、コンビニ弁当の容器が無限に散乱している。

フォトジェニックに映らないのは賃貸の安っぽい蛍光灯のせいだ。

たまたま用事で家に来た友人には
「俺の人生で見た空間史上一番汚い」
と言われたし、流行りではない何か別の感染症を気にしたほうがいいなと思うくらいには不潔だった。

季節は夏。

暑くなると頭の悪いスケジュールでいっぱいになる。
部屋の掃除などする暇もなかった。




金曜日に東京で仕事を終えると、渋滞を回避する為に真夜中に車を走らせて伊豆の白浜まで向かう。

日の出から日没まで女の子に声をかけて酒を飲み、渋谷に戻るとセンター街で女の子に声をかけて朝まで飲み、その足で茨城に行きバンジージャンプをして帰りの山道で皆で吐く。

こんなことを毎週繰り返していた。

とんだハッピー野郎だと思われるかもしれないが、そうでもない。

僕は双極性障害Ⅱ型という、いわゆる躁うつ病を患っている。




躁は他人に「あいつ最近元気よすぎてもはや鬱陶しいな」と言われるのでわかりやすい。

酒に酔ったときのような根拠のない万能感が体に満ち溢れ、体力と経済力の限界を超えて動き回ってしまうのだ。

しかし、躁を起こすような人間を説明するときは「普段とは違って」という枕詞がつく。

アンタッチャブルの山﨑は我々の躁のはるか上を行くが、彼は別に躁ではなくてただのそういう人である。

普段おとなしい人が「急に」ハイになるから「病的」なのだ。



そこで厄介なのが僕である。

僕は昔から人と喋る時、自分を良く見せる為に、役に入る癖がある。

躁状態で初めて会う人には、(すごく大袈裟に言うと)「アンタッチャブル山﨑」の役に入る。

つまりテンションの高い今の状態がスタンダードであるような振る舞いをし、通常運転のときに会うと「今日はなんだか調子が悪い」と言うのだ。

見栄張りな僕は、それを無自覚でやるからタチが悪い。周りを騙し、自分すらも騙す。

自分がその虚構に入り込んでいるから、周りの人が虚構を信じる。

我ながら、いい役者だよな。

そうして毎年夏になると演劇を謳歌して動き回り、周りの人からはただの明るい兄ちゃんと思われていた。


しかし一転して、寒い季節になると自分の殻に閉じこもり、全くの別人になる。

躁は体力のゲージが1になるまで気付かない。
「段差につまずいたら死ぬ」レベルになって、ようやく立ち止まることができる。

さらに、僕の場合は無理を隠すための無理もしていた。

芝居をする余裕もなくなり、人前に姿を現すことができない。だって別人なのだから。


仕事さえ出来なくなることが何回もあった。

引きこもって「演じていた頃の理想の俺」からかけ離れた自分を責めては現実逃避を繰り返し、春になるまで外に出られない。

そして、潔癖な心とは裏腹に部屋はゴミで散乱する。
時間のゆとりはあっても、部屋を片付ける心のゆとりはなかった。

清潔なんて、僕らにとっては二の次にすぎない。
それどころじゃないんだ。


ぼくは弱く、臆病で傷つきやすい。


だから鈍く光る重たい鎧を纏い、右手に剣を左手に盾を持ち、僕は役に入りきる。


その屈強な姿にある人は怖がり、

動きのぎこちなさを見抜いたある人は笑い、

身軽な人が、いかに僕が愚鈍であるかと説き伏せようとしてくる。

そしてある人はその鎧姿ごと愛してくれる。


あなたと繋がれること以上の喜びも、繋がれないこと以上の悲しみもない。



でも繋がるためは、不潔ではいけない。


「それどころじゃない」と「それどころじゃないとかいってる場合ではない」が拮抗している。

わかっている。
僕はわかっているんだ。





中学1年生の夏に家庭がぶっ壊れて、僕は不登校になり引きこもっていた。

実家は田舎だ。風呂場は家の外の、小屋の中にある。

着替えを抱えて家の外に出て、わざわざ濡れに行くという幼いころからの習慣は不登校になって意味を持たなくなり、僕は風呂に入らなくなった。

髪は油で怖いくらいに光り、枕がしっとりと濡れる。匂いもしたが自分の匂いなど大して気にならない。
歯も数か月と磨かなかった。
(不思議なことに一本も虫歯にはならなかった)


学年が一つあがった春、僕は意を決して登校した。

クラスメイトがあたたかく迎え入れてくれて、僕の不安な気持ちを慮って話しかけてくれたことを覚えている。
当然身なりは整えていたし、はじめのうちは学校生活は順調だった。

しかし日が進むにつれて、それまでのラクな習慣が徐々に顔を出し始める。
ときどき風呂に入ることを忘れたり歯を磨かなかったりしていて、無意識に僕は不潔に戻っていたようだ。

そして、おそらくそれがきっかけでクラスで一番声が大きくがさつなリーダー格の奴に目をつけられ、4か月も立たないうちに僕はまた引きこもることになった。


当の本人にはいじめられた正確な理由などわからないから、これは憶測にすぎない。

それでも臭いやつは不快だから嫌われる。

善悪を抜きにして、いじめられる奴には原因がある。それは当たり前のことだ。

清潔であることは、相手への尊重を可視化させるわかりやすい手段だ。

逆に言えば、そんなわかりやすい配慮を欠くと人間関係は簡単に壊れる。

僕のように。



清潔でなければいけない僕と、清潔でいられない僕との勝負は、今のところ落ち着いている。

それだけの余力ができた。

ひいては躁鬱もあまり出なくなってきた。



清潔は人と繋がるためのただの道具で、使い方ひとつでどっちにも転ぶ。

どちらを選ぶかは、センスとそのときの体力次第だ。

この記事は別アカウントで書いた2023年2月のnoteコンテスト「清潔のマイルール」を再編集したものです。

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