#座禅
#132_「身体をほったらかしにしても倒れない」という利点だけが残り、瞑想の準備が整います。
仏教でもヒンズー教/ヨガでも、瞑想のときのいちばんよくある座りかたは、膝を折って足首をそれぞれ太腿にのせるやりかたです。
蓮華座、パドマアーサナ、結果趺坐のようないろいろな名称があります。
この座りかたの利点は、時間をかけて心身の静寂を極めていく過程で、身体性を放棄出来る状態にそっと近づいたときに、倒れずにそのままの姿勢を保ってくれる、人間の身体が可能な、唯一の座りかただということです。
「
#028_肩や腕にほんの少し残っていた緊張も消滅したので、手のひらが真上に。
シャバ・アーサナはしかばねのポーズという意味で、英語のひとたちも
corpse poseと呼ぶことが多いみたいです。
ナマナマしいことばが並びますが、死んだばかりの身体は緊張ゼロで背中の腰のあたりのスキマも、首のうしろのスキマもなくなって床にくっつくみたいないいかたをします。実査には死後硬直があるので、それが始まるまで。
緊張ゼロは一筋縄ではいきません。
アーサナを何年もやっていると、シャバ
#027_「吐く息で背骨をゆるめます」と言って、 「意味わからんよなあ」と思いますが..
ヨガを習ったり教えたりしていると「むずかしいポーズ」といういいまわしは「やりにくい」とか「熟練が必要」というという意味ではなく「伝えるのがむずかしい」ということだなあとつくづく思います。
ゆっくり丁寧になにかポーズを作って、
気持ちよくポーズを終えて、
「吐く息で背骨をゆるめます」
と言って、
「意味わからんよなあ」
と思いますが、ほかに言いようもないしなあ .. という軽いジレンマ。
息
#024_感情が回復することで苦悩から開放されるという選択肢もあります。
「いまを生きる」が過去を生きないことで、未来をも生きないことだと知ったのは、というか突きつけられたのは、10日間の瞑想キャンプのたしか3日めでした。
反対側から考えると分かりやすいかもしれません。ぼくらの社会には「一生消えない感情(悲しみ、怒り、心の傷 .. )」という出来事があり、ぼくらのこころはその出来事に揺さぶられますが、感情が回復することで苦悩から開放されるという選択肢もあるなあと。
#023_「湯船に入って最初に出てくる気持ちいい息」
「湯船に入って最初に出てくる気持ちいい息」という言いかたをします。
身体に起きている出来事をコントロールしている(あるいはコントロールしていると思い込んでいる)状態から、身体に起きている出来事をそのまま受け入れている状態に切り替わったとき、呼吸も切り替わります。
ぼくらの生はコトバで出来た自我と他者の関係で出来ていて、コトバは、その関係が過去と現在と未来を分割不可能な連続したナニカだと定義し、
#022_「すごい人のもとでアーサナを練習して難しいポーズが出来るようになる」
もうずいぶんむかしですが、キムラケイシンのセミナーに一年間参加しました。
そのころのぼくはヨガの入り口に立ったばかりで、
「ヨガを生涯の生業にしたい」
「そのためにヨガ講師として信頼してもらわなければ」
「なので資格とか肩書きとかそういうものがほしい」
と考えていたし、いろいろ調べて、権威である彼のセミナーに高いお金を払って参加したわけです。
「すごい人のもとでアーサナを練習して難しいポー
#021_スワミになる、出家するということは、人間関係に支えられて保たれる自我を手放すという
インドで侵食を共にした僧侶ヴィシュワルーパナンダ師が数年後にトウキョウに来たのでお会いしに行ったときに、ひとつ屋根の下に数ヶ月間暮らした彼は「おお!ひさしぶり!」とはもちろん言わずに、はじめて彼と出会ったときとまったく同じ目でぼくを見たわけですが、スワミになる、出家するということは、人間関係に支えられて保たれる自我を手放すということである。
名前を捨てて、家族を捨てて、周囲の人々に対する愛着と、
#020_禅僧ネルケがおっしゃるように、ぼくらはハムスターのランニングホイールからただ降りることが出来る存在。
「われおもうゆえにわれあり」という言葉に、デカルトがどう考えていたかとは別に、ぼくらは「あってよかった」とうれしく感じます。
なくなったらいやだな。
と思うのです。死にたくない。
ヨガではここを掘ります。
死んだらなにを失う?
それが失われることがなぜいやなの?
死ぬという現象に、身体が滅する以外の、なにか圧倒的に巨大な意味を与えていて、それがなにかということに向き合えずにいるのではないか?
#014_「わたしが見ていたら、あなたたちは見られるためのヨガをやるでしょう?」
「きょう出来ないことを、きょう出来るようになろうとしない」
という言いかたを、アーサナのセッションでよくします。
「ヨガ教室は習いごとなので、出来ないことが出来るようになるのが目的だし、それは早いほうがいいし、自分は評価されているし評価は良いほうがいいし、お金払ってるし」
という考えかたを、ぼく自身ヨガを始めたころしていましたが、尊敬すべきタカヤマ先生は目を閉じていたわけです。
「わたしが
#013_.. というのも虚構だと気づくために、すべての行為を止めて座る。
無依存に近づいていくためには、ひとつひとつウソを脱ぎ捨てていきます。
ツラいけれども。
ぼくらの人生をうっすらくまなく覆うウソは人類が共有しているコトバの構造にしっかり組み込まれていて、全員でダマされれば虚構は虚構ではなくなり、目の前にいるイヌやネコがリアルな生命を生きているのを見てぼくらが下等だと思うのは、それに下等という言葉を与えたからである。
ぼくらのカラダは言葉で出来ていて、意識も言