マガジンのカバー画像

歌もよひの散文どち

13
心のままに書くなんて簡単に言いますが、たまたま思いについた言葉が「心のまま」かどうかは、よくよく見直すようです。
運営しているクリエイター

記事一覧

「いつか歩いた道なのに」

場所に記憶されている感情とは、不思議なものだ。あまりに思いで深い場所にゆきあうと、かつてそこに立っていた、まさにその時に抱いていた感情が、ありありと手にとるように感じられることがある。しかし時間はまきもどるわけもなく、いまの私は、当時の自分をすこし後ろから見守っている。「そこはそうじゃない。こうするところだろ」と思わず声をかけたくなるような悔恨と、「あの時の自分にはそうすることしかできなかったな」

もっとみる

「おどろくと今日はたそがれ」

肉体的に疲れているときも、精神的にまいっているときも、とにかく休むにこしたことはないようだ。読みたい本は山のようにあっても、人間はAIではないのだから、やみくもに読めばよいというものでもあるまい。意識を読書に集中できないときは、ソファーにでも寝転がって、頭のなかを空っぽにしてみる。あるいは私のいなくなった世界を想像してみるのもよいかもしれない。冷蔵庫のなかでゆっくりと朽ちてゆく野菜ども…… 雨のあ

もっとみる

「私の影は色濃くなりぬ」

このポストモダンという時代は、影の薄いほうが生きやすいようだ。巨大なショッピングモールを思い浮かべたらよい。そこでは四方八方から明るい照明を浴びせられ、影のない人たちが居心地よくゆきかっている。そして私もその中の一人となり、他者との摩擦を生むことがないようにゆきすぎる。そこはそういう場なのだから、それでよいのであろう。しかし家庭でも、職場でも、居酒屋でも、あるいはSNSなどのネット空間でも、それが

もっとみる

「カァーにならない子カラスの声」

仕事もとりたてた用事もない日には、ワンルームの部屋に引きこもって本ばかり読んでいる人間である。いやそれは嘘だな。気晴らしにSNSをのぞいている時間もそれなりなら、たたんだ布団にもたれているだけのこともある。しかし日に一度は、買いものでもちょっとした散歩でも、外の空気を吸わないことには気がめいってしまうたちなので、根っからのひきこもりというわけではないようだ。そしてかわりばえのない休日にあきてくると

もっとみる

「波さそふ彼方の国」

海が好きだ。もっとも大都市の奥地に生きる私にとって、それは遠い存在ではある。最後に海に逢いにいったのはいつのことだったか。コロナ騒ぎのはじまるさらに二三年前だったように思う。失恋でもしたのだろうか。ふと思いたって、九十九里浜から房総半島にかけて海づたいにめぐったことがあった。すでに夏の盛りはゆき過ぎて、思ったよりも人気のない砂浜に、荒っぽい潮風にあおられながら寄せては返す大波小波も。ざらざらとした

もっとみる

「かげもかたちもうつろひて」

時間とは、考えてみると不思議なものだ。この世界とは、現在という地平が(半)永久につづいてゆくだけのことで、時間はその変化の単位にすぎないのに、そこには単なる観念と決めつけることのできない肌触りがある。それはなぜなのか…… をりをりそんな「時間の罠」に陥ってしまうことがある。しかしここでは哲学的な議論を展開することが目的ではないので、これ以上の詮索は慎むことにしよう。ただこの時間というものの経過のな

もっとみる

「都会を雨が」

ふと雨の降りだした折、都市が濡れていく様子を眺めるのが私は好きだ。あまりに激しい風雨ともなると、そんな悠長な余裕もなくなるので、そぼ降る雨ぐらいでちょうどよい。そのくらいのことであっても、人間のさまざまな欲求がとぐろを巻くようにして生みだしたこの大都市(メガロポリス)という生態が、それでも天地の自然のうちにあることは、意識をそこに向けたなら自ずと感じとれることだろう。その情景と感興を、歌に映しとろ

もっとみる

「思ひやけしきのいれもの」

かつてとある哲学エッセーを読んでいたときに「人間の心とは、世界を映しだしている鏡である」との趣旨の表現にゆきあったことがある。出典は忘れてしまったし、言い方もだいぶ違ったかもしれないが、なかなかうまく言ったものだ。物とぶつかったときの痛みや、運動の後の息切れ、あるいは雨に濡れたまといつく不快感。そうした身体感覚をともないながら、意識に映しだされる世界の景色。そして喜びや悲しみ、あるいは楽しみや苦し

もっとみる

「わが胸のうつろのふかさ」

世のなかにはまるで好き好んでいるかのように、空虚だの孤独だのと言いたてたがる人たちがいる。いまさら隠すまでもなく、私もそちら側の人間であろう。しかしどれだけ自分の心の具合から、他者のそれを類推したところで、人の内面の本当のところはその人自身にしかわからないところがある。外見には明るく気丈にふるまっていても、心中には深い悩みを抱えた人もいることだろう。そういう人からすれば、孤独をある意味では楽しんで

もっとみる

「日ざらしの心ひきづり」

現代語の「あこがれる」の元となった「あくがる」という言葉は、原義の「さまよい歩く」ことのほかに、「心が身体から抜けでる」ことを指したという。源氏物語の六条御息所のエピソードはよく知られているようだ。しかしこの頃私は、それとはあべこべに、身体のほうが心からあくがれ出ているような感覚におちいることがあった。この場合の「身体」とは、単に即物的な「肉体」にとどまらず、他者の視線によって形づくられた、その場

もっとみる

「人生」について

過日「実存」と「死」について、それぞれ書いた。そこでここでは、自らの実存が終わりを迎えたのちに、他者の目にさらされることになる「人生」というものについて考えたい。異国の戦争で、はからずも命をおとす人ひとのことも、せめては頭の片隅におきながら。

そもそも実存のさなかにあっては、人生とは途中経過にすぎない。うら若い有名人が、とうとうと自らの人生観を語っているのを目にすると、思わず苦笑してしまうことが

もっとみる

「死」について

過日「実存」について書いた。そこではいかに生きるべきかを考えたが、自らの実存には、その終幕である「死」がついてまわる以上は、それを語らぬ実存論など片手落ちであったかもしれない。しかしこの世に生きる人間は、誰一人として死を体験したことはないのである。なぜなら死んでしまった人間は、もうこの世にはいないのだから。どんなに死に接近した体験であっても、それは死そのものではないし、ましてや死後の世界というもの

もっとみる

「実存」について

なぜ生きるのか。なんのために生きるのか。こんな問いかけは、不粋というものであろうか。しかし人とは、自らの「実存」について、自らに問うてしまう存在である。とりわけそれまでの生き方が、何かの壁にぶつかったように感じられる、そんなときには。「人間」という言葉によくあらわれているように、人とは「人の間」に生きる存在である。人と人との関係性の網の目のうちに、すくいとられた存在である。その他者との関係が不調を

もっとみる