「日ざらしの心ひきづり」

現代語の「あこがれる」の元となった「あくがる」という言葉は、原義の「さまよい歩く」ことのほかに、「心が身体から抜けでる」ことを指したという。源氏物語の六条御息所のエピソードはよく知られているようだ。しかしこの頃私は、それとはあべこべに、身体のほうが心からあくがれ出ているような感覚におちいることがあった。この場合の「身体」とは、単に即物的な「肉体」にとどまらず、他者の視線によって形づくられた、その場その場でのあるべき自分自身という意を含んだものである。もっともその時々の心の「わがまま」にまかせて行動するよりは、社会的な身体性に順応して、いわば役者のようにふるまったほうが、往々にして物事がうまくゆくということは、多くの人の経験し且認めていることであろう。つねにそれでよいかは別にしても。

 おつとめのあるばかりかな 日ざらしの心ひきづり あくがれてゆく

そういう意味では、私にとっての歌とは、ひきづられてゆく心の悲鳴でもあるのかもしれない。あたらずとも遠からず。