「死」について

過日「実存」について書いた。そこではいかに生きるべきかを考えたが、自らの実存には、その終幕である「死」がついてまわる以上は、それを語らぬ実存論など片手落ちであったかもしれない。しかしこの世に生きる人間は、誰一人として死を体験したことはないのである。なぜなら死んでしまった人間は、もうこの世にはいないのだから。どんなに死に接近した体験であっても、それは死そのものではないし、ましてや死後の世界というものではない。我々はしょせんは死を知らずに、それでいて最期には死を迎えねばならない存在なのだ。かような人間に、死を語ることはいかなる意味があるのであろう。

メメント・モリmemento mori(死を忘ることなかれ)」という西洋の警句がある。その意味するところは、人はやがて死すべき運命なのだから、いまを享楽するのではなく、意義ある生を生きよ……といったところであろうか。それとも逆に、どうせ死に追いつかれるのだから、せいぜい存分に享楽せよということなのか。あるいはこの二つの意味は、コインの表裏のように、この警句の両面をなしているのかもしれない。いづれにせよ死と向かいあうことは、その終点に向けて自らがどう生きるかという、人の生きかたを呼びさますものがある。それが誰の目にも立派なものであれば、人はそれを「倫理」や「道」と呼ぶであろうが、仮にそこから外れたものであったとしても、誰にそれを否定することができようか。まことに人間とは、自らの死というものを観念して、そのうちに生きる存在なのである。現在という地平からすると、未来とは観念にすぎず、その展望ははかない夢にすぎないが、そのうちにあっても「自らの死」だけは、成就することが約束された観念なのだ。

しかしだからといって、死にとりつかれたように生きねばならぬというものでもない。やがては死に追いつかれるものならば、それを大胆に待ちかまえてもよいだろう。あるいは壁一枚隔てた向こう側のことと思ってもよい。いつかはその世界にとって喰われるにしても。いにしへの賢人は「いまだ生を知らないのに、どうして死がわかろうか」(論語先進篇)と語ったという。わたしもそれに与するものである。

 死といふは旅の終わりぞ そこまでの道をゆるりと 楽しめばよし

 絶望に生きる希望のあるうちは 惜しくもあるか いのちなりけり