「思ひやけしきのいれもの」

かつてとある哲学エッセーを読んでいたときに「人間の心とは、世界を映しだしている鏡である」との趣旨の表現にゆきあったことがある。出典は忘れてしまったし、言い方もだいぶ違ったかもしれないが、なかなかうまく言ったものだ。物とぶつかったときの痛みや、運動の後の息切れ、あるいは雨に濡れたまといつく不快感。そうした身体感覚をともないながら、意識に映しだされる世界の景色。そして喜びや悲しみ、あるいは楽しみや苦しみといった、さまざまな情感がそこにおりかさなる。こうして感じとられたものが、人間にとっての「世界」である。しかしこの「感じとる」ということは、何によって可能となるのか。それは心というものに、余白があればこそであろう。たとえば何かの焦燥感にとらわれてしまうと、ふだんなら目に入ることにも気がつかず、ありえない失敗をしてしまう。誰しもそんな経験があるのではなかろうか。そして心に映しだされる世界の有様は、変わりやすい天気よりもなおのこと変わりやすい。とここまで書いてきて、私は何を言いたかったのか…… すでに心は移ろってしまったようである。

 心とはうつろなものであればこそ 思ひやけしきのいれものとなれ

しかしひとつ附言すると、心の有様としての「うつろ」ということと、感情としての「空しさ」はやはり別のことであろう。空しさにとらわれた心は、くもった鏡のようにしか世界をとらえることはできまい。もっとも私のそれは、幾度ぬぐってもまたくもってしまう、そんな鏡のようではありますが。