「実存」について

なぜ生きるのか。なんのために生きるのか。こんな問いかけは、不粋というものであろうか。しかし人とは、自らの「実存」について、自らに問うてしまう存在である。とりわけそれまでの生き方が、何かの壁にぶつかったように感じられる、そんなときには。「人間」という言葉によくあらわれているように、人とは「人の間」に生きる存在である。人と人との関係性の網の目のうちに、すくいとられた存在である。その他者との関係が不調をきたすとき、自らの実存のバランスもまた危うくなるのであろう。その点から見ても、愛する家族のいるものは幸いである。なぜならその家族という関係のうちに、自らの実存の意味を手軽に見いだしえるから。外的社会でそれなりの苦労があったとしても、愛する家族という心の支えは容易に外れるものではない。しかし不幸にも、家族に愛されないものはどうしたらよいであろう。あるいは家族のいないものは。あるものはワークホリックとなり、またあるものは趣味に蕩尽するかもしれないが、ふとしたときに虚しさに追いつかれてしまうことは、いかんともしがたいだろう。まことに人間とは、自らが存在するままに存在するだけでは、満ち足りることのない存在なのである。ではどうするか。

まれによく「何者にもなれない(なかった)」という言葉を目にする。その意味するところは、この大衆社会にあって、ひろく他者に認知される「かけがえのない自分」という存在になれない……ということのようだ。嫌味なものである。自らの敗北感を、ひろく社会に拡散することで薄めようという、そんな底意まで感じられる。しかしここであえてこの言い方に乗っかって言うのであれば、何者かであろうとすること。そして何者かになってゆくこと。その意志とベクトルにこそ、実存の意味はあるのではなかろうか。逆から言うのであれば、客観的に/他者にとって、自分が何者かであることに意味があるのではない。それはただのイメージの影にすぎない。そこに撞着するのは、ただのナルシズムだろう。そうではなく、あくまでも自らの意志によって、自らの進むべきベクトルを見さだめて、その方向へと一歩でも半歩でも進んでゆくこと。その道のりにこそ意味がある。どんなに名の知れた人間であっても、歩むことを止めたのなら、その人の歩みもそこまでだ。客観的な他者の評価なるものが成りたつとして、そんなものは後からついてくるに任せておけばよい。そんなふうに思っている。

 何者にもなれぬと嘆く その前に すすまむ道を自らに問へ

 なぜ生きる 問はれたのちの反問の エコーのうちに答へはあらじ

そうは言っても、ぼちぼち生きていくより他にないわけですが。