「人生」について

過日「実存」と「」について、それぞれ書いた。そこでここでは、自らの実存が終わりを迎えたのちに、他者の目にさらされることになる「人生」というものについて考えたい。異国の戦争で、はからずも命をおとす人ひとのことも、せめては頭の片隅におきながら。

そもそも実存のさなかにあっては、人生とは途中経過にすぎない。うら若い有名人が、とうとうと自らの人生観を語っているのを目にすると、思わず苦笑してしまうことがあるが、もしこの世を去ったものたちに、我々が人生について語るのを聞かせたとしたら、やはり苦笑されるかもしれない。死を知らざるもの、人生を語るべからずと。しかしそうは言いながら、我々は多くの人生を、他者のそれとして知っている。無数の小説やドラマでは、歴史上の人物たちの人生がくりかえし描かれているし、あるいは身近なところでは、あの人は若いころはあんな感じで、晩年はこんなふうだったと、とくとくと語られたりもする。わたしは「実存」について書いたさいに、他者の評価よりも、自らの意志とベクトルに重きをおくべきむねを述べたが、死によって完結される「人生」とは、そこにもう自分はいない以上、他者の目にさらされることでしか意味をもちえない。なんという矛盾であろうか。ましてその評価も、全面的に他者にゆだねるほかはなく、すでにない自分には弁解の余地もないのである。よしんばそれを代弁してくれる人がいたとしても、それもまた他者なのだ。

そういう意味では、「人生」とは芸術に似ているとも言えようか。芸術家の手になる作品は、作者の手を離れて他者の目にさらされ、そこで何がしかの感動を生むことで、はじめて意味をもつものである。逆から言えば、まだ芸術家の手のうちにある作品は、芸術としては未完成ということにもなる。人生もまたそういうものかもしれない。しかし人の感動を呼びおこす真の芸術が、ほんの一握りの砂にすぎないように、時空をこえて人を感動させる人生などそうそうあるものではない。それだけが真の人生であると言ってしまえば、そうではない千百の人生はどうなるのか。いづれは歴史のなかに埋もれてゆく芥子粒にすぎないのか。たとえそうであったとしても、そうではないと言いたくなるものが、人には誰しもあるのではなかろうか。

ここで我々は、自意識に偏った観念論に陥らないためにも、身近な他者の人生に思いをはせるべきなのかもしれない。さきの理屈から言うのであれば、完結した自分の人生は他者のものとしてしか存在しないように、この世を去っていったものたちの人生は、いまは我々のうちにしかないのだから。そしていまは亡き人の生きた姿は、わたしの記憶のうちにあり、いまのわたしの生き方を支えている。そのことに思いはせるとき、俗によく言われるように、他者はまだ記憶のうちに生きていると言ってよいのかもしれない。その記憶もまた、わたしとともに滅びるものではあるが、そのときはわたしの人生が、他者の記憶となるように、いまを生きるべきなのだろう。人のために生きた人の子は、やはり人のために生きようとするものだ。こうした幾多の記憶の結びつきが、千百の人生の意味であると言っても、ひとまず間違いではないだろう。戦争で死んでいったものたちの人生が、その身近な人たちのあいだに記憶され、そしてその人たちの人生を支えてゆくことを願いたい。

 おとうとの生きたいのちのなかりせば けふの吾とてあらざらむやも

 君がため 生くるいのちのはるけくも あるかあらぬか 知らざるけふも

春の彼岸にそんなことを考えた。