「いつか歩いた道なのに」

場所に記憶されている感情とは、不思議なものだ。あまりに思いで深い場所にゆきあうと、かつてそこに立っていた、まさにその時に抱いていた感情が、ありありと手にとるように感じられることがある。しかし時間はまきもどるわけもなく、いまの私は、当時の自分をすこし後ろから見守っている。「そこはそうじゃない。こうするところだろ」と思わず声をかけたくなるような悔恨と、「あの時の自分にはそうすることしかできなかったな」というあきらめに似た愛情と、「そういう積み重ねでなんとか今日までやってきたんだ」と、失敗も含めてどこかで自負したい気持ちと、そうしたもろもろの思いがないまぜになったような感じ方である。人間の実存とは、いまこの現在という地平にしばられたものではあるが、それは同時に、過去の出来事を記憶や思い出というかたちで負いもっている。そのひきうけ方にも、その人なりの個性というものがでてくるのであろう。

 不思議だな。いつか歩いた道なのに 時間は私もこんなにずれてしまった変わってしまった

ちなみに私自身は、過去に対してわりと爽やかにわりきりをつけてゆくほうだと、自分では思っている。わりきるまでの煩悶はあるにせよ。そのせいか交友関係も、自分のベクトルが変わってくると、そこで途絶してしまいがちなのはどうなのかとは思うが。そういう意味では、家族や親戚とのつきあいは、煩わしく感じるときもあるが、私にとってはありがたいものかもしれない。寺やら墓というものも、昔はよくわからなかったが、あれは故人を亡くした時の、かつての感情を記憶しておくための場所なのだろう。