「かげもかたちもうつろひて」

時間とは、考えてみると不思議なものだ。この世界とは、現在という地平が(半)永久につづいてゆくだけのことで、時間はその変化の単位にすぎないのに、そこには単なる観念と決めつけることのできない肌触りがある。それはなぜなのか…… をりをりそんな「時間の罠」に陥ってしまうことがある。しかしここでは哲学的な議論を展開することが目的ではないので、これ以上の詮索は慎むことにしよう。ただこの時間というものの経過のなかで、ある日の若者たちは年老いてゆき、老人たちは墓におさまることになる。このことは我々にとって、逃れようのない現実としての重みを持っている。そして百年ともあいなれば、今この世界にいる人たちはほとんどが骨となり、都市のたたずまいもまた様変わりすることであろう。その変貌のほどに思いを馳せるとき、その経過のどこかで自分もまたむくろとなることを思うとき、現在という地平に結びついた喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも、かりそめのあだ花のように思われてくるのである。

 見わたせば かげもかたちもうつろひて ももとせのちの今ぞはかなき

ちなみにこの歌は、新古今秋歌上「見わたせば花も紅葉もなかりけり」をふまえたものです。定家卿の歌のよさは、いまだ私にはよくわからないのですが、ことこの歌については格別と思っております。それにつけても、はかない年月の経過のなかで、くりかえし人々の感動を呼びおこすことで、幾百年と語りつがれていく、文芸もまた不思議なものですね。