豊田健一

併合時代を生きた日本人と朝鮮人の歴史を残そうと取り組んでいます。 国家公認出雲族。

豊田健一

併合時代を生きた日本人と朝鮮人の歴史を残そうと取り組んでいます。 国家公認出雲族。

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【いつもいつも出雲】

いつかの出雲「雲太」・「和二」・「京三」。 平安時代970年(天禄元年)の口遊に記されている、当時の日本三大建築物、「雲太」の出雲大社・「和二」の東大寺大仏殿・「京三」の平安京大極殿。 一番巨大とされた出雲大社は上古(古代)は48メートルの高さを誇った高層神殿であったと伝わっています。 実際、私の父も「お前は実物を見たことがないから話に聞いても実感がわかないだろうが、あの大きさは、周囲に大した高さの建物がない時代に見たら圧倒されただろう」と話していました。 父は祖母が編

    • 靖国・君が代・朝鮮半島1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.18)

      「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」 「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」 古代中国の儒学者 孟子の、力(武力)に頼る「覇道」ではなく、仁愛(民を思いやり愛しむ)による「王道(政治)」によって天下は治まるという主張を表すものです。 そして、それは「水戸学」が「明治 維新」へと向かわせた「覇道 の徳川家を倒し仁愛の政治体制を天皇の下に 実現する」という 尊王攘夷運動の 中心思想になった 理由でもありました。 民の生活に心を配らない政治は改めなければ

      • 大正天皇の守護神 出雲大神3 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.17)

        本圀寺と大乗寺 東京府 東京市 小石川区 白山前町にあった大乗寺は、初めは京都府 京都市 山科区 御陵大岩にある日蓮宗の大本山本圀寺の末寺(本山の支配下にある寺院)でした。  本圀寺は、平安時代には天皇の身体が衰弱すると国家も衰弱するという思想があり、密教では玉体(天皇の身体)を健全にする加持祈祷は護国(国を護る)のための祈りと考えられていたため、嘉暦3年(1328年)には建武の新政を行った後醍醐天皇(南朝初代天皇)の勅願所(鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社や寺院)

        • 大正天皇の守護神 出雲大神2 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.16)

          明宮嘉仁親王(大正天皇)誕生 大正天皇は明治12年(1879年)8月 31日に権典侍(宮中の女官と側室を兼ねた職)柳原愛子(後に二位局)を母として生まれました。 生来病弱で亡くなるまで病との闘いであった大正天皇の誕生一年前の明治11年(1878年)、長崎県から広がったコレラ(経口感染症)が全国 に流行し始めていました。 そして翌年の明治12年(1879年)には、清国厦門(中国厦門市)でコレラが大流行しました。そのさなかの3月に愛媛県でコレラが発生、日本国内で流行を始め

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        • 大正天皇の守護神 出雲大神3 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.17)

        • 大正天皇の守護神 出雲大神2 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.16)

          大正天皇の守護神 出雲大神1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.15)

          明宮嘉仁親王と出雲大神 昭和2年(1927年)第82代 出雲国造、出雲大社宮司 千家 尊統が記した「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」。 ここに令和6年(2024年)10月1日現在ではインターネットで検索しても出てこない、大正天皇と出雲大神との関係の詳細が記されています。 以前にも児童書の「大正天皇御物語」に書かれていたものは紹介しましたが、同じ昭和2年(1927年)に出版された(非売品と記載)「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」を著者は参考にされたのではないかと

          大正天皇の守護神 出雲大神1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.15)

          伊藤博文の置き土産 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.14)

          李王家と共に 韓国にも主義者(社会主義者・共産主義者・無政府主義者)の組織が結成された明治32年(1899年)の2月 14日、大倉財閥(現在のサッポロビール・帝国劇場・ホテルオークラ・大成建設など)創始者の実業家大倉 喜八郎によって設立された帝国ホテルにて伊藤 博文より対韓国の方針が示されました。 この大倉 喜八郎の子息で慶應義塾出身の大倉 喜七郎が明治40年(1907年)11月に結婚した際に仲人を務めたのは伊藤 博文でした。 京城(ソウル)中枢で重要任務にあたってい

          伊藤博文の置き土産 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.14)

          韓国を独立させた日本 関東大震災時の朝鮮人排斥問題5 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.13)

          日本は韓国の独立を承認する 明治40年(1907年)に、大韓帝国 高宗皇帝がオランダのハーグで開催されていた第2回 万国平和会議に密使3人を送り、日本に接収されていた自国の外交権回復を訴えようとした「ハーグ密使事件」。 この後始末を終えた韓国統監の伊藤 博文が、同年の7月 29日に京城(ソウル)日本人倶楽部で、招待した日本の新聞記者や通信員に語ったものになります。 明治40年(1907年)10月16日の嘉仁親王(大正天皇)訪韓の準備が進められていた中での韓国の重大な裏

          韓国を独立させた日本 関東大震災時の朝鮮人排斥問題5 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.13)

          連続テロ 関東大震災時の朝鮮人排斥問題4 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.12)

          「萬歳事件」その後 大正8年(1919年)3月1日から始まった「萬歳事件」からの示威運動(デモ活動)は朝鮮全土に波及し6月まで混乱が続きました。 この騒動があらかた落着いた大正8年(1919年)8月19日、大正天皇より「朝鮮総督府官制改革に関する詔書(天皇の意思を示した公文書)」が出されました。 これにより「日韓併合の真の目的に基き一視同仁(日本人・朝鮮人すべての人を差別せず平等に愛す)、それぞれ自分の役割を理解し全力で職務に尽くしなさい」という勅令(天皇の命令)が下

          連続テロ 関東大震災時の朝鮮人排斥問題4 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.12)

          偽りだらけの萬歳事件(三・一独立運動)関東大震災時の朝鮮人排斥問題3 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.11)

          徳寿宮 李太王の死と流言飛語 大正7年(1918年)12月5日、京城(ソウル)元町小学校の放火と見られる火災で鈴木 志津衛学校長が奉安所前にて壮絶な殉職をされた翌月の大正8年(1919年)1月21日、徳寿宮 李太王殿下(李氏朝鮮 第26代 高宗国王)が死去されました。 初代大韓帝国皇帝 高宗として明治40年(1907年)6月の第2回 万国平和会議に秘密裏に特使を派遣して、日本の悪評を流したハーグ密使事件を起こしました。 その後、伊藤 博文暗殺の事態を受けて日本に併合(

          偽りだらけの萬歳事件(三・一独立運動)関東大震災時の朝鮮人排斥問題3 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.11)

          京城(ソウル)騒乱 日本人自警団設立関東大震災時の朝鮮人排斥問題2 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.10)

          京城元町小学校 放火・学校長殉職事件 一.  大正七年 十二月 五日  午前一時 二十分頃、本校第一館東部より発火、雨天体操場(※体育館)、及之に連接せる二教室、倉庫一棟を残して全部烏有に帰す(※火災で何もかもが無くなった)。 当日 午前五時頃 鎮火。学校長 鈴木志津衛 御真影の奉遷せられたるを知らずして奉安所前に至り、遂に壮絶なる死を遂ぐ。 御真影・勅語謄本は当夜 宿直員 木川訓導(※先生)に依りて奉遷せらる。 学校沿革史に記録されている様に大正7年(1918年)1

          京城(ソウル)騒乱 日本人自警団設立関東大震災時の朝鮮人排斥問題2 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.10)

          関東大震災時の朝鮮人排斥問題1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.9)

          第2の従軍慰安婦問題「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」 親しくさせていただいている、ゆんばんさんが「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」を新しい内鮮分断工作(古くは日本と朝鮮半島の連携を妨害する諜報活動、現在は日韓関係)として心を痛められていましたので、この件について先に書いておこうと思います。 ゆんばんさんは日韓ハーフとして東京で生まれ育った方ですが、韓国政府や他国と通じた政治集団による間違った反日の宣伝と日韓史の真実を伝えるべく日本語と韓国語を使い、主にYouTubeで動画

          関東大震災時の朝鮮人排斥問題1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.9)

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.8)

          愛は朝鮮半島を救う 朝鮮半島の近代化は日本が明治維新以降に西欧から学んだ医療・福祉の分野においても積極的に進められました。 国立児童保護施設の済生院 養育部の他に鎌倉保育院 京城支部、京城保育院などが設けられて、親を亡くした児童や捨てられた児童の保護育成に努め、私設の育児施設に対しては朝鮮総督府から一定額の補助金を交付していました。 済生院 養育部では乳幼児はすべて里預け(里親制度)で、満12歳まで預け置き、普通教育(小学校)を卒業後に適職を紹介、養育部施設での預かり

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.8)

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.7)

          京城第二高等女学校 京城府(現在の韓国ソウル) 三坂通にあった京城第二高等女学校。 基地のすぐ側に女学校はありましたが、たまに女学校の塀越しに青年将校たちとおしゃべりをする位で、朝鮮軍の規律は厳しく治安は良かったと伯母や同級生の人たちによって話されていました。 大東亜戦争当時は年頃の男女が一緒に歩いているだけで補導されていました。 続々と戦地に兵を送っていた場所のこともあり、女学生たちが制服のまま繁華街を歩くことすら許されなかったということでした。 朝鮮半島人学徒

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.7)

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.6)

          大業の二大主柱  昭和17年(1942年)朝鮮総督府 情報課が発行した「前進する朝鮮」では、朝鮮半島人2,400万人を「選ばれたる指導者」と表し、また「大業の二大主柱」と呼んでいました。 「歴史的に見て本来一つのもの」、「本来一元であつた」、「本来の皇道日本に大融合、大還元をとげ」と繰り返していますが、大東亜戦争敗北までの日本国の公式見解は、「朝鮮人はもともと日本人と同一の存在」でした。 <

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.6)

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.5)

          朝鮮軍司令部と第19師団・第20師団 併合時代の朝鮮半島にはロシア領シベリアと接していた咸鏡北道に第19師団が配置、王都 京城(ソウル)に第20師団が配置されていました。 軍管区とは軍の管轄する地域、縄張りになります。 支援要請や司令部からの命令がない限り、管区外の部隊の行動は出来ませんでした。 朝鮮半島 京畿道の京城府(ソウル)龍山に第19師団と第20師団を統括する朝鮮軍司令部があり、歩兵第40旅団司令部と歩兵第78連隊・第79連隊が置かれていました。 満州との国

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.5)

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.4)

          触れない、伝えない、教えない(日本弁護士協会) 法律の専門家を育成する機関として旧韓国政府(李王朝)時代の明治28年(1895年)に法官養成所として創設、明治43年(1910年)朝鮮総督府の所管に移行した京城法学専門学校。 内鮮人(日本人・朝鮮人)共学で運営され、卒業後は判事や裁判所書記、弁護士、朝鮮総督府官吏などになりました。 昭和14年(1939年)の日本弁護士会(現在は日本弁護士連合会)所属弁護士総人員6,008名中、朝鮮半島の弁護士は337名でした。 京城弁

          8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.4)