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大正天皇の守護神 出雲大神1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.15)
明宮嘉仁親王と出雲大神
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昭和2年(1927年)第82代 出雲国造、出雲大社宮司 千家 尊統が記した「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」。
ここに令和6年(2024年)10月1日現在ではインターネットで検索しても出てこない、大正天皇と出雲大神との関係の詳細が記されています。
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以前にも児童書の「大正天皇御物語」に書かれていたものは紹介しましたが、同じ昭和2年(1927年)に出版された(非売品と記載)「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」を著者は参考にされたのではないかと思われます。
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明治十六年(※1883年)十月 六日 皇后陛下(昭憲皇太后)中山邸内の明宮様御殿へ、出雲大社の御分靈を明宮様の守護神として迎へしめ給ふ。
これよりさき、千家 尊福は十月 一日より五日間、神前に於て御神體、御守、鎭祭(※中山邸一帯を清める儀式)、謝恩式 相勤め(※執り行い)、六日に中山邸の明宮様御殿へ御分靈を御遷座申しあげたり(※出雲大神の分靈に中山邸にお越しいただいた)。
千家 尊福は第80代 出雲国造であり、一般的には伊藤 博文の誘いを受けて貴族院議員となり、いくつかの知事も務めたとされている人物です。
しかし実際には明治16年(1883年)には天皇家と深く通じていました。
さらに明治40年(1907年)10月16日の嘉仁親王韓国訪問後の同年12月、韓国皇太子 李垠殿下が伊藤 博文に伴なわれて来日した当時の東京府知事は千家 尊福でした(この時代の知事は国が任命)。
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また明治40年(1907年)は、5月10日から6月6日まで「嘉仁親王山陰道行啓」という鳥取県・島根県を訪問されるという一大行事が行われていました。
この際に嘉仁親王は5月27日、現在の島根県 出雲大社町 杵築東にある出雲大社を参拝されていました。
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この時、東京から出雲大社に先入りして嘉仁親王をお迎えしてしていた人物も千家 尊福だったのです。
そして朝鮮神宮創建の際、設計者の伊藤 忠太に提供された古代出雲大社の図面「金輪造営図」を受け継いでいた家が出雲国造の千家家でした。
伊勢神宮 対 出雲大社
明治維新後に起きた伊勢神宮対出雲大社について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「千家 尊福」の説明を引用させてもらい説明したいと思います。
明治政府は、王政復古・祭政一致の方針のもと、天皇を天照大神より続く万世一系の絶対的権威として国民教化を図るべく、国家神道の整備を進めていた。
明治2年(1870年)大教宣布の詔を発し、神祇官(のち神祇省に改組)がその中心を担った。
祭祀と教化を担っていた神祇省は明治4年(1872年)に廃止され、祭祀については宮内省があたり、教化の機関として新たに教部省が設置された。
教部省は国民教化を担う教導職を養成するべく、大教院を設置したが、神道・仏教間の対立や各宗派間の主導権争いによりうまく進まず、仏教側は大教院を離脱、神道側は新たに神道事務局を設立するなどし、大教院は廃止された。
神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中 頼庸ら「伊勢派」の神官であった。
これに対して尊福を中心とする「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。
「顕と幽、見える世界と見えざる世界、生と死、これら表裏一体である」として、「顕界」の主神たる天照大神と「幽界」の主神たる大国主大神を同じく祀るよう主張する出雲派に対し、伊勢派は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立。
果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。
出雲派の主張は多くの神道者・国学者から支持を得、また伊勢派の多い神道事務局内にも尊福を支持するものが出るなど、形勢は出雲派に傾きつつあった。
危機感を抱いた伊勢派は、内務省や宮内省などに働きかけ、勅裁を得るべく工作を図った。
その結果、明治14年(1881年)2月に開かれた「神道大会議」で、「神道事務局においては、宮中斉祭所に奉斎される天神地祇、賢所、歴代天皇の御霊を遙拝する」という勅裁が下され、これにより祭神論争は伊勢派の勝利として決着をみることとなった。
明治維新後に行われた「神仏分離政策」と伊勢神宮の天照大神を頂点とした「国家神道」の誕生。
その過程で起きていた伊勢派対出雲派の激しい対立は明治14年(1881年)2月に開かれた「神道大会議」での勅裁(明治天皇の裁定)により伊勢派の勝利に終わっていました。
そして、これにより神道事務局の祭神は四柱となり幽界(冥界・あの世)の支配者大国主大神は祀られることはありませんでした。
それからわずか2年後の明治16年(1883年)10月、天皇家からの要請として密かに明宮嘉仁親王の守護神として 出雲大神が中山邸内にお祀りされていたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。