「萬歳事件」その後
大正8年(1919年)3月1日から始まった「萬歳事件」からの示威運動(デモ活動)は朝鮮全土に波及し6月まで混乱が続きました。
この騒動があらかた落着いた大正8年(1919年)8月19日、大正天皇より「朝鮮総督府官制改革に関する詔書(天皇の意思を示した公文書)」が出されました。
これにより「日韓併合の真の目的に基き一視同仁(日本人・朝鮮人すべての人を差別せず平等に愛す)、それぞれ自分の役割を理解し全力で職務に尽くしなさい」という勅令(天皇の命令)が下ったことになりました。
翌20日には新朝鮮総督に斎藤實 海軍大将、政務総監(朝鮮総督に次ぐ地位)として水野錬太郎 法学博士が就任し、朝鮮半島の京城(ソウル)へと向かいました。
南大門駅テロ事件
朝鮮総督府を日本政府を震撼させたテロ事件の詳細については、捜査の責任者(京畿道警察部長)であった千葉 了の著作「朝鮮独立運動秘話」に記載されていますので、それを用いて説明していきます。
以上が「萬歳事件」から続けて起こった「南大門駅前爆弾テロ事件」の詳細になります。
この大惨事となった「南大門駅前爆弾テロ事件」もまた、朝鮮引揚げ日本人の証言や訴えを黙殺した戦後の教育界やマスコミによって、いくつもの重要な情報が消されてしまっているのです。
北間島と爆弾の正体
爆弾犯の姜 宇奎が移住していた北間島、白頭山北方の旧満州地帯。
現在の中国吉林省 延辺 朝鮮族自治州は満州側領土でありながら古くから朝鮮民族が住んでいました。
そしてロシア領とも近いため、ロシア共産党関係者とつながっていた朝鮮人が潜伏活動していた場所でもありました。
この一帯では、大正9年(1920年)1月 4日には朝鮮銀行券輸送中に襲撃を受け護衛任務中の巡査が死亡しています。
また姜 宇奎がロシア人から入手、使用した爆弾は軍用の最新式手榴弾でした。
令和6年(2024年)5月30日、山梨県の陸上自衛隊 北富士演習場で訓練中に爆発した手榴弾の破片が男性隊員に当たり、死亡する事故が起きました。
この様に手榴弾は半径10~15m範囲の人間を死亡させるほどの高い殺傷力があり、さらにダメージ効果範囲は30~40mはあるとされています。
また安全ピンを抜いてから5秒程度で爆発するため、適切なタイミングと、近くに落とし自爆しないためのしっかりとした投擲姿勢を身に着けることが必要とされています。
それを当時60代(平均寿命からすると現在の70代後半以上)の姜 宇奎は、万人規模の人混みの中で目標に向い大きく外れることなく投げ切り、37名を死傷させて、自身は一切傷を負っていなかったのです。
こうしたことから日本国は姜 宇奎が密かにロシア共産党のテロ訓練を受けた可能性を疑っていました。
聖地であった南大門駅
京城府市街境界図の黄色のマーカーが南大門駅(南大門停車場)になります。
この駅から馬車に搭乗した際に斎藤 實総督は爆弾を投げられたのですが、この駅の待合所が嘉仁親王の訪韓時の便殿(天皇・皇族の行幸・行啓の際の臨時の休憩所)として使われた施設でした。
そして明治40年(1907年)10月 16日、訪韓を成し遂げた嘉仁親王が「南大門駅前爆弾テロ」が起きた当代の天皇、大正天皇でした。
大正7年(1918年)12月 5日に京城元町小学校の深夜の大火災による「大正天皇・皇后の御真影」と「明治天皇の教育勅語謄本」焼失未遂・学校長殉職事件、その3カ月後の大正8年(1919年)3月 1日に「萬歳事件」が勃発。
そして、そこから5カ月後の8月 19日に大正天皇の「一視同仁」の勅令が下り、斎藤 實海軍大将が3代目 朝鮮総督として9月 2日に南大門駅に到着すると「爆弾テロ」が発生しました。
このように大正天皇に関係するものが狙われていた可能性があり、事件に連続性が感じられていたため、大日本帝国に対する挑戦、韓国独立準備を妨害する「連続テロ事件」ではないかと、事情を知る人たちからは危機感を持って受け止められていました。
そして、斎藤 實3代目総督の新体制下で事態が落ち着いたかに思われた大正9年(1920年)4月、今度は東京でもう一つの大事件が起きました。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました