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連続テロ 関東大震災時の朝鮮人排斥問題4 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.12)


萬歳ばんざい事件じけん」その

大正たいしょう8年(1919年)3月1日からはじまった「萬歳ばんざい事件じけん」からの示威じい運動うんどう(デモ活動かつどう)は朝鮮ちょうせん全土ぜんど波及はきゅうし6月まで混乱こんらんつづきました。

この騒動そうどうがあらかた落着おちついた大正たいしょう8年(1919年)8月19日、大正たいしょう天皇てんのうより「朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ官制かんせい改革かいかくかんする詔書しょうしょ天皇てんのう意思いししめした公文書こうぶんしょ)」がされました。

朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ官制かんせい改革かいかくかんする詔書しょうしょ

これにより「日韓にっかん併合へいごうしん目的もくてきもとづ一視いっし同仁どうじん日本人にほんじん朝鮮人ちょうせんじんすべてのひと差別さべつせず平等びょうどうあいす)、それぞれ自分じぶん役割やくわり理解りかい全力ぜんりょく職務しょくむくしなさい」という勅令ちょくれい天皇てんのう命令めいれい)がくだったことになりました。

よく20日には新朝鮮しんちょうせん総督そうとく斎藤さいとうまこと 海軍かいぐん大将たいしょう政務せいむ総監そうかん朝鮮ちょうせん総督そうとく地位ちい)として水野みずの錬太郎れんたろう 法学ほうがく博士はくし就任しゅうにんし、朝鮮ちょうせん半島はんとう京城けいじょう(ソウル)へとかいました。



南大門なんだいもんえきテロ事件じけん

南大門なんだいもん駅前えきまえ爆弾ばくだんテロ
朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動うんどう秘話ひわ

朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ日本にほん政府せいふ震撼しんかんさせたテロ事件じけん詳細しょうさいについては、捜査そうさ責任者せきにんしゃ京畿道けいきどう警察けいさつ部長ぶちょう)であった千葉ちば りょう著作ちょさく朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動うんどう秘話ひわ」に記載きさいされていますので、それをもちいて説明せつめいしていきます。


文明的ぶんめいてき政治せいじ基礎きそ確立かくりつして半島はんとう山河さんが生色せいしょくあらしむべく(※いきいきとした様子ようすにするため)、齋藤さいとう總督そうとく水野みずの政務せいむ總監そうかんともに、救世きゅうせいしゅごと南大門だんだいもん驛頭えきとうつた。

とき大正たいしょう八年はちねん(1819年)九月くがつ 二日ふつか  午後ごご五時ごじ

齋藤さいとう總督そうとく海軍かいぐん大将たいしょう制服せいふくけ、令夫人れいふじん(※令夫人れいふじん他人たにんつまうやまったかた本名ほんみょう春子はるこ)ととも秘書官ひしょかん 伊藤いとう 武彦たけひこのち内務ないむ書記しょきかん)をともな馬車ばしゃ搭乗とうじょうし、堵列兵とれつへい(※要人ようじん警護けいごみちならんだ兵士へいし)につづいて總督そうとく馬車ばしゃうごした。

刹那せつなである、轟然ごうぜんたる大爆音だいばくおんおこつた。
幾萬いくまん觀客かんきゃく衝動しょうどうからわれかえつて現場げんば見詰みつめたとき電線でんせんはばらばらにれて地面じめんさがり、地上ちじょうにはすう十名じゅうめい内鮮人ないせんじん(※日本人にほんじん朝鮮ちょうせんじん)が鮮血せんけつれてうごめいてる。

爆彈ばくだん投下とうかされたのである。
秘書ひしょ課長かちょう 守屋もりや 榮夫えいふのち社會局しゃかいきょく 第二だいに部長ぶちょう)が後日ごじつ 朝鮮ちょうせん公論こうろんに「おもつるまを」の一篇いっぺんせて、當時とうじ光景こうけいつぎよういてある。

總督そうとく出迎でむかえ人々ひとびと鄭重ていちょう挨拶あいさつ交換こうかんされ、プラツトホームの出口でぐちもうけてつた二頭立にとうだて馬車ばしゃられた。
儀仗兵ぎじょうへい(※儀礼ぎれい警護けいご担当たんとうへい)がうごいて、つい總督そうとく馬車ばしゃうごした。

水野みずの總監そうかん馬車ばしゃひがしほうたまりからすすつて總督そうとく馬車ばしゃのあつた位置いちまり、水野みずの總監そうかん夫妻ふさいまさ馬車ばしゃうとした刹那せつなに、異様いよう音響おんきょうおこつた、じつ重苦おもくるしいひびきであつた。

れは新總督しんそうとく著任ちゃくにん(※着任ちゃくにん)をいわうてげて花火はなびおとともちがつてつたし、段々だんだん鳴響なりひびいてつた祝砲しゅくほうともまったことなつてつた。
そらむかつてたかひびくとんよりも、そこぐつてようおとであつた。

わたし刹那せつな爆彈ばくだんかんじよりも、花火はなびつつ破裂はれつしたひびきではないかとおもつた。
するとれつしてつた人々ひとびとが、われ動揺どよめきわたり(※正気しょうきになりおどろいて)、自分じぶんまえには西洋せいよう婦人ふじんさけながつてた。
著物きもの(※着物きもの)にはにじんでつた。爆彈ばくだんだ、爆彈ばくだんだとこえ何處どこからとなくおこつてた。」

「よく世間せけんではとき 總督そうとく態度たいど従容しょうようたる(※ゆったりいている)ものであられたが、水野みずの政務せいむ總監そうかん狼狽ろうばいしたかのようにいけれども、自分じぶん當時とうじ 總監そうかんそばつてなにもかもよく承知しょうちしてる。

總監そうかん夫人ふじん爆彈ばくだんおと自若じじゃくとして(※いていて)せられなかつた。爆彈ばくだん破裂後はれつご如何いかにも落付おちついてられた。
また 平常へいじょう態度たいどからしても世評せひょう非常ひじょう誤解ごかいであることがわかりそうなものだとおも。」

朝鮮ちょうせん政治せいじ陰謀いんぼう政治せいじで、古來こらい暗殺あんさつやく(※わざわい)をこうむつたもの幾千いくせんなるをらない。
かも兇器きょうきとして爆彈ばくだんもちられたのは、近來きんらい本日ほんじつ事件じけんもっ嚆矢こうし(※はじまり)とする。

めに重軽傷じゅうけいしょうもの三十七名さんじゅうななめいうち 大阪おおさか朝日あさひ新聞しんぶん 特派員とくはいん 橘 香橘京畿道けいきどう巡視じゅんし  末払  又二郎彈創だんそうひさしからず(※ほどなくして)たおれ、大阪おおさか毎日まいにち新聞しんぶん 特派員とくはいん 山口やまぐち 諫男いさお肺臓はいぞう貫入かんにゅうした彈片だんぺん苦惱くのうすること四年よねん有半ゆうはんにして絶命ぜつめいした。

彈片中だんぺんちゅう四箇よんこ總督そうとく搭乗とうじょうせる馬車ばしゃあたり(※ぶつかり)、うち 一箇いっこ齋藤さいとう 總督そうとく命中めいちゅうしたが、總督そうとく海軍かいぐん大将たいしょう制服せいふくけてられため、彈片だんぺんはズボンの革帯かわおび損傷そんしょうしたばかりで肉體にくたいやぶらない。

爆發ばくはつ修羅場しゅらば直面ちょくめんするも眉毛まゆげ一本いっぽんうごかさない總督そうとくは、白髪はくはつ童顔どうがん慈愛じあいみをたたえ、觀客かんきゃく擧手きょしゅれいあたながら、嚠喨りゅうりょうたる喇叭らっぱ(※ひびわたるラッパ)にみちびかれて、水野みずの政務せいむ總監そうかん馬車ばしゃともに、悠然ゆうぜんとして官邸かんていむかつた。

官邸かんてい這入はいつた總督そうとくは、訪問ほうもん新聞しんぶん記者きしゃむかつて従客しょうようとして(※ゆったりいて)物語ものがたつていわく「馬車ばしゃうごしたとき背後はいご一大いちだい音響おんきょうおこつたようおもれたが、背後はいごひやりとあたつたものがあるので、これはピストルでやられたなとおもつて、そつとうしろをやつてると、いてないので、これでは大丈夫だいじょうぶだとおもつてだまつてつた。

官邸かんていいてから軍服ぐんぷく帯革おびかわちいさいこう(※あな)があるのを發見はっけんした。自分じぶん君國くんこく(※天皇てんのうくに)の總督そうとく重任じゅうにんうて朝鮮ちょうせん赴任ふにんしたうえは、一死いっしもっ邦家ほうかくに)につくきは最初さいしょからの覺悟かくごである。

かくごと危害きがい幾度いくど繰返くりかえされても、自分じぶんあえおそれはしない。
むし此等これら不逞ふてい感化かんか善導ぜんどうし、もっ至尊しそん聖旨せいしたいし(※このうえなくとうと天皇てんのうかんがえをこころとどめて)、益々ますます徳政とくせいうとおもばかりである。負傷者ふしょうしゃたいしては、相當そうとう慰問いもん方法ほうほうこうずるかんがである」と。

しかして(※そして)よく三日みっか 登廰とうちょうせらるとともに、吏僚りりょう(※役人やくにん)をあつめていち形式けいしき政治せいじ打破だは事務じむ整理せいり簡捷かんしょう(※事務じむをすばやくおこなう)、さん言論げんろん 集會しゅうかい 出版しゅっぱんとう考慮こうりょよん教育きょういく 産業さんぎょう 交通こうつう 警察けいさつ 衛生えいせい 社會しゃかい 救濟きゅうさい 各般かくはん行政ぎょうせい刷新さっしんかんして訓示くんじあたえて九月くがつ 十日とおか文明的ぶんめいてき政治せいじ確立かくりつ論告ろんこくはっせられたのである。

南大門なんだいもん驛頭えきとう爆彈ばくだんよっ文化ぶんか政策せいさく變改へんかい(※あらためること)を豫期よきせる世人せじん(※世間せけん)は、總督そうとく端然たんぜんとしてどうぜらる(※姿勢しせいくずれずいている)態度たいどと、堂々どうどうたる統治とうち方針ほうしん宣明せんめい(※規制きせい緩和かんわ行政ぎょうせい改革かいかく新統治しんとうち方針ほうしん明示めいじ)に、いささ意外いがいかんがあつたのである。

朝鮮ちょうせん全土ぜんど蔓延まんえんしたる獨立どくりつ騒擾そうじょう(※騒乱そうらん)も、やく半歳はんとしわた當局とうきょく必死ひっし鎮撫ちんぶり、ほとんど靜平せいへいした(※しずかでおだやかになった)けれも、靜平せいへいがたきは民心みんしんである。

獨立どくりつ騒擾そうじょう勃發ぼっぱつするや、米國べいこくかなこれ援助えんじょすべしとしんじ、はなはだしきは大統領だいとうりょうウイルソン(※当時とうじのアメリカ大統領だいとうりょう飛行機ひこうきつて來援らいえんすべし(※たすけにてくれる)と日夜にちや北漢山きたかんざんたむろして(※あつまって)はるか北方ほっぽう天空てんくう翅望しぼうせる(※期待きたいしてる)ものすらあつた。

騒擾そうじょう靜平せいへいともくのごと無智むち非識ひしきからようや目醒めざめてたけれども、目醒めざねてるのは獨立どくりつ期待きたいである。

優詔ゆうしょう煥發かんぱつせられ(※大正たいしょう天皇てんのうのありがたい御言葉おことばほのおるようにうつくしくはっせられ)官制かんせい改正かいせいせられ(※行政ぎょうせい改革かいかくおこなわれ)總督そうとく新任しんにんして文化ぶんか政策せいさく宣明せんめいするも、上海しゃんはいかり政府せいふ(※上海しゃんはいつくられた朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動うんどう組織そしき)の威力いりょく盲信もうしん不逞輩ふていのやから脅迫きょうはく宣傳せんでん眩惑げんわくし、總督府そうとくふたおれて韓國かんこく政府せいふ樹立じゅりつ萬一ばんいち僥倖ぎょうこうせんとするもの(※総督府そうとくふたお韓国かんこく政府せいふ樹立じゅりつというおもいがけない幸運こううんおとずれることをねがうもの)、當時とうじ上下じょうげ民心みんしんであつた。

ゆえ人心じんしん恟々きょうきょう(※びくびくして)、險惡けんあく空氣くうき半島はんとう山野さんやおおうて、何事なにごと異變いへん勃發ぼっぱつ意識いしきし、朝鮮ちょうせん統治とうち前途ぜんと多大ただい不安ふあんかんじずにはられなかつた。

八月はちがつ  二十九日にじゅうくにち 日韓にっかん併合へいごう記念日きねんびには京城けいじょう商賣しょうばい みな閉店へいてんして弔意ちょういあらわし、總督そうとく政務せいむ總監そうかん新任しんにんあたつては、警察けいさつ制度せいど變革へんかく相俟あいまつて、何等なんら不穏ふおん計畫けいかく陰謀いんぼうせられつあるやの情報じょうほうは、いやうえに(※ますます)人心じんしん不安ふあんまねいた。

總督そうとく 赴任ふにん途上とじょう險惡けんあく情報じょうほうしきりにいたるので赤池あかいけ内務ないむ局長きょくちょうときやまいたる野口のぐち警務けいむ局長きょくちょうにん引受ひきう丸山まるやま事務官じむかんとも急遽きゅうきょ京城けいじょうむか、時永 國友事務官じむかんともに、京城けいじょう警察けいさつ督勵とくれいして(※監督かんとくはげまして)警備けいび計畫けいかくてた。

九月くがつ  二日ふつか 午後ごご五時ごじ 總督そうとく停車場ていしゃじょう(※えき)に到着とうちゃくされたとき貴賓室きひんしつまえ廣場ひろば(※広場ひろば)は、警察官けいさつかんもっ警戒線けいかいせんもうけ、不逞ふていのやから近接きんせつふせいだこと勿論もちろんであつたが、貴賓きひんしつ横手よこてほう二三にさん外人がいじん警戒けいかいせんよりも數間すうかんすすんで位置いちめた。

警官けいかんこれ制止せいしするよりもはやく、これ群衆ぐんしゅう外人がいじんならつて數間すうかんつゝづつ雪崩なだれつて前進ぜんしんしたので、むを警戒けいかいせん豫定よていよりも餘程よほど  貴賓きひんしつ接近せっきんするにいたつた。

のち犯人はんにん訊問じんもんして自白じはく聴取ちょうしゅするに、犯人はんにんはこの雪崩なだれじょうじて貴賓きひんしつ近寄ちかよしかして(※そして)總督そうとく馬車ばしゃ搭乗とうじょう時期じき目掛めがけて爆彈ばくだん投下とうかしたのであつた。

わたし京城けいじょういて、停車場ていしゃじょうから官舎かんしゃ官舎かんしゃから總督そうとく官邸かんていいたあいだ民心みんしん險惡けんあくさにおどろかされた。

わたし自動車じどうしゃには制服せいふく警視けいし同乗どうじょうしてるにかからず、白衣はくい鮮人せんじん(※朝鮮人ちょうせんじん大道だいどう眞中まんなか蹲踞そんきょして喃々なんなんし(※身体からだまるめてすわんでしゃべりつづけ)自動車じどうしゃようともせず、警視けいし大喝だいかつするとはじめてしぶしぶたちあがつて道端みちばたけると有様ありさまであつた

總督そうとく官邸かんていさんずると總督そうとく温容おんようには相變あいかわらず春風はるかぜごとみをたたえて「今度こんど一緒いっしょ仕事しごとをしようつた人々ひとびとそろつたから仕事しごと仕甲斐しがいがあるだろう」とよろこばれた。

これより犯人はんにん捜査そうさ白熱はくねつくわることになつた。
犯人はんにん捜査そうさ、それは刑事上けいじじょう普通ふつう事務じむであるが、ただ當時とうじ警察けいさつ状態じょうたい到底とうてい 後人ごじん想像そうぞうざるものがある。

ときあたか憲兵けんぺい警察けいさつ(※ぐん警察けいさつ)から普通ふつう警察けいさつ(※総督府そうとくふ組織そしき)に立替たちかわったいま 眞中まんなかである。
普通ふつう警察けいさつ幹部かんぶ警察けいさつ事務じむには經験けいけん意見いけんもあるとしても、朝鮮ちょうせん事情じじょうにはほとんど盲目もうもくである。

それに憲兵隊けんぺいたい憲兵隊けんぺいたいとして犯人はんにん檢擧けんきょ懸命けんめいである。
警備けいび會議かいぎひらけば、憲兵けんぺい尉官いかんもやってる、内地ないち新來しんらいもの(※本土ほんどからあたらしく人間にんげん)もある、いま着任ちゃくにんしないものもある。
署員しょいんいたつては千差せんさ萬別ばんべつ 百鬼ひゃっき夜行やこうぜんたるものがあるのであつた。

九月くがつ  十七日じゅうしちにちあたか總督府そうとくふ會議室かいぎしつ警察けいさつ會議かいぎ 際中さいちゅう 犯人はんにん嫌疑者けんぎしゃ 本町ほんまち警察署けいさつしょげられたが、警視けいし總監そうかんたいしてでなければ一言ひとこと自白じはくしないとうてくちつぐんで何事なにごとないと情報じょうほうた。

そこでわたしはモーニングをたま本町署ほんまちしょ三階さんかいいたり、もり警部けいぶのち鍾路しょうろ警察けいさつ署長しょちょう)の通譯つうやくもっ犯人はんにん訊問じんもん開始かいしした。

犯人名はんにんめいかん 宇奎うぎゅ平安へいあん南道なんどう 徳川とくせんぐん  武陵ぶりょうめん  濟南里さいなんりひと六十ろくじゅう餘歳よさい 白髪はくはつ 赭顔しゃがん(※あからがお)の老爺ろうやである。

かれ(※かれ)はわたし訊問じんもんおうじて逐一ちくいち自白じはくした。
自白じはくよりはむし燕趙えんちょう悲歌ひか(※くにうれいかなげく)の告白こくはくであつた。

室内しつない闊歩かっぽなが縷々るるとして(※延々えんえんと)きたり、感極かんきわまつてはむねたたいてコツプのみずんだ。

かれ日韓にっかん併合後へいごうご 慨然がいぜんとして(※はらなげいて)北間島きたかんとう(※白頭山はくとうさん 北方ほっぽう旧満州きゅうまんしゅう地帯ちたい)に移住いじゅうし、爾来じらい(※それ以来いらい)シベリア満州まんしゅう放浪ほうろう儒教じゅきょうこうじキリストきょう歸依きえしてつた。

韓國かんこく獨立どくりつ宣言せんげんいてすで獨立どくりつれるものとしんじたのであるが、新總督しんそうとくるとの情報じょうほう慨然がいぜんとして痛憤つうふんし(※おおいにはらて)、烏蘇里うすり鐵道てつどう(※ウスリー鉄道てつどう)の寒驛かんえき(※ひとがいないえき)におい露人ろじん(※ロシアじん)から爆彈ばくだん五十ごじゅっきん買入かいいれ、これ跨間こかんかくして浦鹽うらじお(※ウラジオストク)から元山げんざん上陸じょうりくさら京城けいじょう入込はいりこみ、南大門なんだいもんどおり  ぱく旅舎りょしゃ(※旅館りょかん)に逗留とうりゅうし、九月くがつ 二日ふつか 總督そうとく入京にゅうきょう すなわ兇行きょうこうえんじたのであつた。

後日ごじつ かれ自白じはくするところれば、兇行きょうこうのち かれ瞑目めいもくして逮捕たいほつてつたが、ひと身邊しんぺんれるものがないばかりでなく、てんこえあつてかれ避難ひなん暗示あんじされるようかんがあつた。

ひらいて四圍あたり見廻みまわすにだれしも自分じぶん注目ちゅうもくするもののないのをて、天意てんいところしんすなわ悠々然ゆうゆうぜんとして群衆ぐんしゅうともうつして、停車場ていしゃじょうよりわず數丁すうちょう旅舎りょしゃかえつたのであつた。

白晝はくちゅう(※白昼はくちゅう兇行きょうこう公々然こうこうぜんとして(※あからさまに)えんぜられ、かも犯人はんにん悠々乎ゆっくりとして群衆ぐんしゅうともつて停車場ていしゃじょうちか旅舎りょしゃかえる。
ことほとんど不可思議ふかしぎほかなく、これより以後いご警戒けいかいいてとく苦心くしんしたのもこれもってであつた。

萬人ばんにん呆然ぼうぜんとして自失じしつしてつたあいだに、ひとかん兇行きょうこう目撃もくげきしたものがあつた。それは停車場ていしゃじょう 喫茶店きっさてんのボーイ少年しょうねん大野おおのなにがしである。

少年しょうねんものうえからあがつて群衆ぐんしゅう見渉みわたしてつたが、さい いち老爺ろうや頭上ずじょうつて異様いようもの投下とうかするととも轟然ごうぜんたる爆音ばくおんいた。
少年しょうねん急遽きゅうきょひるがえして老爺ろうやあとけたが、ぱく旅舎りょしゃ附近ふきん老爺ろうや姿すがた見失みうしなつてしまうたのであつた。

わたしかん訊問じんもんかれ自白じはくき、眞犯人しんはんにんみと間違まちががなかろうと豫斷よだんがついたので、少年しょうねん大野おおのなにがしまねいて老爺ろうや認識にんしきさせたところ鬚髥しゅぜん(※あごひげとほおひげ)は剃落ていらくして(※そりとして)あるけれども當時とうじ老爺ろうや相違そういないとおも返事へんじであつた。

犯人はんにんつい檢擧けんきょされたのである。
かん公判こうはんうつされて死刑しけい宣告せんこくけたが、拘置こうちされること一年いちねんあまり大正たいしょう九年くねん(1920年) 十一月じゅういちがつ 二十九日にじゅうくにち西大門せいだいもん監獄かんごく(※刑務所けいむしょ)の刑場けいじょう絞首臺こうしゅだいじょうつゆえ、京畿けいきどう 高陽こうようぐん 恩平面おんぺいめん  新寺里の共同きょうどう墓地ぼち永劫えいごうねむりにいた。

遺子いし かん重建じゅうけんなるもの  狂暴きょうぼう不穏ふおん擧動きょどうがあつたが、姜宇奎かんうぎゅ遺骸いがい(※遺体いたい)に絹布きぬぬのくことをゆるし、また老父ろうふ寫眞しゃしん(※写真しゃしん)を復寫ふくしゃすることをみとめ、かれ身邊しんぺん保護ほごいても相當そうとう面倒めんどうてやつたので、だんだんおだやかになつた。

總督そうとく暗殺あんさつして民族みんぞく自由じゆうんとするがごときは狂愚きょうぐすべからざるきょ(※常軌じょうきいっしたくわだて)である。

伊藤いとう統監とうかん(※伊藤いとう博文ひろぶみ)ハルピンに兇殺きょうさつされて、朝鮮ちょうせんはたして何物なにものたか。スーダン總督そうとくスタツク少将しょうしょう(※イギリスぐん士官しかん)カイロに暗殺あんさつされてエジプトの現状げんじょう はたして如何いかが

こころざしあわれむべしといえども、兇愚きょうぐつい民族みんぞくほろぼすにいたる、民族みんぞく公敵こうてきあらずしてなんであるか。

朝鮮ちょうせん總督そうとくり(※かり)に天祐てんゆう(※てんたすけ)うすくして十代じゅうだいるも、朝鮮ちょうせんところ武斷ぶだん(※テロ撲滅ぼくめつのための武力ぶりょくによる鎮圧ちんあつ)の逆行ぎゃっこうであつて文明ぶんめい恵澤けいたく(※恩恵おんけい)ではない。

滅亡めつぼうにこそみちび自由じゆう建設けんせつかえっとおざくることになる。

頑迷がんめい(※ものの道理どうりがわからない)かん 宇奎《うぎゅ》、こころざしありてらず、氣餘きあまりありてしき低劣ていれつ(※自分じぶん行動こうどうがどのよう影響えいきょうあたえるか認識にんしき出来できていない)、南大門なんだいもん驛頭えきとう爆彈ばくだんが、朝鮮ちょうせんたいする世界せかい同情どうじょう低下ていかし、朝鮮ちょうせん文化ぶんか開發かいはつ阻害そがいおよぼせること直接ちょくせつ間接かんせつじつ鮮少せんしょう(※わずかなこと)ではない。

しん朝鮮ちょうせん民族みんぞくあいするもの千萬せんまん猛省もうせいすべきであろう。

朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動うんどう秘話ひわ」より「南大門なんだいもん驛頭えきとう爆彈ばくだん

以上いじょうが「萬歳ばんざい事件じけん」からつづけてこった「南大門なんだいもん駅前えきまえ爆弾ばくだんテロ事件じけん」の詳細しょうさいになります。

この大惨事だいさんじとなった「南大門なんだいもん駅前えきまえ爆弾ばくだんテロ事件じけん」もまた、朝鮮ちょうせん引揚ひきあ日本人にほんじん証言しょうげんうったえを黙殺もくさつした戦後せんご教育界きょういくかいやマスコミによって、いくつもの重要じゅうよう情報じょうほうされてしまっているのです。



北間島きたかんとう爆弾ばくだん正体しょうたい

爆弾犯ばくだんはんかん 宇奎うぎゅ移住いじゅうしていた北間島きたかんとう白頭山はくとうさん北方ほっぽう旧満州きゅうまんしゅう地帯ちたい


現在げんざい中国ちゅうごく吉林省きつりんしょう 延辺えんべん 朝鮮族ちょうせんぞく自治州じちしゅう満州側まんしゅうがわ領土りょうどでありながらふるくから朝鮮ちょうせん民族みんぞくんでいました。

そしてロシアりょうともちかいため、ロシア共産党きょうさんとう関係者かんけいしゃとつながっていた朝鮮人ちょうせんじん潜伏せんぷく活動かつどうしていた場所ばしょでもありました。

間島かんとう延辺えんべん 朝鮮族ちょうせんぞく自治州じちしゅう朝鮮ちょうせん銀行券ぎんこうけん輸送ゆそう襲撃しゅうげき事件じけん

この一帯いったいでは、大正たいしょう9年(1920年)1月 4日には朝鮮ちょうせん銀行券ぎんこうけん輸送中ゆそうちゅう襲撃しゅうげき護衛ごえい任務中にんむちゅう巡査じゅんさ死亡しぼうしています。

またかん 宇奎うぎゅがロシアじんから入手にゅうしゅ使用しようした爆弾ばくだん軍用ぐんよう最新式さいしんしき手榴弾しゅりゅうだんでした。

手榴弾しゅりゅうだんイメージ


この爆彈ばくだん取調とりしらべによると、たまごよりもおおきなかたちであつて、はかましたから取出とりだして投込なげこ時分じぶんに、かんざし(※髪飾かみかざり)たいなものをよこからつたといことをしきりにので、爆彈ばくだん知識ちしきのないわたしはどうも理解りかい出來できないので、通譯つうやくとおしてじんした(※たずねた)が、犯人はんにん圖面ずめん(※図面ずめん)までいて説明せつめいするので、それを書留かきとめてあと陸軍りくぐんほう打合うちあわしてると、これは最新式さいしんしき爆彈ばくだんであつて、かんざしたいなものは安全辨あんぜんべん(※安全あんぜんピン)であるといことがわかつたのです。

朝鮮ちょうせん統治とうち秘話ひわ」より千葉ちば りょうによる回想かいそう

令和れいわ6年(2024年)5月30日、山梨県やまなしけん陸上りくじょう自衛隊じえいたい 北富士きたふじ演習場えんしゅうじょう訓練中くんれんちゅう爆発ばくはつした手榴弾しゅりゅうだん破片はへん男性だんせい隊員たいいんたり、死亡しぼうする事故じこきました。

このよう手榴弾しゅりゅうだん半径はんけい10~15m範囲はんい人間にんげん死亡しぼうさせるほどのたか殺傷力さっしょうりょくがあり、さらにダメージ効果こうか範囲はんいは30~40mはあるとされています。

また安全あんぜんピンをいてから5びょう程度ていど爆発ばくはつするため、適切てきせつなタイミングと、ちかくにとし自爆じばくしないためのしっかりとした投擲とうてき姿勢しせいけることが必要ひつようとされています。

それを当時とうじ60だい平均へいきん寿命じゅみょうからすると現在げんざいの70だい後半こうはん以上いじょう)のかん  宇奎うぎゅは、万人まんにん規模きぼ人混ひとごみのなか目標もくひょうむかおおきくはずれることなくり、37めい死傷ししょうさせて、自身じしん一切いっさいきずっていなかったのです。

こうしたことから日本国にほんこくかん 宇奎うぎゅひそかにロシア共産党きょうさんとうのテロ訓練くんれんけた可能性かのうせいうたがっていました。


聖地せいちであった南大門なんだいもんえき

事件じけん当時とうじ京城けいじょう南大門なんだいもん周囲しゅうい

京城府けいじょうふ市街しがい境界図きょうかいず黄色きいろのマーカーが南大門なんだいもんえき南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう)になります。

便殿べんでんとして使つかわれていたえき待合所まちあいじょ

このえきから馬車ばしゃ搭乗とうじょうしたさい斎藤さいとう まこと総督そうとく爆弾ばくだんげられたのですが、このえき待合所まちあいじょ嘉仁よしひと親王しんのう訪韓ほうかん便殿べんでん天皇てんのう皇族こうぞく行幸ぎょうこう行啓ぎょうけいさい臨時りんじ休憩所きゅうけいじょ)として使つかわれた施設しせつでした。

普段ふだん南大門なんだいもんえき南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう
嘉仁よしひと親王しんのう訪韓ほうかんさい奉迎ほうげい装飾そうしょくされた南大門なんだいもんえき

そして明治めいじ40年(1907年)10月 16日、訪韓ほうかんげた嘉仁よしひと親王しんのうが「南大門なんだいもん駅前えきまえ爆弾ばくだんテロ」がきた当代とうだい天皇てんのう大正たいしょう天皇てんのうでした。

シベリアと国境こっきょうせっしていた共産きょうさん主義しゅぎとのたたかいのフロントライン(最前線さいぜんせん朝鮮ちょうせん半島はんとう

大正たいしょう7年(1918年)12月 5日に京城けいじょう元町もとまち小学校しょうがっこう深夜しんや大火災だいかさいによる「大正たいしょう天皇てんのう皇后こうごう御真影ごしんえい」と「明治めいじ天皇てんのう教育きょういく勅語ちょくご謄本とうほん焼失しょうしつ未遂みすい学校長がっこうちょう殉職じゅんしょく事件じけん、その3カげつ大正たいしょう8年(1919年)3月 1日に「萬歳ばんざい事件じけん」が勃発ぼっぱつ

そして、そこから5カげつの8月 19日に大正たいしょう天皇てんのうの「一視いっし同仁どうじん」の勅令ちょくれいくだり、斎藤さいとう まこと海軍かいぐん大将たいしょうが3代目だいめ 朝鮮ちょうせん総督そうとくとして9月 2日に南大門なんだいもんえき到着とうちゃくすると「爆弾ばくだんテロ」が発生はっせいしました。

このように大正たいしょう天皇てんのう関係かんけいするものがねらわれていた可能性かのうせいがあり、事件じけん連続性れんぞくせいかんじられていたため、大日本だいにっぽん帝国ていこくたいする挑戦ちょうせん韓国かんこく独立どくりつ準備じゅんび妨害ぼうがいする「連続れんぞくテロ事件じけん」ではないかと、事情じじょうひとたちからは危機感ききかんってめられていました。

そして、斎藤さいとう まこと代目だいめ総督そうとく新体制しんたいせい事態じたいいたかにおもわれた大正たいしょう9年(1920年)4月、今度こんど東京とうきょうでもうひとつの大事件だいじけんきました。


本日ほんじつはここまでになります。おいいただきありがとうございました

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