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【いつもいつも出雲】

いつかの出雲

雲太うんた」・「和二わに」・「京三きょうさん」。
平安へいあん時代970年(天禄元年てんろくがんねん)の口遊くちずさみしるされている、当時の日本三大建築物けんちくぶつ、「雲太うんた」の出雲いづも大社おおやしろ・「和二わに」の東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん・「きょうさん」の平安へいあんきょう大極殿だいごくでん

一番巨大とされた出雲大社いづもおおやしろ上古じょうこ古代こだい)は48メートルの高さほこった高層こうそう神殿しんでんであったと伝わっています。

実際、私の父も「お前は実物を見たことがないから話に聞いても実感がわかないだろうが、あの大きさは、周囲に大した高さの建物がない時代に見たら圧倒されただろう」と話していました。

昭和しょうわ56年(1981年)の出雲いづも

父は祖母そぼんだ神事しんじに使う麻紐あさひもたずさえた祖父そふれられ、何度もそのてんに向かう長い階段をのぼっていました。そして社務所しゃむしょまでおともをして、宮司ぐうじさんと祖父そふむずかしい神様ごとを話しているのをそばで正座せいざをして聞いていたそうです。

実は古代出雲大社こだいいづもおおやしろは20世紀せいきちゅうに一度、国家こっか事業じぎょうで復活していました。

ただ建てられた場所がきわめて特殊とくしゅな場所であったため、日本の歴史に大きな断層だんそうを生んだ昭和しょうわ20年(1945年)8月15日以降いこうは、人々の記憶きおくからいったん消されてしまいました。

さらに、反天皇はんてんのうはんまるきみ靖国やすくに神社じんじゃ参拝さんぱい阻止そしという政治せいじ運動うんどうにのめりこみ、海外の反日勢力はんにちせいりょく連携れんけいを取り出し、平然へいぜんウソの情報をながし出した教育関係者きょういくかんけいしゃ日弁連にちべんれん、マスコミのせいでまともな検証けんしょう作業さぎょうも受けることが出来なくなってしまいました。

日本の歴史を考えるうえで非常に重要な意味をもっていた、このまぼろし古代出雲大社こだいいづもおおやしろについて、国立国会図書館に収蔵しゅうぞうされている写真を使って説明します。

遠景えんけい写真

この写真がその神社の遠景えんけい写真ですが、倒壊とうかいするおそれがあるため伝承でんしょうのような木柱きばしらではなく、山の斜面しゃめんを利用し、丈夫じょうぶなコンクリートによっててんへとのぼる長い階段が作られていました。
大木たいぼく3本をたばねてひとつの柱にした宇豆うずばしらしんの御柱みはしら遺構いこうなどが出雲いづも大社おおやしろで発見されたのは平成12年(2000年)になります。

この神社の名前は官幣大社 かんぺいたいしゃ 朝鮮神宮ちょうせんじんぐう」。

大正たいしょう14年(1925年)に京城けいじょう(現在の韓国の首都ソウル)南山なんざん(ナムサン・낭산)天照あまてらす大神おおかみ明治天皇めいじてんのうまつ創建そうけんされ、昭和しょうわ20年(1945年)8月15日正午の玉音放送ぎょくおんほうそう翌日、大急ぎで開始された撤去てっきょ作業でこの世から消しさられた太陽神設たいようしんでんでした。

朝鮮神宮寫眞帖(国立国会図書館デジタルコレクション)

官幣大社かんぺいたいしゃ 朝鮮神宮ちょうせんじんぐうがこの世に存在していたのはわずかに20年ほどでしたが、その当時ほとんどの日本人は朝鮮神宮ちょうせんじんぐう設計時に参考にされた図面の存在を知りませんでした。

しかし、神宮じんぐう撤去てっきょされてから40年以上のちの平成元年(1989年)、その図面から株式会社大林組おおばやしぐみプロジェクトチームによって古代こだい出雲いづも大社おおやしろ復元ふくげんこころみられ、現在は一般の人たちにも広く知られることとなりました。

その図面、金輪造営図 かなわぞうえいずから立体におこされた模型写真と朝鮮神宮ちょうせんじんぐうの階段の写真を並べてみました。

左.古代出雲大社こだいいづもおおやしろ模型 右.朝鮮ちょうせん神宮じんぐう階段

朝鮮神宮ちょうせんじんぐうはある目的をもって作られたため、古代こだい出雲いづも大社おおやしろ復元ふくげん模型とはことなり、神殿しんでんはすぐに見えませんが、階段の傾斜角度けいしゃかくどや長さが非常によくているのがわかります。

天照大神あまてらすおおかみ明治天皇めいじてんのうまつった神宮じんぐうでありながら、島根県の大国おおくに主大神ぬしのおおかみまつった出雲いづもおおやしろに残る、金輪かなわ造営図ぞうえいずを参考に、古代こだい出雲大社いづもおおやしろせていた朝鮮神宮ちょうせんじんぐう

朝鮮神宮階段上部からの景色

これによって、大正たいしょう9年(1920年)に東京に創建そうけんされていた明治神宮が、参拝さんぱい便べんのよい平場建ひらばだてであったのに対して、朝鮮神宮ちょうせんじんぐう後発こうはつ計画でありながら参拝さんぱいのさいに、きつい階段ののぼりをいられる、不便ふべんなものとなっていました。

また、雄略天皇ゆうりゃくてんのうの時代に天照大神あまてらすおおかみ豊受とようけのおおかみは分けてはならないと、伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくう外宮げくうまつったことを忘れたかのような創建そうけん計画は、完成時期に小笠原省三おがさわらしょうぞう神道人しんとうじんを中心に朝鮮神宮ちょうせんじんぐう御祭神ごさいじん論争ろんそうをおこされることになりました。

朝鮮神宮ちょうせんじんぐう祭神変更さいじんへんこううったえた小笠原おがさわら省三しょうぞう

実際には、日本国は内鮮ないせん(日本人と朝鮮人)融和ゆうわのため、騒動そうどうをおこした神道人しんとうじんの想像におよばない計画を立てていて、朝鮮半島のたみに対して最高のおくり物を用意していました。

京城けいじょう(ソウル・서울)にえがいていた巨大三角形

そして、そのためのシンボルである大三角形を、朝鮮神宮ちょうせんじんぐうと同時期の完成を急いでいた朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ京城けいじょうえきとで作っていました。

京城駅けいじょうえき(文化駅ソウル284・운화역서울284)

この重要3施設しせつの完成があやぶまれたために、大正たいしょう天皇てんのう陛下へいか大御心おおみこころ(天皇のお考え)にしたがって任務にあたれ」と、事実上の勅命ちょくめい(天皇の命令)を受けて現地に送りこまれた人間が、私の祖父そふ豊田とよだ靖国やすくにでした。

大正たいしょう10年(1921年)の南満州みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社社員録しゃいんろく京城けいじょう龍山りゅうざん工務こうむ事務じむしょ豊田とよだ靖国やすくにの名前が記載きさいされています。

左から2番目に「豊田靖国とよだやすくに

と、このような外地がいち朝鮮の歴史を可能な限り残そうと取り組み、令和2年(2020年)に幻冬舎げんとうしゃMCから出版することが出来たのが拙著せっちょ「受け継がれし 日韓史の真実」でした。

朝鮮からの引揚ひきあげ日本人の歴史の一部を記録

しかし、書き上げて満足するひまもなく新型コロナウイルスが世界をおそいました。

パンデミック、疫病えきびょうおそれおののく世界。
そのことが私には、祖父母そふぼが死ぬまでおつかえしていたと聞かされていた出雲いずもの大神おおかみスサノオノミコト(疫病やくびょうがみ 牛頭天王ごずてんのうのおいかりのように感じられました。

「まだ不足ふそくがあるのだろうか?」
不安がつのり、切り上げるタイミングを失い、そのままズルズルと今日こんにちまで作業を続けてしまいました。

その甲斐かいあってでしょうか、執筆しっぴつ作業中には国立国会図書館の資料で確認を取ることが出来ず、やむをず取りのぞいて大雑把おおざっぱにまとめていた部分の照会しょうかいも進み、今回しっかりとむことが出来ました。

スサノオノミコトが降りたとされる新羅しらぎのこと、神功皇后じんぐうこうごう三韓さんかん征討せいとうのこと。あるいは日本から朝鮮半島へ渡って新羅しらぎの王となったせき脱解だっかい秘密ひみつのこと。

昭和しょうわ48年(1973年)の京城駅けいじょうえき

これからしばらく、大日本帝国がもう一つの出雲いずもえていた朝鮮半島の話と、「伊藤いとう博文ひろぶみの置き土産みやげ」と呼ばれていただい東亜とうあ戦争せんそう太平洋たいへいよう戦争せんそうを使わないことにも意味があります)前から予定されていた遠大えんだいな計画について、可能かのうかぎり資料をもちいて説明をしていきたいと思っています。

そして、なぜ靖国やすくに神社の名をもつ人間かかわらされていたのかについても。

朝鮮総督府鉄道局副参事ちょうせんそうとくふてつどうきょくふくさんじ 豊田靖国とよだやすくに

素人しろうと文章で読みにくいとは思いますがお付き合いくださればさいわいです。

昭和しょうわ50年(1975年)父がいた看板かんばんの前で写す

次回に続きます。






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