朝鮮軍司令部と第19師団・第20師団
併合時代の朝鮮半島にはロシア領シベリアと接していた咸鏡北道に第19師団が配置、王都 京城(ソウル)に第20師団が配置されていました。
軍管区とは軍の管轄する地域、縄張りになります。
支援要請や司令部からの命令がない限り、管区外の部隊の行動は出来ませんでした。
朝鮮半島 京畿道の京城府(ソウル)龍山に第19師団と第20師団を統括する朝鮮軍司令部があり、歩兵第40旅団司令部と歩兵第78連隊・第79連隊が置かれていました。
満州との国境守備任務があった平安南道の平壌には歩兵第39旅団司令部と歩兵第77連隊が置かれ、半島南部の慶尚北道の大邱には歩兵第80連隊本部と第1大隊・第2大隊が、忠清南道の大田には第3大隊が置かれていました。
また慶尚南道 馬山には、重砲兵連隊が置かれていました(※騎兵や飛行は除く)。
対ロシア(ソビエト連邦)任務の第19師団管区には、咸鏡北道 羅南に第19師団司令部と歩兵第38旅団司令部、歩兵第73連隊・歩兵第76連隊が置かれていました。
さらに咸鏡南道の咸興に歩兵第37旅団司令部と歩兵第74連隊が置かれ、咸鏡北道の会寧に歩兵第75連隊が置かれていました。
四方を海に囲まれた本州には、東京・名古屋・大阪・京都・仙台・広島などにも師団が置かれていましたが、朝鮮軍の場合は同等の面積にわずか2師団しか置かれていませんでした。
そのため慢性的な戦力不足が指摘されていましたが、予定されていた師団の増設も昭和6年(1931年)に起きた満州事変により取り止めとなったまま終戦を迎えました。
当時の師団はおおよそ、歩兵中隊(50名程度の小隊×3)、歩兵大隊(中隊×3)、歩兵連隊(歩兵大隊×3)、歩兵旅団(歩兵連隊×2)、師団(歩兵旅団×2)という構造になっていました。
連隊が同一の兵営内で生活し一つの戦闘区域を任されていて、総数は1連隊あたり1,350名前後となっていました。
この他に騎兵隊や機関銃中隊、野砲兵連隊などがあり、師団(歩兵連隊×4とその他の部隊)の総数は約1万人となりました。
この状況の中で、昭和18年(1943年)1月に朝鮮軍はニューギニアのウエワクに、第20師団第78連隊・第79連隊・第80連隊、騎兵第28連隊、野砲兵第26連隊、工兵第20大隊、輜重兵第20連隊を出撃させていたのでした。※出撃部隊名 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「ニューギニアの戦い」より
説明されない「失われていた朝鮮軍」
私の父豊田 稔と同期の京城元町小学校 第35期生 戸田 幸雄氏が残された「京城の七九連隊を偲ぶ」。
戸田幸雄氏の「京城の七九連隊を偲ぶ」にも書かれていますが、ニューギニアのウエワクに出撃した部隊は、その半年前の昭和17年(1942年)の夏から南方戦を想定した極秘訓練を開始していました。
そして訓練終了と共に遺書を書かされ、昭和18年(1943年)1月8日深夜、機密保持のため誰にも見送られることなく総勢4,320名は貨物列車に詰め込まれて釜山港へ移動、そこから地獄への船出でした。
当時を知る人たちの話では、任務上土地勘のある人間を全て失うことは出来ないため、各連隊をそのまま出したのではなく、やり繰りをして編成したそうです。
そのため朝鮮人志願兵の青年たちも仲間の日本人日本兵と共に死地に送られることになりました。
しかし、それでも国境警備任務に就いていた平壌の第77連隊を除けば、第20師団の兵数は大幅に減っていました。
そのため、しばらく龍山の軍施設からは人の気配が消えていたということですが、この異変に真っ先に気が付いたのが、元町小学校や龍山小学校、三坂小学校などの基地周囲にあった小学校の児童たちでした。
日本国を信じ命をかけた朝鮮人を侮辱する日本人
徴兵されこの地に配属された日本人日本兵も、陸軍兵志願者訓練所を修了して配属された朝鮮人日本兵も、同じ歩兵営(歩兵の宿舎)で家族と離れて生活していました。
そのため放課後、基地周囲で遊ぶ子供たちを手招いて話しをして、望郷の念に駆られた心を癒していたそうです。
内地(日本本土)同様に京城も物資不足による配給制になり甘いものも消えていましたが、兵士にはエネルギー補給用に黒砂糖のかたまりや金平糖などが支給されていました。
それらを自分たちの話に付き合ってくれたご褒美として子供たちの口に含ませてくれたということでした。
その様な中で突然兵士の姿が消えたため、子供たちは優しかった兵隊さんたちが何処へ行ってしまったのか気掛かりだったのです。
そして引揚げ後、次第に学校の同期会が結成されて集ると、この件に関しての様々な情報がもたらされて、学校を越えて共有されました。
そのため、グレンデール裁判を闘われた目良浩一氏(京城三坂小学校)もご存じだったのです。
写真のオート三輪の持ち主が数少ないニューギニア戦線の生き残りの朝鮮人志願兵の方でした。
親しくさせていただいていた父の話では昭和30年(1955年)に東京で知り合ったということでした。
この方は慶尚南道出身者で、復員後、仲間の日本人日本兵の説得を受け日本に留まると、同郷のロッテ創業者の 重光 武雄氏の後見人を務めていました(詳細は後日に改めて)。
その中にあって第20師団管区の「済州島」で、日本軍が朝鮮人女性を強制連行していたと言い出した人物が吉田清治でした。
この時点で引揚げ日本人側の証言をきちんと集めて「吉田清治の証言」の矛盾を指摘、即時否定をしておけば後の「従軍慰安婦強制連行問題」は生れなかったはずですが、当時の日本はそれを選択しませんでした。
それどころか正体不明の人間の証言をハッキリとした証拠もないまま有効としたのに対して、抗議をした引揚げ日本人側の声をマスコミや教育界、日弁連が封殺してウソの情報を流したため、日本の歴史に「日本軍が朝鮮半島で起こした性犯罪」が加えられて行くことになりました。
さらに「従軍慰安婦強制連行問題」として、20万人規模の朝鮮人女性を連れ去ったというでっち上げをされて、世界に広められてしまったのです。
「南京大虐殺を忘れるな。慰安婦を忘れるな」とNHKラジオ放送で中国籍スタッフが世界へ向けて報道していたことが発覚しました。
しかし、靖国神社参拝問題や従軍慰安婦強制連行問題、その件で起きたグレンデール裁判でも引揚げ日本人の声を徹底的に無視をして国民に伝えなかった日本の教育界や日弁連、マスコミの姿勢を考えれば、今回の件も、ただNHK一局の問題ではないのです。
内なる敵の彼らが書き換えた歴史はまだまだあるのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。