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関東大震災時の朝鮮人排斥問題1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.9)


だい2の従軍じゅうぐん慰安婦いあんふ問題もんだい関東かんとう大震災だいしんさいじ朝鮮人ちょうせんじん虐殺ぎゃくさつ問題もんだい

したしくさせていただいている、ゆんばんさんが「関東かんとう大震災だいしんさいじ朝鮮人ちょうせんじん虐殺ぎゃくさつ問題もんだい」をあたらしい内鮮ないせん分断ぶんだん工作こうさくふるくは日本にほん朝鮮ちょうせん半島はんとう連携れんけい妨害ぼうがいする諜報ちょうほう活動かつどう現在げんざい日韓にっかん関係かんけい)としてこころいためられていましたので、このけんについてさきいておこうとおもいます。

ゆんばんさんは日韓にっかんハーフとして東京とうきょうまれそだったかたですが、韓国かんこく政府せいふ他国たこくつうじた政治せいじ集団しゅうだんによる間違まちがった反日はんにち宣伝せんでん日韓史にっかんし真実しんじつつたえるべく日本語にほんご韓国語かんこくご使つかい、おもにYouTubeで動画どうが配信はいしんをされているかたになります。

わたしもゆんばんさんのおかげで現在げんざい韓国かんこく反日はんにち勢力せいりょく状況じょうきょうや、在日ざいにちコミュニティの変化へんかることが出来できました。

関東かんとう大震災 だいしんさいきたさい朝鮮人ちょうせんじん中国人ちゅうごくじん台湾人たいわんじん留学生りゅうがくせい関東圏かんとうけん朝鮮人ちょうせんじん出稼でかせ労働者とうどうしゃ日本人にほんじん自警団じけいだん排斥はいせきされ、その過程かてい多数たすう死者ししゃたことはるぎのない事実じじつです。

また、犠牲者ぎせいしゃ人数にんずうなど大混乱だいこんらん状態じょうたいであった帝都ていと状況じょうきょう正確せいかくなものなどせるはずもありませんし、専門せんもんっていないわたしが、そこになにえるほどの情報じょうほうっているわけではありません。

しかしながら、この問題もんだい朝日あさひ新聞社しんぶんしゃなどが事実じじつ関係かんけいせてでっち世界せかい吹聴ふいちょうした「従軍じゅうぐん慰安婦いあんふ強制きょうせい連行れんこう問題もんだい」とおな要素ようそをかかえていますので、悪用あくようされるまえにその部分ぶぶんがどのようなものなのか、きちんとした資料しりょう使つか説明せつめいしておきたいとおもい、予定よていよりはやめにげることにしました。

まず今回こんかいは2つの関東かんとう大震災だいしんさい朝鮮人ちょうせんじん排斥はいせき騒動そうどうれた文章ぶんしょう紹介しょうかいします。



朝鮮ちょうせん創成そうせいかみ 素佐之男命すさのおのみこと

朝鮮ちょうせん神宮じんぐう中心ちゅうしんとしたる内鮮ないせん融和ゆうわ一考察いちこうさつ

つぎ文章ぶんしょう朝鮮ちょうせん神宮じんぐう御祭神ごさいじん論争ろんそう先頭せんとうった神道しんとう学者がくしゃ 小笠原おがさわら 省三しょうぞう大正たいしょう14年(1925年)に出版しゅっぱんした「朝鮮ちょうせん神宮じんぐう中心ちゅうしんとしたる内鮮ないせん融和ゆうわ一考察いちこうさつからになります。

朝鮮ちょうせん創成そうせいかみである素佐之男命すさのおのみこと(※檀君だんくん

檀君だんくん神話しんわとは高麗こうらい時代じだいまれた三国さんごく遺事いじで、天孫てんそん檀君だんくん古朝鮮こちょうせんひらき、その始祖しそになったとされる建国けんこく神話しんわのことです。

この檀君だんくん高天原たかまがはらより新羅しらぎ曽尸茂梨そしもりりたとされる素佐之男命すさのおのみこと同一視どういつしするかんがえがあり、小笠原おがさわら 省三しょうぞう賀茂かも百樹ももき靖国やすくに神社じんじゃ代目だいめ宮司ぐうじ)、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん肥田ひだ 景之かげゆきなどが中心ちゅうしんとなって、朝鮮ちょうせん神宮じんぐう創建そうけん時期じき大正たいしょう14年(1925年)に朝鮮ちょうせん創成そうせいかみである檀君だんくん素佐之男命すさのおのみこと神宮じんぐうにおまつりするべきという運動うんどうおこしました。

朝鮮ちょうせん神宮じんぐう御祭神ごさいじん論争ろんそうけんあらためてくわしく説明せつめいしますが、かれらは朝鮮ちょうせん神宮じんぐう天皇家てんのうけ指示しじをもって創建そうけんされていることをらず、決定権けっていけん朝鮮ちょうせん総督府そうとくふたいして抗議こうぎれてたため、作業さぎょうたっていた現場げんば人間にんげんからは迷惑めいわくがられただけでした。


神代じんだい(※神武じんむ天皇てんのう 即位そくい以前いぜん)にいて内鮮ないせん(※日本にほん朝鮮ちょうせん兩地りょうちける交通こうつうは、今日こんにちかんがえるよりも一層いっそう安易あんい親密しんみつおこなれたものであり、兩者りょうしゃ信仰しんこう道徳どうことくおなじうしたのみならず、言語げんご衣食住いしょくじゅう血縁けつえんとうおなじきものたりしは、人種學上じんしゅがくじょう 證明しょうめいさるばかりでなく、兩者りょうしゃ神話しんわ傳説でんせつ類似るいじせるにちょうしても(※らしわせても)明瞭めいりょうである。

わが出雲いずも地方ちほう主催者しゅさいしゃであつた素佐之男命すさのおのみことは、朝鮮ちょうせん創成そうせいかみ檀君だんくんであるとつたらることても、神代じんだいける鮮地せんち(※朝鮮ちょうせん半島はんとう)の大部分だいぶぶん出雲いずも系統けいとう支配下しはいかり、おお出雲いずも文化ぶんか恩澤おんたくこうむつて(※恩恵おんけいけて)たものであう。

したがつて神社じんじゃごときも、形式けいしき多少たしょう相違そういがあつても、邦人ほうじん中心ちゅうしんとして、建設けんせつせられ、日本にほん朝鮮ちょうせんとの融和ゆうわ重要じゅうよう機關きかんをなしてたものかんがえるが至當しとう(※当然とうぜん)である。

神武じんむ以後いご幾度いくどかの征韓軍せいかんぐん派遣はけんされたが、もっと大規模だいきぼなものは、神功じんぐう皇后こうごうえきであつた。

皇后こうごう朝鮮ちょうせんより歸化きかせし天日矛命あめのひぼこ後裔こうえい(※子孫しそん)であるが、一軍いちぐん統帥とうすいとして天神てんじん地祇ちぎ(※あらゆるかみ)を御座船ござぶね奉齋ほうさいし(※丁重ていちょうにまつり)、凱旋後がいせんご長門ながと(※山口県やまぐちけん 下関市しものせきし兵庫ひょうご(※兵庫県ひょうごけん 神戸市こうべし河内かわち(※大阪府おおさかふ  大阪おおさか)の三地さんちに、住吉神すみのえのかみ鎭祭ちんさい(※かみをまつり土地とちおさめるための儀式ぎしき)して戰勝せんしょう御禮おんれい(※御礼おんれい)をし、ひとつ對鮮たいせん準備じゅんびともされた。

このとき以後いご 新羅しらぎ 高麗こま 百濟くだら三ケさんか國王こくおうにも國土こくど鎭護ちんごのために各々おのおの日本にほん神祇じんぎ(※天津あまつかみ国津くにつかみ)を奉齋ほうさいせしめられたであろうことは、日本にほん書記しょき 欽明きんめい天皇てんのうつて察知さっちされる。

朝鮮ちょうせん神宮じんぐう中心ちゅうしんとしたる内鮮ないせん融和ゆうわ一考察いちこうさつ」より
普通ふつう学校がっこう 国史こくし教授書きょうじゅしょ
出雲いずも地方ちほう朝鮮ちょうせん半島はんとうふか関係かんけい
天日槍あめのひぼこ天日矛命あめのひぼこ)の子孫しそん 神功じんぐう皇后こうごう説明せつめい

新制しんせい普通ふつう学校がっこう国史こくし教授書きょうじゅしょとは当時とうじ 朝鮮ちょうせん半島はんとう朝鮮人ちょうせんじん児童じどうかよっていた普通ふつう学校がっこうでの歴史れきしおしかたマニュアルになります。

小笠原おがさわら 省三しょうぞう認識にんしきそのものは大東亜だいとうあ 戦争せんそう 敗北前はいぼくまえ日本にほんでは特別とくべつなものではなく、くに許可きょか朝鮮人ちょうせんじん児童じどうにもおしえていたレベルのものでした。

そして、つぎが「朝鮮ちょうせん神宮じんぐう中心ちゅうしんとしたる内鮮ないせん融和ゆうわ一考察いちこうさつ」より関東かんとう大震災だいしんさいとそのについての記述きじゅつになります。



遭難そうなん鮮人せんじん 慰靈祭いれいさい


大正たいしょう十二年じゅうにねん 十二月じゅうにがつ 二十七日にじゅうしちにち! それはわす月日つきひであり、史上しじょう未曾有みぞう惡日あくにちであつた。

とし九月くがつ 一日ついたち大震災だいしんさいさいおおくの同胞どうほうみず生命せいめいうしなつたが、それれい近親きんしん知己ちきりて、それぞれ慰籍いしゃ法要ほうようされて幽世かくりよ(※死後しご世界せかい)におもむかれたが、環境かんきょうことにし、習慣しゅうかんことにせる内地ないち(※日本にほん本土ほんど)にりて大震災だいしんさい遭遇そうぐうし、無殘むざんげたる數千すうせん鮮人せんじん(※朝鮮ちょうせんじん)にたいしては、當時とうじ 何等なんら慰靈いれい方法ほうほうかんがられてなかつた。

こころざし郷土きょうどで、言語げんご不自由ふじゆう内地ないちわたりて、一意いちい専心せんしん 生活苦せいかつくたたかありし鮮人せんじん諸氏しょしに、突如とっきょとしておそきたりしものは大震災だいしんさい悲惨ひさんなる流言りゅうげん蜚語ひご(※飛語ひごであつた。

われ當時とうじ追想ついそうし、日本人にほんじんとして大國民だいこくみんとして、じつ慚愧ざんきないものがおおい。平素へいそ訓練くんれん教養きょうよう何處どこにかうしなれて、ひたすら周章しゅうしょう狼狽ろうばい(※あわてふためく)した結果けっか悲惨ひさんなる幾多いくた物語ものがたりのこるをなかつた。

是等これらむごしき鮮人せんじん同胞どうほうれいなぐさむるために、(※わたし)は同志どうしはかりてとし十二月じゅうにがつ 二十七日にじゅうしちにち小石川こいしかわ 龍生淵りゅうせいえん(※神道館しんとうかん 龍生淵りゅうせいえん  )にて盛大せいだい祭事さいじおこなつた。

さいわい相愛そうあい會長かいちょう 李 起東 ふく會長かいちょうぱく 春琴しゅんきん(※昭和しょうわ7年に日本初にほんはつ朝鮮人ちょうせんじん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん兩氏りょうし熱烈ねつれつなる厚意こういりて、東京とうきょう 名古屋なごや 各地かくちより參集さんしゅうせし鮮人せんじん千餘名せんよめい牛込うしごめ 赤城あかぎ下町したまち事務所じむしょより祭場さいじょうまで長蛇ちょうだじんつくりて行進こうしんし、祭場さいじょうにてもきわめて嚴肅げんしゅく荘重そうちょう(※おごそかで重々おもおもしい)なる態度たいどにて慰靈祭いれいさいおわるまでせきはずすもの一人ひとりもなかつたことと、朝鮮ちょうせん總督府そうとくふ鮮銀せんぎん(※朝鮮ちょうせん銀行ぎんこう)、東拓とうたく(※東洋とうよう拓殖たくしょく株式かぶしき会社がいしゃ)、滿鐵まんてつ南満州まんしゅう鉄道てつどう株式かぶしき会社がいしゃとう朝鮮ちょうせん關係かんけい團體だんたいはじめ、頭山とうやま(※頭山とうやま みつる 肥田ひだ(※肥田ひだ 景之かげゆき堀内 篠田しのだ(※篠田しのだ 治策じさく)の諸氏しょし來會らいかいせられたこととは、われ衷心ちゅうしん感謝かんしゃせるところである(※こころそこから感謝かんしゃしている)。

ことあまねげたいことは、祭事さいじはこれまで普通ふつうおこなれた法要ほうようちがじゅん國禮こくれい國式こくしき(※国礼こくれい国式こくしき神仏しんぶつ分離ぶんり国家こっか神道しんとう方式ほうしき)にて執行しっこうされたことである。

すなわ神道しんとう儀禮ぎれいりて嚴肅げんしゅく執行しっこうせられ、参會さんかい鮮人せんじん諸君しょくんにも多大ただい感銘かんめいあたこと特記とっきしたいのである。

今日こんにち當時とうじ悲壮ひそうなる場面ばめんわすこと出來できない。
參會者さんかしゃ大部分だいぶぶん勞働者ろうどうしゃであつたが、なかには白衣はくい婦人ふじんまじわつて、祭事さいじはじめよりすで嗚咽おえつ涕泣ていきゅう(※なみだながしてく)、熱涙ねつるいそでひざしめらしてた。

平田ひらた齋主さいしゅ祝詞のりとときなど、場内じょうない悲泣ひきゅうこえ滿たされ、並居へいきょなど暗涙あんるいむせばざるをなかつた(※列席れっせきしているわたしたちも同情どうじょうしてこえをつまらせるほどにいてしまった)。
かなしみは、われともわかたねばならぬものだと、とき一層いっそう痛感つうかんしたのであつた。

祭事さいじ終了後しゅうりょうご鮮人せんじん諸君しょくんしたしく辨當べんとう(※弁当べんとう)をしょくし、神酒みわんで直會なおらいひら夜更よふくるまで(※夜中よなかまで)かたつた。
これ印象いんしょうは、當時とうじ撮影さつえいせし活動かつどう寫眞しゃしんともに、半生はんせいつうじてもっとわすがたきものであり、こう記念きねんである。

このに、とらもん兇變きょうへんがあつたのだ。大正たいしょう十二年じゅうにねん 十二月じゅうにがつ 二十七日にじゅうしちにちは、にとりてもっとわす月日つきひとなつたのである。

朝鮮ちょうせん神宮じんぐう中心ちゅうしんとしたる内鮮ないせん融和ゆうわ一考察いちこうさつ」より「遭難そうなん鮮人せんじん慰靈祭いれいさい

くわしい説明せつめいのちほどにまわして、ややながいものですが、当時とうじることが出来でき文章ぶんしょうをもうひと紹介しょうかいします。



しん朝鮮ちょうせん愛敬あいぎょうせよ

しん 朝鮮ちょうせん風土記ふどき

しん朝鮮ちょうせん愛敬あいぎょうせよ」とは、「日本にほん併合へいごうされ近代化きんだいかはじめた朝鮮ちょうせん半島はんとう朝鮮ちょうせん民族みんぞくたいして親愛しんあい尊敬そんけいをもってせっしよ」という意味いみになります。

実際じっさい著者ちょしゃ朝鮮ちょうせん半島はんとうわた見聞けんぶんした体験たいけんもとつづられた「しん 朝鮮ちょうせん風土記ふどき」。

ひだり 朝鮮ちょうせん宿やどいこ著者ちょしゃ みぎ 関東かんとう大震災だいしんさい横死おうしした朝鮮人ちょうせんじん支那しな中国ちゅうごくじん台湾人たいわんじん追悼碑ついとうひ

箸者ちょしゃ師尾もろお 源蔵げんぞう明治めいじ30年(1897年)4月16日に新潟にいがたけんうまれ、明治めいじ大学だいがく入学にゅうがく、シベリア出兵しゅっぺい応召おうしょうして帰国きこく大正たいしょう10年(1921年)6月10日に明治めいじ大学だいがく射撃部しゃげきぶ創部そうぶしました。

大正たいしょう13年(1924年)3月に明治めいじ大学だいがく 専門部せんもんぶ 政治せいじ経済けいざい卒業そつぎょう明治めいじ大学だいがく 嘱託しょくたく講師こうし就任しゅうにんした、日本にほん射撃しゃげき競技きょうぎ創始者そうししゃでもあります。※経歴けいれきは フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の師尾もろお 源蔵げんぞうより。


世界せかい平和へいわは、人類じんるい最高さいこう理想りそうである。それは隣人りんじんあいし、同脆どうほう(※同胞どうほう)とともしたしむことからその一歩いっぽすすいとおもこの意味いみおいほん大學だいがく中華ちゅうか朝鮮ちょうせん臺灣たいわん學生がくせい諸君しょくんとの會合かいごうは、世界せかい平和へいわうえまこと重大じゅうだいなる意義いぎありとしんずるものである。」

云々うんぬん檄文げきぶん學生がくせい控所ひかえしょ掲示板けいじばんられたのは、大正たいしょう十二年じゅうにねん(※1923年)關東かんとう大震災だいしんさい直後ちょくごのあるであつた。
母校ぼこう復與ふっこう運命うんめいすらあやぶまれた學園がくえんには、一種いっしゅさびしさがただよ社會しゃかいにはなお不安ふあん焦繰しょうそう氣分きぶんみなぎつてときだつた。

あの大震災だいしんさいに、群衆ぐんしゅうは、所謂いわゆる 流言りゅうげん匪語ひご(※飛語ひごに、心氣しんき沮失そうしつ(※喪失そうしつ)し、如何いか突嗟とっさ(※咄嗟とっさ)にして、一寸いっすん先闇さきやみ状態じょうたいかれたとはもうせ、あわてふためいたその體態ていたらく(※ていたらく)は、日本にほん國民こくみん弱點じゃくてんを、おつぴら(※おおっぴら)に曝露ばくろしたまことにおはず(※はず)かしい次第しだいであつた。

それはようするに朝鮮ちょうせんたいする國民的こくみんてき常識じょうしきが、朝野ちょうや(※政府せいふ民間みんかん)ともにかつたため、さもしい連中れんちゅう些少さしょううたが非常時ひじょうじ錯誤さくご心理しんり(※おもみ)とから、んでもない流言りゅうげんんで、れがついに、一波いっぱから萬波まんぱおよぼしてしまつたのであつた。

「まさかそんなことはあはずがありません。大勢おおぜいなかですから馬鹿者ばかものもありますが、おたがいもっのがれるときかえつて土地とち不案内ふあんない朝鮮人ちょうせんじんこそ、周圍しゅういおそろしいわけではありませんか。」

「あなたは在郷ざいごう軍人ぐんじん幹部かんぶのくせに、どうして朝鮮人ちょうせんじん味方みかたするんです・・・」

萬一まんいち 貴方あなたがたのおつしやるうな事柄ことがらがよもやせてるわけはありませんが、そうしたところが、なに 頭數あたまかずうえからだけでも、衛戍地えいじゅち(※ぐん永久えいきゅう駐屯地ちゅうとんち現役げんえき兵士へいしちからをみても、常識上じょうしきじょう、まあ、てんで問題もんだいにするほどさわぎぢやありません、相手あいて性質せいしつをよくわきま(※わきまればね・・・」

そうつてわたしは、空騒からさわぎする群衆ぐんしゅうをなだめすかして、每夜まいよ每夜まいよ 自警團じけいだん指揮しきしてつた。其頃そのころ群衆ぐんしゅうさわいだことには、だれ責任せきにんはない。みんな運命うんどうである。ただみじめなつたものこそあわれであつた。

Aこうにはむかしから、支那しな留學生りゅうがくせいや、朝鮮ちょうせん臺灣たいわん學生がくせいが、きゅうて(※とお故郷こきょうはなれて)まなもの非常ひじょうおおい。

それでわたしのクラスメートちゅうでも、滿洲まんしゅう 黑龍江こくりゅうこうしょう 出身しゅっしん支那しな學生がくせいが、神田かんだ 今川小路いまがわこうじ下宿先げしゅくさきで、病床びょうしょうまま 壓死あっし其上そのうえ火事かじかれた。
こんなれいほかにも澤山たくさんあつた。朝鮮ちょうせん學生がくせいにも行衛ゆくえ(※行方ゆくえ不明ふめいになつたものもあるらしい。

それで私共わたしどもは、あき一日いちにちを、學友がくゆう追悼會ついとうかいね、なんとなう心細こころぼそがつて支那しな朝鮮ちょうせん臺灣たいわんとう遠來えんらい學生がくせいさそつて、紅葉もみじりとしやれこんだ。

當時とうじ この環境かんきょうおいて、こころ痛手いたでむねめて、ひがみこころ一層いっそうふかくなつた朝鮮ちょうせん學生がくせいさそことは、じつ容易よういならぬ問題もんだいであつた。

日頃ひごろ 好朋友ハァポンユウ(※仲良なかよし)の間柄あいだがらであり、なにかとばなしまで無遠慮ぶえんりょにする支那しな留學生りゅうがくせいは、私共わたしどもこのくわだてを○○しょう政策せいさくではないかとあやしみはじめた。

朝鮮ちょうせん學生がくせいは、わたしを○○ちょう(※ちょう)のスパイだとうたがつたものがあつた。
○○しょ高等係こうとうがかり(※反体制はんたいせい活動家かつどうか取締とりしまった秘密ひみつ警察けいさつ)がしきりにわたし訪問ほうもんして、なにかためにするあつまり(※べつ目的もくてきでのあつまり)ではないかとさぐりをれにた。

校内こうない教職員きょうしょくいんで、留學生りゅうがくせいをねぎらうもよおしの獨専的どくせんてき(※独裁的どくさいてきぶりをしめすくせのあるものとうは そして自己じこ推薦すいせんと、自己じこ吹聽ふいちょうにのみたくみな連中れんちゅうは、そのときにわかにこのピクニックの準備會じゅんびかいすら敬遠けいえん主義しゅぎをとつた。

そして彼等かれら故意こいわたしをあざむいて缺席けっせきした。
あるいまた折角せっかくその會合かいごうのぞながら、突然とつぜん中座ちゅうざしたぼうは、だけだか(※威丈高いたけだか)にわたしののしつていわく「わたしのような社會的しゃかいてき地位ちいと、身分みぶんのあるものを、こんな險惡けんあく朝鮮ちょうせん學生がくせいあつまつて旅行りょこう準備會じゅんびかい出席しゅっせきさせるなんて、まったきみ責任せきにんだ。きみ信用しんようしてかおせばあのざまだ。わたしんでもないかい列席れっせきした。○○のほうへでもれたら、どれだけわたし名譽めいよきずつけられるかれん。」

私共わたしどもはこのちいさい學園内がくえんないおいてすら四面しめん楚歌そかのさげすみのなかに、とにかくこのピクニツクをもよおすことは、日頃ひごろ 大言たいげん壮語そうご學者がくしゃ先輩せんぱいづらげた卑怯者ひきょうもの あるいは、こぢれた人々ひとびとのよりをもどかつ同志どうしかたためには、人情にんじょう機微きび(※ひと本心ほんしん本音ほんね)にふれる幾多いくたとうとい そしてにがい體驗たいけん(※体験たいけん)をあたられたことを感謝かんしゃしたのである。

とにかくそれほど震災しんさい直後ちょくごにはなかまった無智むちなる神經しんけい過敏かびん人々ひとびとが、日本にほんめてつたのだうか、世間せけんには私利しり私慾しよくと、わがためにせんとする賣名ばいめい(※売名ばいめい)の日支にっし親善しんぜん論者ろんしゃ僞善慾ぎぜんよく學者がくしゃまた内鮮ないせん融和ゆうわ主義しゅぎしゃ國際こくさい平和へいわさけぶはい(※やから、仲間なかま)はおおい。

淺間あさましい奴等やつらくちぬぐつてる。けれども奈邊どのへんまで彼等かれらがその眞諦しんたい(※真実しんじつ)をつかるかどうか。非常時ひじょうじにあたり冷靜れいせいなる理性りせい判斷はんだん國民性こくみんせい背景はいけいとして、居常きょじょう(※普段ふだんはたして如何いかなる犠牲的ぎせいてき精神せいしんもってそのことたいしてるのか。

吹聽ふいちょうよりも最小さいしょう限度げんど實行じっこうにある。おのれ名利みょうり(※名誉めいよ利益りえき)とささやかな隱謀いんぼうをすてよ、功利こうり主義しゅぎ(※全体ぜんたい幸福こうふくのためには一部いちぶ犠牲ぎせいみとめるかんがえ)でひと世話せわなどできるものか、すべて犠牲的ぎせいてき仕事しごとものはやすおこなかたい。

いやかたおこなかた理由わけなのだ。

友情ゆうじょう國境こっきょう

東京とうきょう近郊きんこう 高尾山たかおさんは、十三州じゅうさんしゅう見晴臺みはらしだいや、藥王院やくおういん古刹こさつ(※ふるてら)があり、丁度ちょうどピクニツクには手頃てごろ場所ばしょ、その山麓さんろくから、しろひのき丸太まるたを、三十人さんじゅうにんあまりの大學生だいがくせい一團いちだんが、交亙こうご頂上ちょうじょうまでかつ(※かつ)いでのぼつた。

關東かんとう名山めいざんから一望いちぼう景勝けいしょう地點ちてんやま南端なんたん 人目ひとめけたくさむら一角いっかくに、わががくゆうついとうのためにこれをたつ」(※写真しゃしん追悼碑ついとうひしるして、震災しんさい横死おうし友人ゆうじん亡靈ぼうれいを、こころゆくばかりなぐさめようといのである。

わたし世話人せわにん一人ひとりとして導師どうしをつとめ合掌がっしょうして、「粤妙法蓮雖諸佛之祕藏也、多寳佛塔證經之踴現也發明資乎十力弘建在於四依有禪師法號楚金姓程廣平人也」云々うんぬん讀經どっきょう(※読経どっきょう)した。

「光明遍照十万方世界 念佛衆生攝取不捨」ぬかづく學友がくゆうひとしくなみだ滂沱ぼうだとしてくだるのである(※ふかあたまげる学友がくゆうたちはみななみだがとめどなくながれたのである)。

そして野菊のぎく、すすきの花束はなたばささげ、たずさ水筒すいとうみずそそいでは心情しんじょう切々せつせつこころこころところ何等なんら誤解ごかい疑惑ぎわくはない。
そしてまた民族的みんぞくてき反感はんかんしょうじない。ただに人間にんげんあい友情ゆうじょうのきづなが、かたむすばれたのみであつた。わたしはいつもこうかんがる。

友情ゆうじょうには國境こっきょうい」と
「おいきみ友情ゆうじょう勿論もちろんぢやが、こい(※こい)にも國境こっきょうがなかろうがね・・・」
有難ありがとう!君等きみら氣持もちはよくわかる。また歸國きこくしてもあそびにるよ」

たがいにぎあせばんだそのこぶし その日本人にほんじん支那人しなじん 臺灣人 たいわんじん朝鮮人ちょうせんじん
その一行いっこうは、高尾山たかおさんからとうげづた大垂見おおたるみで、途中とちゅう林間りんかん紅葉こうよういてさけあたたむ」の故事こじちなみ、各自かくじ たずさ辨當べんとう(※弁当べんとう)をひらいて、聯詩れんし(※連詩れんし)などにきょうじ、あきたのしき行樂こうらくともわかつたのであつた。

我等われらいま朝鮮ちょうせんに、新附しんぷ同胞どうほう二千にせん萬人まんにんをもつことうれしい。そのかずにしても全日本ぜんにほん人口じんこう三分さんぶんいちちか半島はんとう住民じゅうみん

ただしい朝鮮ちょうせん姿すがた朝鮮ちょうせんたいする充分じゅうぶんなる常識的じょうしきてき理解りかいたねばならぬことは、内地人ないちじん當然とうぜん責任せきんであつて、朝鮮ちょうせんらざるものは、日本人にほんじんたるの資格しかくけてるとともに、朝鮮人ちょうせんじんみずかまたすすんで、しん日本にほんおよび日本人にほんじんたましいつかまねばならぬ。

内鮮ないせん兩民族りょうみんぞくは、もとより同根どうこんにして同祖どうそ、しかも四千年よんせんねんらい文化的ぶんかてき交渉こうしょうの、いともふか兄弟きょうだい同志どうしではないか。

しん 朝鮮ちょうせん風土記ふどき」より「學校がっこう國際こくさい倶楽部くらぶ

師尾もろお 源蔵げんぞう慰霊いれい学生がくせいたちがのぼった東京都とうきょうと 八王子はちおうじにある高尾山たかおさん

八王子はちおうじという地名ちめい由来ゆらい神仏しんぶつ習合しゅうごう時代じだい疫病神やくびょうがみわざわいをしたがえる存在そんざい)であり、祇園祭ぎおんまつり祭神さいじんとしてもられている牛頭ごず天王てんのう眷属けんぞくである八人はちにん王子おうじ八柱やはしらの御子神みこがみからとされています。

Googleマップじょう八王子はちおうじ神社じんじゃにその八王子はちおうじまつられていますが、高尾山たかおさんにはほか薬師やくし如来にょらい飯縄いづな権現ごんげん本尊ほんぞんとする高尾山たかおさん 薬王院やくおういんがあります。

そして牛頭ごず天王てんのう薬師やくし如来にょらい垂迹すいじゃくほとけのこの世界せかいでのかり姿すがた)であるとともにスサノオノミコト本地ほんち本来ほんらい姿すがた)ともされていました。

スサノオノミコトと別称べっしょう

すなわち小笠原おがさわら 省三しょうぞういていた出雲いずも地方ちほう主催者しゅさいしゃであつた素佐之男命すさのおのみこと師尾もろお 源蔵げんぞうおとずれた高尾山たかおさんまつられていた薬師やくし如来にょらい同一どういつ存在そんざいになります。

このよう関東かんとう大震災だいしんさい騒動そうどうなげき、朝鮮人ちょうせんじん支那人しなじん台湾人たいわんじんれいなぐさめたひとたちは、出雲族いずもぞく朝鮮ちょうせん半島はんとうとのかかわりを理解りかいしていて、同根どうこん同祖どうそでありとお祖先そせんはつながっているとかんがえていたのです。

ながくなりましたが、もうひと小笠原おがさわら 省三しょうぞうが「大正たいしょう十二年じゅうにねん(1923年) 十二月じゅうにがつ 二十七日にじゅうしちにち! それはわす月日つきひであり、史上しじょう未曾有みぞう惡日あくにちであつた。」といていた部分ぶぶんれておきたいとおもいます。

これは、当然とうぜんですが慰霊いれい式典しきてんのことではありません。

この東京府とうきょうふ 東京市とうきょうし 麹町区こうじまちく 虎の門外とらのもんがい摂政官せっしょうかん大正たいしょう天皇てんのう代役だいやく)をつとめていた皇太子こうたいし 裕仁ひろひと親王しんおうが、無政府むせいふ主義者しゅぎしゃ(アナキスト)難波なんば 大助だいすけから狙撃そげきされた大事件だいじけんのことになります。

左翼さよくテロ」、この言葉ことばこそが関東かんとう大震災だいしんさいになぜ朝鮮人ちょうせんじん排斥はいせきにつながる流言りゅうげん飛語ひご発生はっせいしたのか、それを理解りかいするためのキーワードなのです。


本日ほんじつはここまでになります。おいいただきありがとうございました。
次回じかいは、戦後せんご 朝日あさひ新聞社しんぶんしゃなどのマスコミや教育きょういく関係者かんけいしゃかくしていることについて具体的ぐたいてき説明せつめいしていきたいとおもいます。






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