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関東大震災時の朝鮮人排斥問題1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.9)
第2の従軍慰安婦問題「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」
親しくさせていただいている、ゆんばんさんが「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」を新しい内鮮分断工作(古くは日本と朝鮮半島の連携を妨害する諜報活動、現在は日韓関係)として心を痛められていましたので、この件について先に書いておこうと思います。
ゆんばんさんは日韓ハーフとして東京で生まれ育った方ですが、韓国政府や他国と通じた政治集団による間違った反日の宣伝と日韓史の真実を伝えるべく日本語と韓国語を使い、主にYouTubeで動画配信をされている方になります。
私もゆんばんさんのおかげで現在の韓国の反日勢力の状況や、在日コミュニティの変化を知ることが出来ました。
関東大震災 が起きた際に朝鮮人・中国人・台湾人の留学生、関東圏の朝鮮人出稼ぎ労働者が日本人の自警団に排斥され、その過程で多数の死者が出たことは揺るぎのない事実です。
また、犠牲者の人数など大混乱状態であった帝都の状況で正確なものなど割り出せるはずもありませんし、専門に追っていない私が、そこに何か言えるほどの情報を持っているわけではありません。
しかしながら、この問題も朝日新聞社などが事実関係を伏せてでっち上げ世界に吹聴した「従軍慰安婦強制連行問題」と同じ要素をかかえていますので、悪用される前にその部分がどの様なものなのか、きちんとした資料を使い説明しておきたいと思い、予定より早めに取り上げることにしました。
まず今回は2つの関東大震災時の朝鮮人排斥騒動に触れた文章を紹介します。
朝鮮創成の神 素佐之男命
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次の文章は「朝鮮神宮御祭神論争」の先頭に立った神道学者 小笠原 省三が大正14年(1925年)に出版した「朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察」からになります。
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檀君神話とは高麗時代に編まれた「三国遺事」で、天孫の檀君が古朝鮮を開き、その始祖になったとされる建国神話のことです。
この檀君を高天原より新羅の曽尸茂梨に降りたとされる素佐之男命と同一視する考えがあり、小笠原 省三や 賀茂百樹(靖国神社3代目宮司)、衆議院議員肥田 景之などが中心となって、朝鮮神宮の創建時期の大正14年(1925年)に朝鮮の創成の神である檀君(素佐之男命)を神宮にお祀りするべきという運動を起しました。
「朝鮮神宮御祭神論争」の件は改めて詳しく説明しますが、彼らは朝鮮神宮が天皇家の指示をもって創建されていることを知らず、決定権の無い朝鮮総督府に対して抗議を入れて来たため、作業に当たっていた現場の人間からは迷惑がられただけでした。
神代(※神武天皇 即位以前)に於いて内鮮(※日本と朝鮮)兩地に於ける交通は、今日考ふるよりも一層安易に親密に行はれたものであり、兩者は其の信仰道徳を同じうしたのみならず、言語、衣食住、血縁等も同じきものたりしは、人種學上 證明さるゝばかりでなく、兩者の神話傳説の類似せるに徴しても(※照らし合わせても)明瞭である。
わが出雲地方の主催者であつた素佐之男命は、朝鮮創成の神と云はるゝ檀君であると傳へらるゝ事を見ても、神代に於ける鮮地(※朝鮮半島)の大部分は出雲系統の支配下に在り、多く出雲文化の恩澤を蒙つて(※恩恵を受けて)ゐたものであらう。
従つて「神社」の如きも、形式に多少の相違があつても、邦人を中心として、彼の地に建設せられ、日本と朝鮮との融和の重要機關をなして居たものと考ふるが至當(※当然)である。
神武以後、幾度かの征韓軍が派遣されたが、其の最も大規模なものは、神功皇后の役であつた。
皇后は朝鮮より歸化せし天日矛命の後裔(※子孫)であるが、一軍の統帥として天神地祇(※あらゆる神)を御座船に奉齋し(※丁重にまつり)、凱旋後、長門(※山口県 下関市) 兵庫(※兵庫県 神戸市) 河内(※大阪府 大阪市)の三地に、住吉神を鎭祭(※神をまつり土地を治めるための儀式)して戰勝の御禮(※御礼)をし、一は對鮮の準備ともされた。
この時以後 新羅 高麗 百濟の三ケ國王にも國土鎭護のために各々日本の神祇(※天津神と国津神)を奉齋せしめられたであろう事は、日本書記 欽明天皇紀に依つて察知される。
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新制普通学校国史教授書とは当時 朝鮮半島の朝鮮人児童の通っていた普通学校での歴史の教え方マニュアルになります。
小笠原 省三の認識そのものは大東亜 戦争 敗北前の日本では特別なものではなく、国が許可し朝鮮人児童にも教えていたレベルのものでした。
そして、次が「朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察」より関東大震災とその後についての記述になります。
遭難鮮人 慰靈祭の日
大正十二年 十二月 二十七日! それは忘れ得ぬ月日の名であり、史上未曾有の惡日であつた。
其の年の九月 一日の大震災の際、多くの我が同胞は火に水に生命を失つたが、それ等の靈は近親知己に依りて、それぞれ慰籍法要されて幽世(※死後の世界)に赴かれたが、環境を異にし、習慣を異にせる内地(※日本本土)に在りて大震災に遭遇し、無殘の死を遂げたる數千の鮮人(※朝鮮人)に對しては、當時 何等慰靈の方法が考へられて居なかつた。
志を立てゝ郷土を出で、言語不自由の内地に渡りて、一意専心 生活苦と闘ひつゝありし鮮人諸氏に、突如として襲ひ來りしものは彼の大震災に次ぐ悲惨なる流言蜚語(※飛語)であつた。
われ等は當時を追想し、日本人として大國民として、實に慚愧に堪へないものが多い。平素の訓練も教養も何處にか失はれて、ひたすら周章狼狽(※あわてふためく)した結果、悲惨なる幾多の物語を殘さゞるを得なかつた。
是等の慘しき鮮人同胞の靈を慰むるために、予(※私)は同志と計りて其の年の十二月 二十七日、小石川 龍生淵(※神道館 龍生淵 )にて盛大な祭事を行つた。
幸に相愛會長 李 起東 副會長の朴 春琴(※昭和7年に日本初の朝鮮人衆議院議員)兩氏の熱烈なる厚意に依りて、東京 名古屋 其の他 各地より參集せし鮮人千餘名、牛込 赤城下町の事務所より祭場まで長蛇の陣を作りて行進し、祭場にても極めて嚴肅荘重(※おごそかで重々しい)なる態度にて慰靈祭の終るまで席を外すもの一人もなかつた事と、朝鮮總督府、鮮銀(※朝鮮銀行)、東拓(※東洋拓殖株式会社)、滿鐵(南満州鉄道株式会社)等の朝鮮關係團體を始め、頭山(※頭山 満) 肥田(※肥田 景之)堀内 篠田(※篠田 治策)の諸氏が來會せられた事とは、われ等の衷心感謝せるところである(※心の底から感謝している)。
殊に普く世に告げたい事は、此の祭事はこれまで普通行はれた法要と違ひ、純國禮國式(※国礼国式・神仏分離後の国家神道方式)にて執行された事である。
即ち神道の儀禮に依りて嚴肅に執行せられ、参會の鮮人諸君にも多大の感銘を與へ得た事を特記したいのである。
予は今日猶ほ當時の悲壮なる場面を忘るゝ事は出來ない。
參會者の大部分は勞働者であつたが、中には白衣の婦人も交わつて、祭事の始めより既に嗚咽涕泣(※涙を流して泣く)、熱涙は其の袖も膝も濕らしてゐた。
平田齋主の祝詞の時など、場内悲泣の聲に滿たされ、並居し予等も暗涙に噎ばざるを得なかつた(※列席している私たちも同情して声をつまらせるほどに泣いてしまった)。
此の悲しみは、われ等も共に分たねばならぬものだと、其の時 一層痛感したのであつた。
祭事終了後、鮮人諸君と親しく辨當(※弁当)を食し、神酒を汲んで直會を開き、夜更くるまで(※夜中まで)語つた。
これ等の印象は、當時撮影せし活動寫眞と共に、予の半生を通じて最も忘れ難きものであり、好記念である。
この日に、彼の虎の門の兇變があつたのだ。大正十二年 十二月 二十七日は、予にとりて最も忘れ得ぬ月日となつたのである。
詳しい説明は後ほどにまわして、やや長いものですが、当時を知ることが出来る文章をもう一つ紹介します。
新朝鮮を愛敬せよ
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「新朝鮮を愛敬せよ」とは、「日本に併合され近代化を始めた朝鮮半島と朝鮮民族に対して親愛と尊敬をもって接しよ」という意味になります。
実際に著者が朝鮮半島に渡り見聞した体験を基に綴られた「新 朝鮮風土記」。
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箸者の師尾 源蔵は明治30年(1897年)4月16日に新潟県に生れ、明治大学に入学、シベリア出兵に応召して帰国後の大正10年(1921年)6月10日に明治大学に射撃部を創部しました。
大正13年(1924年)3月に明治大学 専門部 政治経済科を卒業、明治大学 嘱託講師に就任した、日本の射撃競技の創始者でもあります。※経歴は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「師尾 源蔵」より。
「世界の平和は、人類最高の理想である。それは先づ隣人を愛し、同脆(※同胞)と共に親しむことから其一歩を進め度いと思ふ。此意味に於て本大學の中華、朝鮮、臺灣學生諸君との會合は、世界平和の上に誠に重大なる意義ありと信ずるものである。」
云々の檄文が學生控所掲示板に貼られたのは、大正十二年(※1923年)關東大震災直後のある日であつた。
母校復與の運命すら危ぶまれた學園には、一種の寂しさが漂ひ、社會には猶、不安と焦繰の氣分が漲つて居る時だつた。
あの大震災に、群衆は、所謂 流言匪語(※飛語)に、心氣を沮失(※喪失)し、如何に突嗟(※咄嗟)にして、一寸先闇の状態に置かれたとは申せ、慌てふためいた其體態(※体たらく)は、日本國民の弱點を、おつぴら(※大っぴら)に曝露した誠にお耻(※恥)かしい次第であつた。
それは要するに朝鮮に對する國民的常識が、朝野(※政府と民間)ともに無かつた爲、さもしい連中の些少の疑ひと非常時の錯誤心理(※思い込み)とから、飛んでもない流言を生んで、其れが遂に、一波から萬波に及ぼしてしまつたのであつた。
「まさかそんな事はあらう筈がありません。大勢の中ですから馬鹿者もありますが、お互が身を以て逃れる時、反つて土地不案内の朝鮮人こそ、周圍が恐ろしい譯ではありませんか。」
「あなたは在郷軍人の幹部のくせに、どうして朝鮮人に味方するんです・・・」
「萬一 貴方方のおつしやるやうな事柄がよもや押し寄せて來るわけはありませんが、そうした所が、何 頭數の上からだけでも、衛戍地(※軍の永久駐屯地)現役兵士の力をみても、常識上、まあ、てんで問題にする程の騒ぎぢやありません、相手の性質をよく辨(※弁)へて居ればね・・・」
そう云つて私は、空騒ぎする群衆をなだめすかして、每夜每夜 自警團を指揮して居つた。其頃の群衆の騒いだことには、誰も責任はない。みんな運命である。唯みじめな目に會つた者こそ憐れであつた。
A校には昔から、支那留學生や、朝鮮、臺灣學生等が、笈を負ふて(※遠く故郷を離れて)學ぶ者が非常に多い。
それで私のクラスメート中でも、滿洲 黑龍江省 出身の支那學生が、神田 今川小路の下宿先で、病床の儘 壓死し其上火事に燒かれた。
こんな例は他にも澤山あつた。朝鮮學生にも行衛(※行方)不明になつた者もあるらしい。
それで私共は、秋の一日を、學友追悼會を兼ね、何となう心細がつて居る支那、朝鮮、臺灣等の遠來學生を誘つて、紅葉狩りとしやれこんだ。
當時 此環境に於て、心の痛手を胸に秘めて、ひがみ心の一層深くなつた朝鮮學生を誘ふ事は、實に容易ならぬ問題であつた。
日頃 好朋友(※仲良し)の間柄であり、何かと打ち明け話しまで無遠慮にする支那留學生は、私共の此企を○○省の政策ではないかと怪しみ始めた。
朝鮮學生は、私を○○廰(※庁)のスパイだと疑つた者があつた。
○○署の高等係(※反体制活動家を取締った秘密警察)が頻りに私を訪問して、何かためにする集り(※別の目的での集まり)ではないかとさぐりを入れに來た。
校内の教職員で、留學生をねぎらう催しの獨専的(※独裁的)素ぶりを示すくせのある者等は そして自己推薦と、自己吹聽にのみ巧みな連中は、そのときにわかにこのピクニックの準備會すら敬遠主義をとつた。
そして彼等は故意に私をあざむいて缺席した。
或は又折角その會合に臨み乍ら、突然中座した某は、威だけ高(※威丈高)に私を罵つて曰く「私のような社會的地位と、身分のある者を、こんな險惡な朝鮮學生の集つて居る旅行準備會に出席させるなんて、全く君の責任だ。君を信用して顔を出せばあのざまだ。私は飛んでもない會に列席した。○○の方へでも知れたら、どれだけ私の名譽を傷つけられるか知れん。」
私共はこの小さい學園内に於てすら四面楚歌のさげすみの中に、とに角このピクニツクを催すことは、日頃 大言壮語の學者や先輩づら下げた卑怯者 或は、こぢれた人々のよりを戻し 且つ同志を語らふためには、人情の機微(※人の本心や本音)にふれる幾多の尊い そしてにがい體驗(※体験)を與へられたことを感謝したのである。
とにかくそれ程震災直後には世の中は全く無智なる神經過敏の人々が、日本を埋めて居つたのだらうか、世間には私利私慾と、わがためにせんとする賣名(※売名)の日支親善論者、僞善慾學者又は内鮮融和主義者、國際平和を叫ぶ輩(※やから、仲間)は多い。
淺間しい奴等は口を拭つて居る。けれども奈邊まで彼等がその眞諦(※真実)を掴み得て居るかどうか。非常時にあたり冷靜なる理性の判斷を缺く國民性を背景として、居常(※普段)果して如何なる犠牲的精神を以てその事に對して居るのか。
吹聽よりも最小限度の實行にある。己の名利(※名誉や利益)とささやかな隱謀をすてよ、功利主義(※全体の幸福のためには一部の犠牲を認める考え)で人の世話などできるものか、すべて犠牲的の仕事と云ふものは言ふは易く行ふは難い。
いや言ふも難く行ふも難い理由なのだ。
友情に國境無し
東京近郊 高尾山は、十三州見晴臺や、藥王院古刹(※古い寺)があり、丁度ピクニツクには手頃の場所、その山麓から、白い檜の丸太を、三十人あまりの大學生の一團が、交亙に頂上まで擔(※担)いで登つた。
關東の名山から一望景勝の地點、山の南端 人目を避けた叢の一角に、「我學友爲追悼建之」(※写真の追悼碑)と記して、震災横死友人の亡靈を、心ゆくばかり慰めようといふのである。
私も世話人の一人として導師をつとめ合掌して、「粤妙法蓮雖諸佛之祕藏也、多寳佛塔證經之踴現也發明資乎十力弘建在於四依有禪師法號楚金姓程廣平人也」云々と讀經(※読経)した。
「光明遍照十万方世界 念佛衆生攝取不捨」喝ツ 額づく學友等しく涙滂沱として下るのである(※深く頭を下げる学友たちは皆、涙がとめどなく流れたのである)。
そして野菊、すすきの花束を捧げ、携へた水筒の水を注いでは心情切々。心と心の解け合ふ所、何等の誤解と疑惑はない。
そして又民族的反感も生じない。ただに人間愛と友情のきづなが、堅く結ばれたのみであつた。私はいつもこう考へる。
「友情には國境が無い」と
「おい君、友情は勿論ぢやが、戀(※恋)にも國境がなかろうがね・・・」
「有難う!君等の氣持はよくわかる。又歸國しても遊びに來るよ」
互に握り合ふ汗ばんだ其拳 其手! 日本人と支那人 臺灣人 朝鮮人!
その一行は、高尾山から峠傳ひに大垂見に出で、途中「林間に紅葉を焚いて酒を暖む」の故事に因み、各自 携へた辨當(※弁当)を開いて、聯詩(※連詩)などに打ち興じ、秋の樂しき行樂を共に分つたのであつた。
我等は今、朝鮮に、新附同胞二千萬人をもつ事は嬉しい。その數にしても全日本人口の三分の一に近い半島の住民!
正しい朝鮮の姿を見、朝鮮に對する充分なる常識的理解を持たねばならぬ事は、内地人當然の責任であつて、朝鮮を知らざる者は、日本人たるの資格に缺けて居ると共に、朝鮮人は自ら又進んで、眞の日本及日本人の魂を摑まねばならぬ。
内鮮兩民族は、素より同根にして同祖、しかも四千年來文化的交渉の、いとも深き兄弟同志ではないか。
師尾 源蔵と慰霊の学生たちが登った東京都 八王子市にある高尾山。
八王子という地名の由来は神仏習合時代の疫病神(災いを従える存在)であり、祇園祭の祭神としても知られている牛頭天王の眷属である八人の王子(八柱御子神)からとされています。
Googleマップ上の八王子神社にその八王子は祀られていますが、高尾山には他に薬師如来と飯縄権現を本尊とする高尾山 薬王院があります。
そして牛頭天王は薬師如来の垂迹(仏のこの世界での仮の姿)であるとともにスサノオノミコトの本地(本来の姿)ともされていました。
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すなわち小笠原 省三が書いていた「出雲地方の主催者であつた素佐之男命」と師尾 源蔵が訪れた高尾山に祀られていた薬師如来は同一の存在になります。
この様に関東大震災の騒動を嘆き、朝鮮人や支那人、台湾人の霊を慰めた人たちは、出雲族と朝鮮半島との関りを理解していて、同根同祖であり遠い祖先の血はつながっていると考えていたのです。
長くなりましたが、もう一つ小笠原 省三が「大正十二年(1923年) 十二月 二十七日! それは忘れ得ぬ月日の名であり、史上未曾有の惡日であつた。」と書いていた部分に触れておきたいと思います。
これは、当然ですが慰霊式典のことではありません。
この日、東京府 東京市 麹町区 虎の門外で摂政官(大正天皇の代役)を務めていた皇太子 裕仁親王が、無政府主義者(アナキスト)の難波 大助から狙撃された大事件のことになります。
「左翼テロ」、この言葉こそが関東大震災時になぜ朝鮮人排斥につながる流言飛語が発生したのか、それを理解するためのキーワードなのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。
次回は、戦後 朝日新聞社などのマスコミや教育関係者が隠していることについて具体的に説明していきたいと思います。