第2の従軍慰安婦問題「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」
親しくさせていただいている、ゆんばんさんが「関東大震災時の朝鮮人虐殺問題」を新しい内鮮分断工作(古くは日本と朝鮮半島の連携を妨害する諜報活動、現在は日韓関係)として心を痛められていましたので、この件について先に書いておこうと思います。
ゆんばんさんは日韓ハーフとして東京で生まれ育った方ですが、韓国政府や他国と通じた政治集団による間違った反日の宣伝と日韓史の真実を伝えるべく日本語と韓国語を使い、主にYouTubeで動画配信をされている方になります。
私もゆんばんさんのおかげで現在の韓国の反日勢力の状況や、在日コミュニティの変化を知ることが出来ました。
関東大震災 が起きた際に朝鮮人・中国人・台湾人の留学生、関東圏の朝鮮人出稼ぎ労働者が日本人の自警団に排斥され、その過程で多数の死者が出たことは揺るぎのない事実です。
また、犠牲者の人数など大混乱状態であった帝都の状況で正確なものなど割り出せるはずもありませんし、専門に追っていない私が、そこに何か言えるほどの情報を持っているわけではありません。
しかしながら、この問題も朝日新聞社などが事実関係を伏せてでっち上げ世界に吹聴した「従軍慰安婦強制連行問題」と同じ要素をかかえていますので、悪用される前にその部分がどの様なものなのか、きちんとした資料を使い説明しておきたいと思い、予定より早めに取り上げることにしました。
まず今回は2つの関東大震災時の朝鮮人排斥騒動に触れた文章を紹介します。
朝鮮創成の神 素佐之男命
次の文章は「朝鮮神宮御祭神論争」の先頭に立った神道学者 小笠原 省三が大正14年(1925年)に出版した「朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察」からになります。
檀君神話とは高麗時代に編まれた「三国遺事」で、天孫の檀君が古朝鮮を開き、その始祖になったとされる建国神話のことです。
この檀君を高天原より新羅の曽尸茂梨に降りたとされる素佐之男命と同一視する考えがあり、小笠原 省三や 賀茂百樹(靖国神社3代目宮司)、衆議院議員肥田 景之などが中心となって、朝鮮神宮の創建時期の大正14年(1925年)に朝鮮の創成の神である檀君(素佐之男命)を神宮にお祀りするべきという運動を起しました。
「朝鮮神宮御祭神論争」の件は改めて詳しく説明しますが、彼らは朝鮮神宮が天皇家の指示をもって創建されていることを知らず、決定権の無い朝鮮総督府に対して抗議を入れて来たため、作業に当たっていた現場の人間からは迷惑がられただけでした。
新制普通学校国史教授書とは当時 朝鮮半島の朝鮮人児童の通っていた普通学校での歴史の教え方マニュアルになります。
小笠原 省三の認識そのものは大東亜 戦争 敗北前の日本では特別なものではなく、国が許可し朝鮮人児童にも教えていたレベルのものでした。
そして、次が「朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察」より関東大震災とその後についての記述になります。
遭難鮮人 慰靈祭の日
詳しい説明は後ほどにまわして、やや長いものですが、当時を知ることが出来る文章をもう一つ紹介します。
新朝鮮を愛敬せよ
「新朝鮮を愛敬せよ」とは、「日本に併合され近代化を始めた朝鮮半島と朝鮮民族に対して親愛と尊敬をもって接しよ」という意味になります。
実際に著者が朝鮮半島に渡り見聞した体験を基に綴られた「新 朝鮮風土記」。
箸者の師尾 源蔵は明治30年(1897年)4月16日に新潟県に生れ、明治大学に入学、シベリア出兵に応召して帰国後の大正10年(1921年)6月10日に明治大学に射撃部を創部しました。
大正13年(1924年)3月に明治大学 専門部 政治経済科を卒業、明治大学 嘱託講師に就任した、日本の射撃競技の創始者でもあります。※経歴は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「師尾 源蔵」より。
師尾 源蔵と慰霊の学生たちが登った東京都 八王子市にある高尾山。
八王子という地名の由来は神仏習合時代の疫病神(災いを従える存在)であり、祇園祭の祭神としても知られている牛頭天王の眷属である八人の王子(八柱御子神)からとされています。
Googleマップ上の八王子神社にその八王子は祀られていますが、高尾山には他に薬師如来と飯縄権現を本尊とする高尾山 薬王院があります。
そして牛頭天王は薬師如来の垂迹(仏のこの世界での仮の姿)であるとともにスサノオノミコトの本地(本来の姿)ともされていました。
すなわち小笠原 省三が書いていた「出雲地方の主催者であつた素佐之男命」と師尾 源蔵が訪れた高尾山に祀られていた薬師如来は同一の存在になります。
この様に関東大震災の騒動を嘆き、朝鮮人や支那人、台湾人の霊を慰めた人たちは、出雲族と朝鮮半島との関りを理解していて、同根同祖であり遠い祖先の血はつながっていると考えていたのです。
長くなりましたが、もう一つ小笠原 省三が「大正十二年(1923年) 十二月 二十七日! それは忘れ得ぬ月日の名であり、史上未曾有の惡日であつた。」と書いていた部分に触れておきたいと思います。
これは、当然ですが慰霊式典のことではありません。
この日、東京府 東京市 麹町区 虎の門外で摂政官(大正天皇の代役)を務めていた皇太子 裕仁親王が、無政府主義者(アナキスト)の難波 大助から狙撃された大事件のことになります。
「左翼テロ」、この言葉こそが関東大震災時になぜ朝鮮人排斥につながる流言飛語が発生したのか、それを理解するためのキーワードなのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。
次回は、戦後 朝日新聞社などのマスコミや教育関係者が隠していることについて具体的に説明していきたいと思います。