京城元町小学校 放火・学校長殉職事件
一. 大正七年 十二月 五日 午前一時 二十分頃、本校第一館東部より発火、雨天体操場(※体育館)、及之に連接せる二教室、倉庫一棟を残して全部烏有に帰す(※火災で何もかもが無くなった)。
当日 午前五時頃 鎮火。学校長 鈴木志津衛 御真影の奉遷せられたるを知らずして奉安所前に至り、遂に壮絶なる死を遂ぐ。
御真影・勅語謄本は当夜 宿直員 木川訓導(※先生)に依りて奉遷せらる。
学校沿革史に記録されている様に大正7年(1918年)12月5日、当時の京城(現在の韓国ソウル)元町小学校 鈴木 志津衛 学校長が奉安所前にて殉職されました。
奉安殿(奉安所)とは大日本帝国憲法下の日本において、天皇と皇后の写真である「御真影」と、明治天皇が教育の基本方針を示した「教育勅語謄本」が収められていた、学校の最重要施設でした。
この御真影を下賜されることは学校管理組合にとっては名誉なことでしたが、御真影にカビや傷が付くことも許されないため、管理に当たる学校長にとっては非常に神経を使うものでした。
その施設が大正7年(1918年)12月5日の 深夜に、放火と思われる大火災により焼失したのです。
この際、異変に気がつき消火不能を悟った宿直の木川訓導が、床に直置きすることすら許されない御真影と勅語謄本を奉安所から救出、両手で抱え込んで暗闇の中を京城府庁へと返却に向かいました。
鈴木校長は火災の一報を受け学校へ駆けつけた際に、不運にも木川訓導と入れ違いになったそうで、そのまま学校管理責任者として御真影・勅語謄本の救出に奮闘、奉安所前にて壮絶な死を遂げました。
その殉職の状況は、昭和12年(1937年)に帝国教育会(日本教職員組合の前に結成されていた全国的な教育者団体)により出版された「教育塔誌」にも記録されています。
教育塔は大阪府 大阪市 中央区の大阪城公園内にある、教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設されたモニュメントです。
昭和9年(1934年)の室戸台風で殉職した教職員や死亡した児童が多数出たため、二度と同様の災害が起きないよう祈願し、昭和11年(1936年)に帝国教育会の発案・決議により建設されました。
その最初の合祀者の一人に鈴木 志津衛学校長は選ばれていました。
昭和5年(1930年)12月 十三回忌( 死去して12年後の命日)には、 鈴木 校長 追悼 展覧会 と 座談会 が 設 けられるなど、 終戦 まで 学校長 としての 覚悟を 示した 壮絶な 最期の 姿と 共に 京城の 教育 関係者にその 名が 語り 継がれていきました。
しかし、この悲劇は初代朝鮮総督を務めた寺内 正毅 内閣総理大臣の決断のもとで始まったシベリア出兵(大正7年7月に出兵、大正11年に撤兵)から、わずか5カ月後に起きたことだったのです。
揺れる京城・ロシア革命とシベリア出兵
「朝鮮獨立思想運動の變遷」昭和6年(1931年)朝鮮総督府 法務局発行。
シベリア出兵時の大正7年(1918年)は、まだ京城(赤マーカー)からシベリアと国境を接していた咸鏡北道(羅南に朝鮮軍第19師団司令部)まで鉄道はつながっていませんでした。
しかし港が整備されていた元山(青マーカー)までは敷設されていたため、本土から増派した部隊を龍山の朝鮮軍施設で訓練をさせつつ待機させ、龍山駅から貨車に乗せ運び、元山港から輸送船によって移送することが出来ました。
その重要拠点であり、日頃から夜間巡回も行われ警備が厳重なはずの場所で学校火災・学校長殉職事件が起きたのでした。
しかも、明治40年(1907年)10月には自ら京城(ソウル)を訪れていた当代の大正天皇(訪韓時は嘉仁親王)の御真影が難にあったのです。
その少し前から、一部 反日朝鮮人による日本人襲撃が多発していたこともあり、京城の日本人は大きな不安に包まれました。
祖父 豊田 靖国と結婚する前の祖母 岩森 千代子の父親 岩森 守平は、韓国統監府官吏(役人)から併合後は朝鮮総督府の経理課書記として勤務していました。
そのため父親の仕事の都合上、祖母は家族と共に朝鮮軍 司令部側に住んでいましたが、連日周囲で起きるトラブルから自主的に子供や女性も集団で移動するようになり、交代で木刀などで武装した男性が護衛していたとのことでした。
これが本格的な日本人自警団の始まりと言われていたものになります。
関東大震災の際に内地(日本本土)で自警団が急に出来たのではありませんでした。
そして、この学校焼失・学校長殉職事件からわずか3カ月後の大正8年(1919年)3月1日、京城の中心街で大騒動が勃発しました。
それが「萬歳事件」だったのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。