「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」
「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」
古代中国の儒学者 孟子の、力(武力)に頼る「覇道」ではなく、仁愛(民を思いやり愛しむ)による「王道(政治)」によって天下は治まるという主張を表すものです。
そして、それは「水戸学」が「明治 維新」へと向かわせた「覇道 の徳川家を倒し仁愛の政治体制を天皇の下に 実現する」という 尊王攘夷運動の 中心思想になった 理由でもありました。
民の生活に心を配らない政治は改めなければならない。
国の根幹である民が「陰」であるならば、民の上に立つ王は「陽」になる。その政道は恵みの光りとなって万民に降りそそがれなければならない。
どちらが欠けてもいけない、どちらか一方が栄えるということはなく、調和をもって国家は運営されなければならない。
「陰」と「陽」一体となってこそ天下は治まる。
これが「陰陽一体」、天下万民のための政治の理想形とされ、明治維新時には「五箇条の御誓文」として明治天皇によって誓われました。
また韓国が併合された後の朝鮮総督府が大正天皇の大御心(天皇の考え・意思)として掲げたスローガン「内鮮一体」にも受け継がれた政治姿勢でした。
山陰の鳥取藩主 池田 慶徳(水戸藩主 徳川斉昭の五男)、山陽の岡山藩主 池田 茂政(水戸藩主 徳川斉昭の九男)、徳川の覇道を自ら終わらせた最後の征夷大将軍 徳川慶喜(水戸藩主 徳川斉昭の七男)、水戸藩から尊王攘夷の旗を掲げた水戸天狗党。
明治維新後、政府の要職を抑えた薩摩藩と長州藩を「陽」とするならば、「大政奉還」を果たし国内の乱れを最小限に留め、明治維新を導いた水戸藩は「陰」と言えます。
そして、この「陰の功労者」の水戸徳川家の兄弟、水戸天狗党の功績を明治天皇や皇族は承知していました。
維新前殉難者 水戸天狗党
明治22年(1889年)2月11日、明治天皇の「大日本帝国憲法発布の詔勅」と共に「大日本帝国憲法」が発布されました。
伊藤 博文を中心に作成されたこの憲法によって、日本は東アジアで初めての近代憲法をもつ立憲君主国家(君主の権力が憲法によって規制されている政治体制)となったのです。
そして、この大日本帝国にとっての記念すべき明治22年(1889年)の5月2日、政府より官報にてある告示がありました。
官報1749号告示、陸軍省告示第10号、陸軍大臣 伯爵 大山巌。
維新前殉難者 旧水戸藩士 安島帯刀 以下1,390名、旧宍戸藩 松平大炊頭 以下63名、旧松川藩士 中村修之助 以下7名を同年5月5日に靖国神社において招魂式、翌6日に例大祭(年に1、2回行われる神社の大祭)の際に併せて合祀の祭典を執行、靖国神社へ合祀するという発表でした。
水戸藩士・宍戸藩士・松川藩士と、茨城県にあった藩の総勢1,460名の合祀者名を列挙しています。
明治22年(1889年)5月に靖国神社に合祀された維新前殉難者の中には、水戸天狗党を率いた武田 伊賀守(武田 耕雲斎)と、その長男 彦衛門、次男 魁介や、水戸学の 学者 藤田 東湖の四男で武蔵国 榛沢郡 血洗島村(埼玉県 深谷市 血洗島)で藍の栽培や藍玉(藍染の青い染料)を商っていた豪農出身の渋沢 栄一(徳川慶喜元家臣・近代日本経済の父 )とも面識のあった 藤田 小四郎の名前もありました。
武田 伊賀守(武田 耕雲斎)は水戸天狗党の乱の鎮圧後に斬首されましたが、その塩漬けにされた首を抱えさせられて耕雲斎の妻も斬首、幼い子供たちも処刑されました。
天狗党の藩士だけではなく、連座という形で家族も処刑されたため、水戸藩内には深い遺恨が生じました。
その後、攻守を代え悲劇は繰り返され多数の人命が失われたため、水戸藩は維新後の国造りに人材を出すことが叶いませんでした。
この悲運の水戸(茨城県)にとっての吉事に合わせるように明治22年(1889年)鉄道の水戸線が開通しました。
この時に水戸線の水戸駅で売られたものが、現在 茨城県の名物となっている水戸納豆でした。
この時期、元水戸藩士の家に生れた初代笹沼 清左衛門は、苦難の研究開発の末に近代的な納豆製造事業に成功したばかりでした。
そして「水戸学」とその思想に殉じた「維新前殉難者 水戸天狗党」を尊ぶ初代笹沼 清左衛門によって「天狗納豆」の名が付けられ販売が開始されると、茨城県を代表する食品にまでになったのでした。
事業が成功した後の笹沼 清左衛門(茨城人名辞書は初代の子供)は水戸東照宮の氏子総代や薬王院檀徒世話人等を務めました。
この水戸東照宮に祀られた東照大権現(徳川家康)と、水戸学の基礎となった大日本史編纂を始めた徳川光圀によって大修理されていた天台宗の水戸薬王院の本尊はどちらも東方浄瑠璃世界(七宝の一つ瑠璃の濃い青い色の様に澄んだ世界)を治める薬師如来になります。
そして薬師如来と同一の存在とされた仏が、鎮護国家(仏の力で国家を守護・安定させる) 思想においては特に霊験あらたかとされた妙見菩薩(北極星・北斗七星を神格化)でした。
また薬師如来(妙見菩薩)は、本地垂迹説では牛頭天王、すなわちスサノオノミコトになります。
豊田 靖国
官報1749号は、維新後に曾祖父牧野 勝次郎の出仕していた軍施設(この時点では鳥取歩兵第四十連隊は未設置)においても壁一面に貼り出されたということでした。
そして軍上層より「大日本帝国憲法を戴いたこれより後は、維新時の遺恨を捨て、心ひとつに天皇陛下(国)に仕えよ」という講話があったそうです。
これに深い感銘を受けた曾祖父牧野 勝次郎は、5日 招魂祭、6日 例大祭、7日 直会(神事の締めの行事)の翌8日に生れた我が子に、「国を靖(安)んずる(平和で穏やかな国をつくる)」ことを願い、亡くなられた水戸藩士をはじめとした靖国神社に祀られた方たちに恥じぬよう、この国に尽くせという願いを込めて「靖国」と名付けました。
鳥取・士族(元武士の家)牧野 勝次郎。
資料写真右側の氏名の横の「四〇、六、九」は明治36年(1903年)時点で6月9日生まれの40歳を意味しています。
左側8年後の明治44年(1911年)ではその分の年齢が加算されて48歳となっています(豊田への改姓は明治39年【1906年】)。
曾祖父牧野 勝次郎が明治三十七八年戦役(日露戦争)に出征したのは、生れた子供に水戸の維新前殉難者合祀にあやかって「靖国」の名を与えた後でした。
明治三十七八年戦役(日露戦争) 岡山縣出身従軍戦歿者 誠忠録に刻まれた阿部 二郎 陸軍歩兵少尉。
阿部 二郎 陸軍歩兵少尉は、明治10年(1877年)に直心影流の剣術家 阿部 守衛の子として生まれました。
日露戦争出征時は第2大隊 第5中隊附の第3小隊長として奮戦しましたが、最初に右足下腿部、続けて左足下腿部に銃弾を受けて地上に転倒、そのまま匍匐(地に伏して手ではって行くこと)しながら指揮を継続しました。
その後、中隊長 牧野勝次郎大尉が少尉の負傷に気付き治療を受けるように命令。
部下に助けられ仮繃帯所(応急救護施設)に向かう途中で狙撃され胸部に被弾、明治37年(1904年)8月30日午後1時40分に戦死しました。
記録ではその後、曾祖父 牧野 勝次郎がその死を悼惜し(いたんで)、すぐに殊勲の賞典が与えられることを申請した。ほどなくして、正七位に叙せられ金一封が授与されたとあります。
「靖国」の名を子供に与えた父親は自らが最前線で戦い、多くの若い命が失われて行くのを見送っていました。
日本の歴史上唯一、国の命令で大陸・朝鮮半島と関わっていた「靖国」は「神社」ではなく「人者」でした。
そして祖父豊田 靖国の役割は対外戦争の戦没者を大々的に祀る前の「靖国神社」の代りでした。※任務の詳細は長くなるため別の回で説明します。
二・二六事件(226事件)と豊田 勝中隊長
「心ひとつに天皇陛下(国)に仕えよ」との軍の訓示から47年後の昭和11年(1936年)2月26日。
陸軍の青年将校らが岡田 啓介 内閣総理大臣、斎藤 実 内大臣らを襲撃した上、首相官邸・陸軍省・参謀本部などが集中する東京の麹町・三宅坂一帯を占拠し、「国家改造」を要求するというクーデターが発生しました。
「二・二六事件(226事件)」の勃発でした。
この騒動の渦中にいた軍人が祖父 豊田 靖国の弟 豊田 勝少佐でした。
大叔父は事件の前後の昭和7年(1932年)から昭和11年(1936年)の2月(同年3月より朝香宮 孚彦王附属武官に転属)まで陸軍士官学校 本科生徒隊 中隊長として士官学校(東京都 新宿区 市ヶ谷)で士官育成任務に当たっていました。
その生徒だった士官の中に朝鮮総督時代に祖父と面識のあった斎藤 実内大臣を襲撃した将校がいたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。
今回の一見バラバラの様な話が朝鮮半島でつながることによって、「昭和天皇が二・二六事件を起こした青年将校に激怒した理由」が浮かび上がって来ます。
次回はその説明になります。