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靖国・君が代・朝鮮半島1 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.18)



いにしえひとたみともたのしむ、ゆえたのしむなり」

たみともたのしむために造園ぞうえんされた水戸みと偕楽園かいらくえん茨城いばらきけん 水戸みと

いにしえひとたみともたのしむ、ゆえたのしむなり」
古代こだい中国ちゅうごく儒学者じゅがくしゃ 孟子もうしの、ちから武力ぶりょく)にたよる「覇道はどう」ではなく、仁愛じんあいたみおもいやりいつくしむ)による「王道おうどう政治せいじ)」によって天下てんかおさまるという主張しゅちょうあらわすものです。

そして、それは「水戸学みとがく」が「明治 めいじ維新いしん」へとかわせた「覇道 はどう徳川家とくがわけたお仁愛じんあい政治せいじ体制たいせい天皇てんのうもと実現じつげんする」という 尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう中心ちゅうしん思想しそうになった 理由りゆうでもありました。

たみ生活せいかつこころくばらない政治せいじあらためなければならない。
くに根幹こんかんであるたみいんであるならば、たみうえおうようになる。その政道せいどうめぐみのひかりとなって万民ばんみんりそそがれなければならない。

どちらがけてもいけない、どちらか一方いっぽうさかえるということはなく、調和ちょうわをもって国家こっか運営うんえいされなければならない。
いんよう一体いったいとなってこそ天下てんかおさまる。

これが陰陽いんよう一体いったい天下てんか万民ばんみんのための政治せいじ理想形りそうけいとされ、明治めいじ維新時いしんじには「五箇条ごかじょう御誓文ごせいもん」として明治めいじ天皇てんのうによってちかわれました。

また韓国かんこく併合へいごうされたのち朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ大正たいしょう天皇てんのう大御心おおみこころ天皇てんのうかんがえ・意思いし)としてかかげたスローガン内鮮ないせん一体いったいにもがれた政治せいじ姿勢しせいでした。

さんいん鳥取とっとり藩主はんしゅ 池田いけだ 慶徳よしのり水戸みと藩主はんしゅ 徳川とくがわ斉昭なりあき五男ごなん)、さんよう岡山おかやま藩主はんしゅ 池田いけだ 茂政もちまさ水戸みと藩主はんしゅ 徳川とくがわ斉昭なりあき九男きゅうなん)、徳川とくがわ覇道はどうみずかわらせた最後さいご征夷せいい大将軍たいしょうぐん  徳川とくがわ慶喜よしのぶ水戸みと藩主はんしゅ 徳川とくがわ斉昭なりあき七男しちなん)、水戸みとはんから尊王そんのう攘夷じょういはたかかげた水戸みと天狗党てんぐとう

明治めいじ維新後いしんご政府せいふ要職ようしょくおさえた薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんようとするならば、「大政たいせい奉還ほうかん」をたし国内こくないみだれを最小限さいしょうげんとどめ、明治めいじ維新いしんみちびいた水戸みとはんいんえます。

そして、この「かげ功労者こうろうしゃ」の水戸みと徳川家とくがわけ兄弟きょうだい水戸みと天狗党てんぐとう功績こうせき明治めいじ天皇てんのう皇族こうぞく承知しょうちしていました。



維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃ 水戸みと天狗党てんぐとう

官報かんぽう 号外ごうがい 大日本だいにほん帝国ていこく憲法けんぽう 内閣ないかく官報局かんぽうきょく

明治めいじ22年(1889年)2月11日、明治めいじ天皇てんのうの「大日本だいにほん帝国ていこく憲法けんぽう発布はっぷ詔勅しょうちょく」とともに「大日本だいにほん帝国ていこく憲法けんぽう」が発布はっぷされました。

伊藤いとう 博文ひろぶみ中心ちゅうしん作成さくせいされたこの憲法けんぽうによって、日本にほんひがしアジアではじめての近代きんだい憲法けんぽうをもつ立憲りっけん君主くんしゅ国家こくか君主くんしゅ権力けんりょく憲法けんぽうによって規制きせいされている政治せいじ体制たいせい)となったのです。

そして、この大日本だいにほん帝国ていこくにとっての記念きねんすべき明治めいじ22年(1889年)の5月2日、政府せいふより官報かんぽうにてある告示こくじがありました。

官報かんぽう1749ごう告示こくじ陸軍りくぐんしょう告示こくじだい10ごう陸軍りくぐん大臣だいじん 伯爵はくしゃく 大山おおやまいわお

維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃ  きゅう水戸みと藩士はんし 安島あじま帯刀たてわき 以下いか1,390めいきゅう宍戸ししどはん  松平まつだいら大炊頭おおいのかみ 以下いか63めいきゅう松川まつかわ藩士はんし  中村修之助 以下いかめい同年どうねん5月5日に靖国やすくに神社じんじゃにおいて招魂式しょうこんしきよく6日に例大祭れいたいさいねんに1、2かいおこなわれる神社じんじゃ大祭たいさい)のさいあわせて合祀ごうし祭典さいてん執行しっこう靖国やすくに神社じんじゃ合祀ごうしするという発表はっぴょうでした。

官報かんぽう1749ごう維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃ 合祀者名ごうししゃめい

水戸みと藩士はんし宍戸ししど藩士はんし松川まつかわ藩士はんしと、茨城いばらきけんにあったはん総勢そうぜい1,460めい合祀者名ごうししゃめい列挙れっきょしています。

(左)19(右)18
(左)21(右)20
(左)22(右)23
武田たけだ 伊賀守いがのかみ武田たけだ 耕雲斎こううんさい)・藤田ふじた 小四郎こしろう 部分ぶぶん拡大かくだい

明治めいじ22年(1889年)5月に靖国やすくに神社じんじゃ合祀ごうしされた維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃなかには、水戸みと天狗党てんぐとうひきいた武田たけだ 伊賀守いがのかみ武田たけだ 耕雲斎こううんさい)と、その長男ちょうなん 彦衛門ひこえもん次男じなん  魁介かいすけや、水戸学みとがく 学者がくしゃ 藤田ふじた 東湖とうこ四男よんなん武蔵国むさしのくに 榛沢はんざわぐん  血洗島ちあらいじまむら埼玉さいたまけん 深谷ふかや 血洗島ちあらいじま)であい栽培さいばい藍玉あいだま藍染あいぞめあお染料せんりょう)をあきなっていた豪農ごうのう出身しゅっしん渋沢しぶさわ 栄一えいいち徳川とくがわ慶喜よしのぶ元家臣もとかしん近代きんだい日本にほん経済けいざいちちとも面識めんしきのあった 藤田ふじた 小四郎こしろう名前なまえもありました。

武田たけだ 伊賀守いがのかみ武田たけだ 耕雲斎こううんさい)は水戸みと天狗党てんぐとうらん鎮圧後ちんあつご斬首ざんしゅされましたが、その塩漬しおづけにされたくびかかえさせられて耕雲斎こううんさいつま斬首ざんしゅおさな子供こどもたちも処刑しょけいされました。

天狗党てんぐとう藩士はんしだけではなく、連座れんざというかたち家族かぞく処刑しょけいされたため、水戸みと藩内はんないにはふか遺恨いこんしょうじました。
その攻守こうしゅ悲劇ひげきかえされ多数たすう人命じんめいうしなわれたため、水戸藩みとはん維新後いしんごくにづくりに人材じんざいすことがかないませんでした。

この悲運ひうん水戸みと茨城いばらきけん )にとっての吉事きちじわせるように明治めいじ22年(1889年)鉄道てつどう水戸みとせん開通かいつうしました。

このとき水戸みとせん水戸みとえきられたものが、現在げんざい 茨城いばらきけん名物めいぶつとなっている水戸みと納豆なっとうでした。

水戸みと藩士はんし 靖国やすくに神社じんじゃ合祀ごうしおなねん発売はつばいされた水戸みと天狗てんぐ納豆なっとう

この時期じきもと水戸みと藩士はんしいえうまれた初代しょだい笹沼ささぬま 清左衛門せいざえもんは、苦難くなん研究けんきゅう開発かいはつすえ近代的きんだいてき納豆なっとう製造せいぞう事業じぎょう成功せいこうしたばかりでした。

そして「水戸学みとがく」とその思想しそうじゅんじた「維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃ 水戸みと天狗党てんぐとう」をとうと初代しょだい笹沼ささぬま 清左衛門せいざえもんによって「天狗てんぐ納豆なっとう」のけられ販売はんばい開始かいしされると、茨城いばらきけん代表だいひょうする食品しょくひんにまでになったのでした。

茨城いばらき人名じんめい辞書じしょ笹沼ささぬま 清左衛門せいざえもん

事業じぎょう成功せいこうしたのち笹沼ささぬま 清左衛門せいざえもん茨城いばらき人名じんめい辞書じしょ初代しょだい子供こども)は水戸みと東照宮とうしょうぐう氏子うじこ総代そうだい薬王院やくおういん檀徒だんと世話人せわにんとうつとめました。

この水戸みと東照宮とうしょうぐうまつられた東照とうしょう大権現だいごんげん徳川とくがわ家康いえやすと、水戸みとがく基礎きそとなった大日本史だいにほんし編纂へんさんはじめた徳川とくがわ光圀みつくにによって大修理だいしゅうりされていた天台宗てんだいしゅう水戸みと薬王院やくおういん本尊ほんぞんはどちらも東方とうほう浄瑠璃じょうるり世界せかい七宝しちほうひと瑠璃るりあおいろようんだ世界せかい)をおさめる薬師如来やくしにょらいになります。

そして薬師やくし如来にょらい同一どういつ存在そんざいとされたほとけが、鎮護ちんご国家こっかほとけちから国家こっか守護しゅご安定あんていさせる) 思想しそうにおいてはとく霊験れいけんあらたかとされた妙見みょうけん菩薩ぼさつ北極星ほっきょくせい北斗ほくと七星しちせい神格化しんかくか)でした

平安京へいあんきょう守護しゅごにも妙見みょうけん菩薩ぼさつまつられていた

また薬師やくし如来にょらい妙見みょうけん菩薩ぼさつ)は、本地ほんじ垂迹説すいじゃくせつでは牛頭ごず天王てんのう、すなわちスサノオノミコトになります。

スサノオノミコトの別称べっしょう


豊田とよだ 靖国やすくに

祖父そふ 豊田とよだ 靖国やすくに戸籍こせき 

官報かんぽう1749ごうは、維新後いしんご曾祖父そうそふ牧野まきの 勝次郎かつじろう出仕しゅっししていたぐん施設しせつ(この時点じてんでは鳥取とっとり歩兵ほへいだい四十よんじゅう連隊れんたい未設置みせっち)においてもかべ一面いちめんされたということでした。

そしてぐん上層じょうそうより大日本だいにほん帝国ていこく憲法けんぽういただいたこれよりのちは、維新いしん遺恨いこんて、こころひとつに天皇てんのう陛下へいかくに)につかえよ」という講話こうわがあったそうです。

やすんずるくに
明治めいじ22年5がつ 清祓きよはらい招魂祭しょうこんさい 6日 例大祭れいたいさい 7日 直会なおらい

これにふか感銘かんめいけた曾祖父そうそふ牧野まきの 勝次郎かつじろうは、5 招魂しょうこんさい、6 例大祭れいたいさい、7 直会なおらい神事しんじめの行事ぎょうじ)のよくうまれたに、「くにやすやす)んずる(平和へいわおだやかなくにをつくる)」ことをねがい、くなられた水戸みと藩士はんしをはじめとした靖国やすくに神社じんじゃまつられたかたたちにじぬよう、このくにくせというねがいをめて「靖国やすくに」と名付なづけました。

曾祖父そうそふ豊田とよだ牧野まきの勝次郎かつじろう

鳥取とっとり士族しぞくもと武士ぶしいえ牧野まきの 勝次郎かつじろう
資料しりょう写真しゃしん右側みぎがわ氏名しめいよこの「四〇、六、九」は明治めいじ36年(1903年)時点じてんで6がつうままれの40さい意味いみしています。
左側ひだりがわ年後ねんご明治めいじ44年(1911年)ではそのぶん年齢ねんれい加算かさんされて48さいとなっています(豊田とよだへの改姓かいせい明治めいじ39年【1906年】)。

曾祖父そうそふ牧野まきの 勝次郎かつじろう明治めいじ三十さんじゅう七八しちはちねんの戦役せんせき日露にちろ戦争せんそう)に出征しゅっせいしたのは、うまれた子供こども水戸みと維新前いしんぜん殉難者じゅんなんしゃ合祀ごうしにあやかって「靖国やすくに」のあたえたあとでした。

明治めいじ三十さんじゅう七八しちはちねんの戦役せんせき日露にちろ戦争せんそう岡山おかやまけん出身しゅっしん従軍じゅうぐん戦歿者せんぼつしゃ 誠忠録せいちゅうろく

明治めいじ三十さんじゅう七八しちはちねんの戦役せんせき日露にちろ戦争せんそう岡山おかやまけん出身しゅっしん従軍じゅうぐん戦歿者せんぼつしゃ 誠忠録せいちゅうろくきざまれた阿部あべ 二郎じろう 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい

阿部あべ 二郎じろう 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょういは、明治めいじ10年(1877年)に直心影流じきしんかげりゅう剣術家けんじゅつか 阿部あべ 守衛もりえとしてまれました。

日露にちろ戦争せんそう出征時しゅっせいじだい大隊だいたい だい中隊附ちゅうたいづきだい小隊長しょうたいちょうとして奮戦ふんせんしましたが、最初さいしょ右足みぎあし下腿部かたいぶつづけて左足ひだりあし下腿部かたいぶ銃弾じゅうだんけて地上ちじょう転倒てんとう、そのまま匍匐ほふくしてではってくこと)しながら指揮しき継続けいぞくしました。

その中隊長ちゅうたいちょう 牧野まきの勝次郎かつじろう大尉たいい少尉しょうい負傷ふしょう気付きづ治療ちりょうけるように命令めいれい
部下ぶかたすけられ仮繃帯所かりほうたいじょ応急おうきゅう救護きゅうご施設しせつ)にかう途中とちゅう狙撃そげきされ胸部きょうぶ被弾ひだん明治めいじ37年(1904年)8月30日午後ごご40ぷん戦死せんししました。

記録きろくではその曾祖父そうそふ 牧野まきの 勝次郎かつじろうがその悼惜とうせきし(いたんで)、すぐに殊勲しゅくん賞典しょうてんあたえられることを申請しんせいした。ほどなくして、正七位しょうしちいじょせられ金一封きんいっぷう授与じゅよされたとあります。

靖国やすくに」の子供こどもあたえた父親ちちおやみずからが最前線さいぜんせんたたかい、おおくのわかいのちうしなわれてくのを見送みおくっていました。

朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ 鉄道局てつどうきょく副参事ふくさんじ 豊田とよだ 靖国やすくに

日本にほん歴史上れきしじょう唯一ゆいいつくに命令めいれい大陸たいりく朝鮮ちょうせん半島はんとうかかわっていた「靖国やすくに」は「神社じんじゃ」ではなく「人者じんじゃ」でした。

そして祖父そふ豊田とよだ 靖国やすくに役割やくわり対外たいがい戦争せんそう戦没者せんぼつしゃ大々的だいだいてきまつまえの「靖国やすくに神社じんじゃ」のかわりでした。※任務にんむ詳細しょうさいながくなるためべつかい説明せつめいします。



にい二六にいろく事件じけん(226事件じけん)と豊田とよだ  まさる中隊長ちゅうたいちょう

こころひとつに天皇てんのう陛下へいかくに)につかえよ」とのぐん訓示くんじから47年後ねんご昭和しょうわ11年(1936年)2月26日。
陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこうらが岡田おかだ 啓介けいすけ 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん斎藤さいとう まこと 内大臣ないだいじんらを襲撃しゅうげきしたうえ首相しゅしょう官邸かんてい陸軍省りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶなどが集中しゅうちゅうする東京とうきょう麹町こうじまち三宅坂みやけざか一帯いったい占拠せんきょし、「国家こっか改造かいぞう」を要求ようきゅうするというクーデターが発生はっせいしました。

にい二六にいろく事件じけん(226事件じけん)」の勃発ぼっぱつでした。

にい二六にいろく事件じけん参加さんかした青年せいねん将校しょうこう一人ひとり 坂井さかい なおし最終さいしゅう階級かいきゅう 歩兵ほへい中尉ちゅうい


昭和しょうわ11年(1936年)2月26日のにい二六にいろく事件じけんでは、少尉しょうい 高橋たかはし 太郎たろう少尉しょうい 麦屋むぎや 清済きよずみ少尉しょうい 安田やすだ ゆたかとともに重機じゅうき(※じゅう機関銃きかんじゅう)4、軽機けいき(※けい機関銃きかんじゅう)8、小銃しょうじゅう、ピストルなどをそなえた襲撃しゅうげき部隊ぶたいひきいて、四谷区よつやく 仲町なかちょう三丁目さんちょうめげん新宿区しんじゅくく 若葉わかば一丁目いっちょうめ)の内大臣ないだいじん 斎藤さいとう まこと私邸してい二手ふたてかれて襲撃しゅうげき警備けいび警察官けいさつかん抵抗ていこうなんなく制圧せいあつして、斎藤さいとう殺害さつがいした。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「坂井さかい なおし
にい二六にいろく事件じけん参加さんかした青年せいねん将校しょうこう一人ひとり 田中たなか  まさる最終さいしゅう階級かいきゅう 砲兵ほうへい中尉ちゅうい


2月26日、にい二六にいろく事件じけんにおいて、下士官かしかん12めい夜間やかん自動車じどうしゃ行軍こうぐん靖国やすくに神社じんじゃ参拝さんぱい名目めいもくに、野戦やせん重砲兵じゅうほうへいだい連隊れんたい下士官かしかん12めいひきいて市川いちかわ出発しゅっぱつ

このさい、26日午前ごぜん時頃じごろ東京とうきょう三宅坂みやけざかへの移動いどう途中とちゅう自宅じたくっている。靖国やすくに参拝さんぱい宮城きゅうじょう遥拝ようはいのち午前ごぜんごろ、自動車じどうしゃたい陸相りくしょう(※陸軍りくぐん大臣だいじん官邸かんてい到着とうちゃくし、教育総監きょういくそうかん 渡辺わたなべ 錠太郎じょうたろう およ東京とうきょう朝日あさひ新聞しんぶんしゃげん 朝日あさひ新聞しんぶんしゃ東京とうきょう本社ほんしゃ襲撃しゅうげき部隊ぶたい輸送ゆそう関与かんよした。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「田中たなか まさる
陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう本科ほんか 生徒隊せいとたい 中隊長ちゅうたいちょう 豊田とよだ まさる

この騒動そうどう渦中かちゅうにいた軍人ぐんじん祖父そふ 豊田とよだ 靖国やすくにおとうと 豊田とよだ まさる少佐しょうさでした。
大叔父おおおじ事件じけん前後ぜんご昭和しょうわ7年(1932年)から昭和しょうわ11年(1936年)の2月(同年どうねん3月より朝香宮あさかのみや 孚彦王たかひこおう附属ふぞく武官ぶかん転属てんぞく)まで陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう 本科ほんか生徒隊せいとたい 中隊長ちゅうたいちょうとして士官しかん学校がっこう東京都とうきょうと 新宿しんじゅく 市ヶ谷いちがや)で士官しかん育成いくせい任務にんむたっていました。

その生徒せいとだった士官しかんなか朝鮮ちょうせん総督そうとく時代じだい祖父そふ面識めんしきのあった斎藤さいとう  まこと内大臣ないだいじん襲撃しゅうげきした将校しょうこうがいたのです。


本日ほんじつはここまでになります。おいいただきありがとうございました。

今回こんかい一見いっけんバラバラのようはなし朝鮮ちょうせん半島はんとうでつながることによって、「昭和しょうわ天皇てんのうにい二六にいろく事件じけんこした青年せいねん将校しょうこう激怒げきどした理由りゆう」がかびがってます。

次回じかいはその説明せつめいになります。

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