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8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.6)
大業の二大主柱
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昭和17年(1942年)朝鮮総督府 情報課が発行した「前進する朝鮮」では、朝鮮半島人2,400万人を「選ばれたる指導者」と表し、また「大業の二大主柱」と呼んでいました。
「日本は新しき東亞の組織者であり指導者である。そして半島二千四百萬は、新しき大やまと民族として内地人(※日本人)と共に一億日本の此の至難なる大業を完遂する人的な二大主柱である。
それは既に指導せらる々人々ではなくして、歴史的に見て本来一つのものであった所の皇道日本に大還元をとげた(※もとの形に戻った)、相共に東亞に指導者たる光榮を擔ふ選ばれたる人々である。
もとより悠遠三千年の皇國精神は、如何に本来一元であつたとはいへ、僅か三十年の施政と同日に論ずべきではない。
眞に東亞の指導者たる光榮を分たんがためにはなほ多く全き皇國臣民としての錬成の要を殘してゐる。
しかしその故にこそ朝鮮は、皇道精神の體得に血みどろの苦悶と精進を重ねつ々あるのである。
随つて世界史的な大創造である所の大東亞征戦下に於ける朝鮮の性格は、如何にしてより早く、より完全に、朝鮮が本來の皇道日本に大融合、大還元をとげ、醇乎たる(※混じりけのない純粋な)大やまと民族として眞に東亞に指導者たり得べき資質を獲得するかにある。
朝鮮人の努力も此處にあり、内地人の努力もまた此處にある。
兎に角數に於ても二千四百萬、一億の四分の一の人口が本當に日本人になりきるかどうか、またこれをなりきらせることが出来るかどうかといふことは實に大きい問題である。
われわれが共にこの問題を解決し得るか否かは、他の東亞諸民族に對する包擁力、またその指導の國民的能力をも卜すべき(※判断される)大いなる試金石であるといふことが出來る。
半島人は絶對に日本人になりきらねばならないし、内地人はこれを溫かく同融しなければならない(※迎え入れなければならない)。
それは一日遅れゝば一日だけどちらにとつても不幸なのである。
朝鮮をして、わが皇道統治の活見本たらしめ典型たらしめる。
そして大東亞に於ける皇道精神の宣揚は、此の朝鮮に於ける成果を基點として展開されるのである。
かくて兵站基地朝鮮は單に軍需的、資源動員的な前進基地であるばかりでなく、より精神的な、大陸、更に大東亞に對する皇道宣揚(※日本の姿勢を世界に示す)の前進基地であり前進據點である。
大陸、ひいて大東亞に對する皇道精神の宣揚は朝鮮を基點とし、朝鮮を關門として大らかな前進を見るのである。
二千四百萬の半島の民衆を本當に一億日本にとけこませることが出來るかどうか、大東亞共榮圏の建設はその精神的な成否に於て此の問題を解決せずしては考へ得られない。」
「歴史的に見て本来一つのもの」、「本来一元であつた」、「本来の皇道日本に大融合、大還元をとげ」と繰り返していますが、大東亜戦争敗北までの日本国の公式見解は、「朝鮮人はもともと日本人と同一の存在」でした。
「二大主柱」という神仏や高貴な人物を数える際に使う「柱」を使用しているのも、日本人が天照大御神を祖神にもつ大和の天皇家の民になり、朝鮮人が高天原から新羅の曽尸茂梨に降りた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祖神にもつ、朝鮮半島側の出雲族の李王家の民になるからでした。
この二つが再びあるべき姿に戻ることが「大やまと民族」の誕生、すなわち真の内鮮一体になることでした。
すでに朝鮮軍第20師団の歩兵連隊の南方ニューギニアへの出兵も決まる中、朝鮮半島の日本人も朝鮮人も日本本土の始めた無謀な戦争を力を合わせて全力で支えていました。
志願兵 李 仁錫
志願兵 李 仁錫上等兵。「前進する朝鮮」で詳細が語られている朝鮮志願兵初の戦死者です。
「昭和十三年(1938年)朝鮮に始めて志願兵制度が實施せられ、半島人にも軍國の干城(※国を守る軍人)たるの途が開かれるや、勇躍志願して見事第一回の志願兵となつた同じく忠清北道 沃川出身の李 仁錫一等兵は、翌年五月念願かなつて大陸山西の前線に出動、木越部隊に属して晋南の殘敵掃蕩に勇戦した。
六月二十二日部隊は「敵は増し、緑は繁り・・・」の籠城の詩で有名な聞喜城東方、峨々たる(※険しくそびえる)中條山脈の峻嶮(※険しい山の場所)にある灣山村附近の高地に蟠居する(居座る)敵を撃退してこれを占領したが、夕刻に至つて猛烈な敵の逆襲を受け、壮絶なる機銃と手榴弾の接近戦は翌朝まで間斷なく續けられて、その高地は敵の手榴弾で燃えて火の海を化するといふ激戦を展開した。
そして、李 仁錫一等兵も勇戦これ力めたが敵手榴弾の爆傷を左大腿部に受け、出血多量のためつひに起てず、戦友のさしのべる手を握りながら陛下の萬歳を奉唱して半島の志願兵として初の戦死をとげたのである。
即日上等兵囘に進級、次いで事變 第十七囘 論功行賞には特に功七級 金鵄勲章を授けられてその殊功を嘉せられた(※手柄を称えられた)。
戦死の公報を受けた李 仁錫一等兵の出身地 沃川では、何しろ半島最初の名譽ではあり、郡守、警察署長以下 地方の有志達 打揃ひ夜分ながら同上等兵の遺族を訪れた。
門前まで來て、前例もないことではあるし、餘り取亂しでもされてはと大分躊躇したのであるが、意を決して門を叩き、一同を代表して郡守がその旨を告げると、父李千典氏は少しも動する色なく「出征の時から今日あるを覺悟してをりました。皆様にかうして夜分にまで心配して戴いては却つて痛み入ります」と謝辭を述べ、夫人柳氏も三つになる遺兒を抱いて「立派に覺悟を致してをります」と慇懃に應へたのであつた。
此の李 仁錫上等兵が出征の後、母親徐氏は千人針といふものを作つて我が子に送ろうと、田舎ではとても千人の針は求められないので、はるばる炎天下四里(※一里は約4km)の山坂を越えて大田の町まで出、街路に立つて心づくしの一針を求めた。
ところが出来上がつた千人針を内地人に見せると、これでは餘り短かくて帶にも何にもならないといふ。
それではと翌日また改めて大田の町に出、今度は婦女の多い所をと紡績工場を訪ねて女工さんの針を得たが、歸つて見ると、これでは多すぎて針籔が三千人にも餘るといはれた。
多い分には差支へないではないかといふ者もあつたが、それでは折角送るのに申譯ないからと、此の母は老いの身もいとはず、三度び四里(※16km)の山坂を越えてただ一つの千人針をつくるために大田の町に出たのである。
しかも、此の涙の千人針が出來上がつて、やれ送ろうと思つた時には、李 仁錫戦死の報は痛ましくも此の母の胸を打つたのである。」
このエピソードが示すように、当時は武運長久(無事に手柄を挙げて戻ってくること)を願う千人針という日本の風習が朝鮮人志願兵や学徒兵の家族の間でも行われていました。
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李 仁錫上等兵の場合は母親が忠清南道の都市大田に出向いて女性たちに一針一針糸を縫い付けて結び目を作って貰っていましたが、数多くの女性に縫って貰うためには、都市部の人が大勢いる場所が必要でした。
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百万都市となっていた京城(ソウル)には、数多くの女学校や実業系学校、女工(女性の工場労働者)が働く紡績工場がありました。
また天皇家の土地を使い市民に開放した東京の恩賜上野公園を参考に、李王家の昌徳宮を昌慶苑として府民に開放していました。
そのため、ここを訪れる地元民だけではなく、地方からの家族連れや社会科見学の学生の集団で連日にぎわいを見せていました。
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そして、一日の乗降客数が一万人を超える京城駅がありました。
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さらに、軍の式典や出征兵士の無事を祈るため地方からも参拝者が訪れていた朝鮮神宮が鎮座していました。
これらの施設周囲では家族を送り出す内鮮の女性が千人針を求め立っていました。それは、終戦まで続いた日常の光景でした。
京城から応召した日本人
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父と同期の楠本 八重子さんの次兄 楠本 茂氏の残された「出郷」になります。
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「男子志を立てて郷関(ふるさと)を出ず」とは石本君の名調子で度々聞いていたが、いざ懐かしき京城を離れて未だ見たこともない内地へ出発しなければならないと云う日は、さすがに僕も淋しかった。
母も色々心配して何やかやと注意して呉れるけど、わざと気の大きいところを見せようと「ウン、もう判ったよ」といひながら荷造りの済んだトランクを又開いて参考書をパラパラとめくっては時間が来るのを待った。
実際妹達が「兄ちゃん何処へ行くの」と聞いてゐる中で母の言う事をかしこまって聞いているのが恥ずかしかったのである。
妹達には、二、三日前から「兄ちゃんはもう帰ってこないよ」と言っても冗談を云っているものと思って信用しなかったのが、今日は朝から荷造りしたり、机をかたづけたり、家中がばたばたしてゐるので、さすがに妹達も心配になって来たらしい。
愈々出発の時間が迫って来た。竹馬の友のS君が学校を途中から帰って来て、一緒に駅まで送って行くと言って来た。
母の心尽くしの赤飯をS君と二人で食べ、時計を見ると未だ四十分程ある。
姉は昨年嫁ぎ、又僕が居なくなれば家は淋しくなるだろう、とそんな事等を考へながら母の手一つでここまで育てて貰い又之からも他郷で勉強させて貰うのは全くよき母のお陰だとひそかに感謝する。
最後に亡き父の霊を拝むべく仏壇の前に坐し、ろうそくに灯をつけると僕の門出を祝すが如くにその火はゆらゆらとゆれていた。」
昭和十七年(1942年)ニ月十七日
楠本 茂氏は京都 同志社大学を繰り上げ卒業して、朝鮮総督府に勤務の予定で京城に帰りました。
しかし、すぐに「入隊」の連絡を受けたため、再び本籍のある内地へ戻っての兵役となりました。
その後、昭和20年(1945年)8月9日、満州国境守備任務中にソビエト軍が侵攻を開始、混戦の中で行方不明戦死となられました。
また、長兄の楠本 功一氏も応召されていて、昭和19年(1944年)8月19日に、バシー海峡(フィリピン海と南シナ海の海峡)を南方方面へ移動中に、行方不明戦死となられていました。
多くの命を見送った京城駅・龍山駅・朝鮮軍司令部。
その周囲で暮らしていた人間たちだからこそ真剣に確認を取り「従軍慰安婦強制連行」を否定したのでした。
多くの命を奪った大東亜戦争を肯定したり、併合時代を美化したりするためでもありませんでした。
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父親が早くに亡くなられているため、長男の功一氏が店の代表者になられていました。
そのため、満州・支那(中国)・朝鮮の商工者の名簿である「満支鮮商工名鑑」にも【代】楠本 功一と記載されています。
また、楠本 八重子さんは安保闘争下に広島で行われた昭和35年(1960年)の京城元町小学校同期会にも参加されていた方であり、父も所属していた第35期生同期会「柳の会(柳会)」の取りまとめ役をされていました。
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そのため、目良浩一氏の呼びかけに応えて元町小学校側の日本人たちに、戦時中「従軍慰安婦強制連行」に該当する事案を担当した人の話がないか、そのような現場を目撃したかどうかの確認を取られた方でもありました。
日本側はやる気があれば様々な資料でその証言者の記憶・証言が正しいかの確認を行え、それを基にしっかりした考証・反論・報道が出来ました。
しかし、歴史的事実としては大学教授・弁護士・評論家・ニュースキャスターなどに、テレビや新聞・雑誌で日本人側が説明したはずの併合の本来の目的すら取り入れられていない大本営発表顔負けのウソを流され続けられました。
このため、京城(ソウル)から引揚げた日本人はNHKや朝日新聞社、毎日新聞社、系列のテレビ局の報道姿勢、「従軍慰安婦」という朝日新聞社が作った当時存在しない言葉を平然と用いて冤罪を押し付けてきた日弁連に対して「なぜ当時の生活実態を隠すのか?」「本当に調べたのか?」と疑問と怒りを感じていたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。