大業の二大主柱
昭和17年(1942年)朝鮮総督府 情報課が発行した「前進する朝鮮」では、朝鮮半島人2,400万人を「選ばれたる指導者」と表し、また「大業の二大主柱」と呼んでいました。
「歴史的に見て本来一つのもの」、「本来一元であつた」、「本来の皇道日本に大融合、大還元をとげ」と繰り返していますが、大東亜戦争敗北までの日本国の公式見解は、「朝鮮人はもともと日本人と同一の存在」でした。
「二大主柱」という神仏や高貴な人物を数える際に使う「柱」を使用しているのも、日本人が天照大御神を祖神にもつ大和の天皇家の民になり、朝鮮人が高天原から新羅の曽尸茂梨に降りた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祖神にもつ、朝鮮半島側の出雲族の李王家の民になるからでした。
この二つが再びあるべき姿に戻ることが「大やまと民族」の誕生、すなわち真の内鮮一体になることでした。
すでに朝鮮軍第20師団の歩兵連隊の南方ニューギニアへの出兵も決まる中、朝鮮半島の日本人も朝鮮人も日本本土の始めた無謀な戦争を力を合わせて全力で支えていました。
志願兵 李 仁錫
志願兵 李 仁錫上等兵。「前進する朝鮮」で詳細が語られている朝鮮志願兵初の戦死者です。
このエピソードが示すように、当時は武運長久(無事に手柄を挙げて戻ってくること)を願う千人針という日本の風習が朝鮮人志願兵や学徒兵の家族の間でも行われていました。
李 仁錫上等兵の場合は母親が忠清南道の都市大田に出向いて女性たちに一針一針糸を縫い付けて結び目を作って貰っていましたが、数多くの女性に縫って貰うためには、都市部の人が大勢いる場所が必要でした。
百万都市となっていた京城(ソウル)には、数多くの女学校や実業系学校、女工(女性の工場労働者)が働く紡績工場がありました。
また天皇家の土地を使い市民に開放した東京の恩賜上野公園を参考に、李王家の昌徳宮を昌慶苑として府民に開放していました。
そのため、ここを訪れる地元民だけではなく、地方からの家族連れや社会科見学の学生の集団で連日にぎわいを見せていました。
そして、一日の乗降客数が一万人を超える京城駅がありました。
さらに、軍の式典や出征兵士の無事を祈るため地方からも参拝者が訪れていた朝鮮神宮が鎮座していました。
これらの施設周囲では家族を送り出す内鮮の女性が千人針を求め立っていました。それは、終戦まで続いた日常の光景でした。
京城から応召した日本人
父と同期の楠本 八重子さんの次兄 楠本 茂氏の残された「出郷」になります。
楠本 茂氏は京都 同志社大学を繰り上げ卒業して、朝鮮総督府に勤務の予定で京城に帰りました。
しかし、すぐに「入隊」の連絡を受けたため、再び本籍のある内地へ戻っての兵役となりました。
その後、昭和20年(1945年)8月9日、満州国境守備任務中にソビエト軍が侵攻を開始、混戦の中で行方不明戦死となられました。
また、長兄の楠本 功一氏も応召されていて、昭和19年(1944年)8月19日に、バシー海峡(フィリピン海と南シナ海の海峡)を南方方面へ移動中に、行方不明戦死となられていました。
多くの命を見送った京城駅・龍山駅・朝鮮軍司令部。
その周囲で暮らしていた人間たちだからこそ真剣に確認を取り「従軍慰安婦強制連行」を否定したのでした。
多くの命を奪った大東亜戦争を肯定したり、併合時代を美化したりするためでもありませんでした。
父親が早くに亡くなられているため、長男の功一氏が店の代表者になられていました。
そのため、満州・支那(中国)・朝鮮の商工者の名簿である「満支鮮商工名鑑」にも【代】楠本 功一と記載されています。
また、楠本 八重子さんは安保闘争下に広島で行われた昭和35年(1960年)の京城元町小学校同期会にも参加されていた方であり、父も所属していた第35期生同期会「柳の会(柳会)」の取りまとめ役をされていました。
そのため、目良浩一氏の呼びかけに応えて元町小学校側の日本人たちに、戦時中「従軍慰安婦強制連行」に該当する事案を担当した人の話がないか、そのような現場を目撃したかどうかの確認を取られた方でもありました。
日本側はやる気があれば様々な資料でその証言者の記憶・証言が正しいかの確認を行え、それを基にしっかりした考証・反論・報道が出来ました。
しかし、歴史的事実としては大学教授・弁護士・評論家・ニュースキャスターなどに、テレビや新聞・雑誌で日本人側が説明したはずの併合の本来の目的すら取り入れられていない大本営発表顔負けのウソを流され続けられました。
このため、京城(ソウル)から引揚げた日本人はNHKや朝日新聞社、毎日新聞社、系列のテレビ局の報道姿勢、「従軍慰安婦」という朝日新聞社が作った当時存在しない言葉を平然と用いて冤罪を押し付けてきた日弁連に対して「なぜ当時の生活実態を隠すのか?」「本当に調べたのか?」と疑問と怒りを感じていたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。