徳寿宮 李太王の死と流言飛語
大正7年(1918年)12月5日、京城(ソウル)元町小学校の放火と見られる火災で鈴木 志津衛学校長が奉安所前にて壮絶な殉職をされた翌月の大正8年(1919年)1月21日、徳寿宮 李太王殿下(李氏朝鮮 第26代 高宗国王)が死去されました。
初代大韓帝国皇帝 高宗として明治40年(1907年)6月の第2回 万国平和会議に秘密裏に特使を派遣して、日本の悪評を流したハーグ密使事件を起こしました。
その後、伊藤 博文暗殺の事態を受けて日本に併合(一時預かり)されると、景福宮より格下の徳寿宮を居城として暮らし、徳寿宮 李太王と呼ばれました。
この徳寿宮 李太王の死を利用して起こされた騒乱が「萬歳事件(韓国では3・1独立運動)」になります。
朝鮮総督府 官房庶務部 調査課が騒動後の大正13年(1924年)、「萬歳事件」を調査・分析してまとめた㊙資料の「調査資料第十輯 朝鮮の獨立思想 及 運動」。
ここに李太王殿下 死去からの騒動の詳細が書かれていますので、これを使い順に説明していきたいと思います。
「萬歳事件」の始まりは「日本が李太王殿下を毒殺した」というデマからであり、そこから敵討ちを呼びかけるという、騒乱ありきの計画された犯行でした。
パコタ公園の独立宣言
Googleマップ上のタプコル公園が萬歳事件の始まりとなった旧パコタ公園になります。
またマップ左の延世大学新村キャンパスがある一帯が西大門があった西大門区になります。
大多数の群衆は独立を求めてパコタ公園に集まっていたわけではありませんでした。
扇動者によって市街あちこちで配られたビラや、流されたウソの情報と巧みな煽りによって、あたかも「独立を求めていた朝鮮人」が集まったかの様にされたのでした。
群集心理
興奮状態から暴動へ
新韓国皇帝の宮殿として建設が始まっていた月宮殿(広寒清虚府)。
一般的には朝鮮総督府新庁舎として知られている建物です。
萬歳事件の起きた当時は南山の近くに朝鮮総督府庁舎は建っていました。
世界初の「人種差別撤廃法案」とアメリカの影
現在の中学校に相当する朝鮮人学生用の高等普通学校(女学生用は女子高等普通学校)の授業風景になります。
萬歳事件で暴れた学生たちというのは、写真の様な13歳から16歳程度の未成年者が数多く含まれていたのです。
※京城大学は萬歳事件の5年後の大正13年(1923年)に開校。
3月1日に大規模な流血事件がありながら、デモに関わっていたキリスト教会やキリスト教系の学校は安息日を理由に示威運動を延期させただけでした。
その結果、未成年の学生が学校を無断で休んでの危険な示威運動参加となっていました。
また集団を興奮状態に導いていた先導者がいたこと、女学生が警察官の威嚇発砲を受けても突進を続けたことなど、学生の行動としては不自然さが目立っていました。
そのため同時期の大正8年(1919年)1月から第1次世界大戦後のドイツとの講和条約を議定するために開催されたパリ講和会議で、日本が提案していた「世界初の有色人種差別撤廃法案」に対するけん制の意味もあったのではないかと、萬歳事件当時の状況を知る人たちからは疑われていました。
人種差別撤廃法案は大正8年(1919年)4月11日に開催された国際連盟最終委員会において、外務大臣 牧野 伸顕が国際連盟規約の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し、出席者16名中11名の賛成を得ました。
しかし、議長であるアメリカのウィルソン大統領(民主党)は、このような重要事項の決定には全会一致を要するとして、日本の提案を退けました。
こうして日本の人種差別撤廃に関する提案は、最終委員会での牧野 伸顕外務大臣の陳述と日本の提案に対する賛否の数が議事録に残されただけの結果に終りました(外務省外交資料Q&Aより)。
多発した内地人への暴行事件
大東亜戦争後、社会主義者や共産主義者が力をもった日本のマスコミと教育界。
今日「萬歳事件」についても日本側の資料や証言を使わず、事実とは異なる「戦後朝鮮半島側で作られた話」を報道、教え続けていますが、実際には一般日本人の被害の方が示威活動によって甚大なものとなっていました。
「萬歳事件」当時、朝鮮半島にて一連の騒動に出くわした官吏(役人)や民間人は内地(日本本土)に戻ると、朝鮮人の怖さや、朝鮮人が集団になると襲って来るという経験談を話していました。
このことが関東大震災時に自警団を設立して、自分たちの生活圏から朝鮮人を排斥する行動へとつながりました。
また、震災時の東京で流された「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマも、京城発の萬歳事件へとつながる「日本人が李太王を毒殺した」というデマと同じ様に、対立を煽るものとしてはベストなタイミングで流されていたものだったのです。
すでに現地に支局を設けていた朝日新聞社や毎日新聞社などは、この事実を知っていました。
しかし、大東亜戦争敗北後は事実関係を隠蔽して朝鮮半島側の反日勢力と同調した報道を行っているのです。
出兵・警戒
「萬歳事件」は3月1日の京城での騒動から始まり、次第に地方へ波及しましたが、それも役場の打ち壊しや日本人への襲撃程度のものでした。
さらに独立運動の軍資金を口実に活動家が一般の朝鮮人に金品をたかるなどしたため、瞬く間に運動は冷めて行き6月までにはほぼ終息しました。
しかし、日本政府(天皇家)は事態を深刻に受け止め、朝鮮総督の差し替えと、改めて一視同仁(内鮮人すべての人を平等に見て区別なく仁愛の政治をほどこすこと)の政策を推し進める方針を決定しました。
これによって陸軍の長谷川 好道2代目総督に変わり、海軍の斎藤 實が3代目総督として就任、京城入りが決定しました。
そして悪夢の「南大門駅 爆弾テロ」が起きたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました