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偽りだらけの萬歳事件(三・一独立運動)関東大震災時の朝鮮人排斥問題3 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.11)
徳寿宮 李太王の死と流言飛語
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大正7年(1918年)12月5日、京城(ソウル)元町小学校の放火と見られる火災で鈴木 志津衛学校長が奉安所前にて壮絶な殉職をされた翌月の大正8年(1919年)1月21日、徳寿宮 李太王殿下(李氏朝鮮 第26代 高宗国王)が死去されました。
初代大韓帝国皇帝 高宗として明治40年(1907年)6月の第2回 万国平和会議に秘密裏に特使を派遣して、日本の悪評を流したハーグ密使事件を起こしました。
その後、伊藤 博文暗殺の事態を受けて日本に併合(一時預かり)されると、景福宮より格下の徳寿宮を居城として暮らし、徳寿宮 李太王と呼ばれました。
この徳寿宮 李太王の死を利用して起こされた騒乱が「萬歳事件(韓国では3・1独立運動)」になります。
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朝鮮総督府 官房庶務部 調査課が騒動後の大正13年(1924年)、「萬歳事件」を調査・分析してまとめた㊙資料の「調査資料第十輯 朝鮮の獨立思想 及 運動」。
ここに李太王殿下 死去からの騒動の詳細が書かれていますので、これを使い順に説明していきたいと思います。
「三月三日は故 李太王殿下の葬禮が擧行されることになつて居たので地方からの上京者は續々 臨時列車で送り込まれ、一日までには約二十萬からの群衆が京城の街路に充滿し、何れの旅宿も之等の旅客で充ち溢れ、各戸にも亦其の親戚や故舊(※故旧・古くからの知り合い)で一杯になつてゐた。
何所とよりともなく流言があらはれた。それは一日には何か大事件が勃發するであらうといふことである。
各學校の生徒は一二の有力な生徒から一日の午後〇時パコタ公園に非常に面白いことがある吾々同胞が是非參加しなければならないことがある、もし之に參加しなければその者共は非國民の誹りを免れない、だから諸君は正午から休校してパコタ公園に参集しなければならないと、勸説要求されてゐた。
一日の夜が明けるや鐘路から西大門にかけて檄文が散布され各所に貼りつけられた。
それは李太王の毒死といふ意外の事であつて、その内容はパリー媾和會議(パリ講和会議)に際し一部の朝鮮人で、鮮人は日本の治下に居るを好まず虐政に惱んで居るといふ所を列國會議に提出してその同情を求めようと企劃(※企画)して居るものがある、と聞いた日本當局は之を反證する爲に、朝鮮人民は悉く日本の治下に悦服して居る(※喜び従っている)といふ聲明書(※声明書)を併合當時 韓國の大官に作成せしめ、之に王の書名を求めた。
處が王は之を却下せられた。そこで日本人と大官と謀り宮人を使嗾して(※そそのかして)王の食膳に毒を盛りて毒殺し、同時に使役せられた宮人も其の殘毒を強えられて殺されてしまつた。
平生(※普段)誠に健康であつた王が體の凡ての口穴から鮮血を吐いて頓に(※急に)斃れたのは日本人の爲である。
諸君は之に對して平然たり得るか、故太王を弔はんが爲めに集まれる同胞は飽まで之が讐を報じなければならん(※敵を討たなければならない)、といふのであつた。
何事があるかもしれないと思つてゐた、群衆は自己を空うして(※からっぽにして)何か事件發生の聲を待つて居た、この群集の間にはこの檄文は忽ち喧傳せられ(※広く言いふらされ)激昂の情は湧然として生じ(※盛んにわき起こり)一人の指揮者が現はれゝば直ちに如何なる事でも決行すべきモツブ(※暴徒)的性質を充分に具備して居た。
此の檄文が警官に認めらるるや、その撒布者と出所とを發見し檢擧(※検挙)する爲に西大門附近の宗教(基督教私立)學校と基督教中央青年會館は警察に包圍(※包囲)され踏み込まれて職員 事務員は檢擧せられ、家宅捜索が敢行された、それは午前十時からである。
正午は過ぎた群衆はパコタ公園へと集まる、學生は無斷休校して何れも「何事がある」といふ好奇心に馳られて續々集合した。」
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「萬歳事件」の始まりは「日本が李太王殿下を毒殺した」というデマからであり、そこから敵討ちを呼びかけるという、騒乱ありきの計画された犯行でした。
パコタ公園の独立宣言
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Googleマップ上のタプコル公園が萬歳事件の始まりとなった旧パコタ公園になります。
またマップ左の延世大学新村キャンパスがある一帯が西大門があった西大門区になります。
「獨立宣言運動の發起者 朝鮮民族 代表者の宣言が明月館 支店 樓上(※階上)で行はれたと同時刻 即ち三月一日 午後二時、立錐の餘地なきまでに集合し柵外までに溢れて居るパコタ公園の群衆中からも一人の青年が小高い壇上に現はれた。
今まで蜂の巢が崩れたようにどよめき合つて居た群衆の注視は此の青年に集まり、溢れる群衆が水を打つたよう、悉くの耳は他の雑音を辨せざるまでに此の方面に向けられた(※他の雑音が聞こえなくなるほどに注意を向けた)。
青年は一葉の刷物(※印刷物)を出した、群衆は一段の緊張を加へた、青年の口から朗讀せられるものは朝鮮民族の獨立宣言である、此の青年は集り來て居る學生四五千中の一人であつた。
獨立云々を耳にした群衆は驚異の眼を瞻はつた、朗讀のすゝむにつれて、獨立宣言は最も光榮ある吾人の權利(※我々の権利)である、世界の大勢と正義に基つく要求何ものも之を阻止することを許さないものだと宣せられる、群衆の心理は只 獨立は絶對に可能であつて今日 只今から日本の手から解放されるのだと確信するに到つた。
宣言書の朗讀が終るや其の青年は この獨立宣言と同時に我國は獨立國となつたのであるから、吾人同胞は双手をあげて獨立萬歳を高唱しなければならない、と云ひ終るや彼は兩手を高く擧げて萬歳を唱へた、この一聲は直ちに昂奮せる群衆の迎ふる所となり公園の内外に一時に獨立萬歳が高唱された。
この聲はやがて又東大門から西大門に響き渡り、鐘路から南大門に續く群衆をして悉く萬歳に熱狂する者たらしめ、京城の大半は今や喧騒の場面と化してしまつたのである。
大多数の群衆は独立を求めてパコタ公園に集まっていたわけではありませんでした。
扇動者によって市街あちこちで配られたビラや、流されたウソの情報と巧みな煽りによって、あたかも「独立を求めていた朝鮮人」が集まったかの様にされたのでした。
群集心理
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「もともとこの群集は學生、少年、少女、老人、婦女、職工、商人、店員、青年、車夫(※人力車を引く人)、田舎から來た農夫等あらゆる階級を通じ老若男女の集まりであつて、其の大部分は何か事があるようだから出かけて見ようといふ者達であつた。
だから一定の意見があるでもなく、確然たる判斷をなすことも出來ぬ、暗示の感受性を豊かに有する群集であつた。
物見高いのは都會の常、殊に朝鮮人の多く往來する所では何かの一小事でも忽ち人の山をなし、その事件の眞相を急速に理解しようとせずしていつまでもいつまでも傍觀するのが例であるが、三月一日の群衆も亦この例に漏れず何か事があるさうだといふ所から集り群がつたのである。
だから學生は制服のまゝで手にスクールバツクを提げ、店員は筆を手にし、職工は道具を、老人は長煙管を口にして居た 物見の以外に外出しない慣習に育てられて居る婦女子も亦多數混つて居た。
この群集は一方から見れば京城の鮮人 老若男女 悉くが有意的に(※意識して)獨立運動に参加熱狂したようにも思はれる。
がその大部分は前述の如く好奇心に驅られて集り群かつた者に外ならない。
騒擾の爲に檢束(※警察官による留置)された者の自白に依れば「何か面白い事があると思つて出かけた處、皆が萬歳萬歳と高唱するから自分も不知不識(※知らず知らず)高唱したので、それが何ふいふ譯で呼ばれるのかは知らなかった」といつてゐるのが少なくない。
此の自白は或は所罰を免れたいといふ考から虚僞の申立をなしたものかも知れぬが、全部さうであるとも思はれない。
興奮状態から暴動へ
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新韓国皇帝の宮殿として建設が始まっていた月宮殿(広寒清虚府)。
一般的には朝鮮総督府新庁舎として知られている建物です。
萬歳事件の起きた当時は南山の近くに朝鮮総督府庁舎は建っていました。
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一方民族代表と稱する孫秉熙以下三十人の有志は明月館支店に獨立宣言を了し(※終え)萬歳を三唱して将に食卓に就かんとするや警察官に拘束せられ直ちに本町警察署に引かれることになつた。
その途中彼等の乗せられて居る自動車は熱狂せる群衆で塡められ萬歳と喝采を浴せかけられる、自動車上の人も亦之に應へ警察監視の隙に乗じて車上からは多くの印刷物(獨立宣言書)が撒布された。
有志の乗せられて居る自動車が警察署の門内に消えてしまうや群衆は三隊に分れて示威運動(※デモ活動)を初めた(※始めた)のである。
その一隊は先王の柩が安置され王の近親が晝夜(※昼夜)となく慟哭してゐる徳壽宮(※徳寿宮)に向へその境内に集合した、此處ては遉に靜粛を保ち萬歳を三唱し、朝鮮人街路を行列して歩いた。
他の一群は外國領事館を歷訪することに決し第一に米國領事館、その次に佛國(※フランス)領事館へと向つた。
而して(※そして)第三群は最も大群を以て成り、之は總督府を目ざしてその進路を向けたのである。
この第三大群衆が總督府への途、朝鮮銀行の側を通つて本町筋(※日本人商店街)に來り、乗り込まんとする事態急なるを見た當局は直ちに龍山から三個中隊の出動を促し市内の警戒に任せしめたのである。
群衆が本町入口に向ふや警官や憲兵は之に對して解散を命じた、けれども熱して勢いこんでゐる群衆は之には耳を傾けない、警戒線を突破して續々侵入した、警官や憲兵は腰間の武器を利用せむとしても身に寸鐵を持たぬ(※丸腰・素手)群衆は、警官の劔(※剣)も憲兵の拳銃も單なる威しに過ぎないものであると見縊つて少しもその制止を聽かうとしない。
そこで警官や憲兵は本町通に入れて兩方から之を封鎖して之を監視し不穩の行動ある者は檢擧する方策を執つた、日は西山に舂づいて(※日が沈んで)、夜の帳(※夜の闇)は降れんとしてゐる、かくて不穩の行動ある者は次々檢束された。
その前を妨げられその後を鎖された群衆中に、この狹き通りに封鎖されたのは警官や憲兵が夜の至るを待ちて吾等を鏖殺(※皆殺し)する爲めであると揚言する(※言いふらす)者があつた、と群衆の恐怖は高調され、逃走を試み警戒線を突破せむと試むる者、他に逃路を求めて走らんとする者、前者は警戒の警官や憲兵と衝突したが、大部分は後者の方途(※方法)に出た。
處が本町筋から逃走せむとせば黄金町か南山方面に向ふより外途がない、群衆は雪崩を打つて之の兩方に動いた、南山方面に向つた者は總督府を襲ふものと考へられ、警官や憲兵は之を追ふた、かくて其處には一場の修羅場が出現され、吾れ先にと逃れむとする者、先を競ふ者、老幼婦女の呼喚(※叫び声)、相踏み相押して傷くものゝ續出を見た。
之より先き本町筋の商店員又は南山町 大和町 其の他からの内地人(※本土から移住した日本人)の野次馬が見物かたがた集つて來て居つたが、萬歳群衆が逃走を初めるやこの見物内地人に突當る者、逃げ場を失つて附近の塀を乗り越へ邸内に潜まんとする者、商店に闖入せむとする者(※無断で入り込もうとする者)が續出するや、之等の内地人店員、野次馬連は得たりと之を制禦し、肯がない者(※従わない者)は打ち引き倒し、各所にこの種の小競合が初まつた。
殺氣立つた、野次馬は警官や憲兵に味方し、一種の人種感情に驅られて惨酷(※残酷)なことまで演出した。
鐵拳や棍棒やが如何ほど飛んたかは明かでないが、此の時檢束された一鮮人の實見談に依れば彼が警官に押へられて警察に連れて行かれる途中 激昂せる内地人の爲め蹴られ、打れ、中には下駄(※日本の伝統的な木製の履物)を以て敺かれた者(※追い立てられた者)さへあるといふことである。
世界初の「人種差別撤廃法案」とアメリカの影
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翌二日には學生が一大示威運動を起す算段であつたが、王葬の前日であり基督教では安息日としてあるので、基督教側からの反對もあり其の日は謹慎の意を表し王葬が終つてからにしようと云ふことになつて延期されたのである、王葬は三日四日 兩日に亙つて行はれた。
五日の朝九時 南大門驛前に四五千の學生集團が現はれた、彼等は未明に附近の倉庫のかげや小路に身を潜めて居たのである。
一團の群となるや指揮者は人力車に乗り赤襷を斜にかけ兩手を振りあげて音頭を取る、群衆は之を取巻いて各自萬歳を高唱しながら西大門方面に大道を繰り出した。
この行列中には女子高等普通學校の女學生が一段の光彩を放つて氣勢を添へて居た。
この群集が大漢門前に差しかゝるや警官に襲撃せられ解散を命ぜられたが肯じない(※受け入れない)、前列が打たれ檢束されゝば次が又列を作つて突進した、詮方なく(※仕方なく)警官は発砲して之を威さなければならなかつた(※空へ向けての威嚇発砲)。
檢束さるゝ者百餘人その中には多くの女學生も含まれて居つた。
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現在の中学校に相当する朝鮮人学生用の高等普通学校(女学生用は女子高等普通学校)の授業風景になります。
萬歳事件で暴れた学生たちというのは、写真の様な13歳から16歳程度の未成年者が数多く含まれていたのです。
※京城大学は萬歳事件の5年後の大正13年(1923年)に開校。
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3月1日に大規模な流血事件がありながら、デモに関わっていたキリスト教会やキリスト教系の学校は安息日を理由に示威運動を延期させただけでした。
その結果、未成年の学生が学校を無断で休んでの危険な示威運動参加となっていました。
また集団を興奮状態に導いていた先導者がいたこと、女学生が警察官の威嚇発砲を受けても突進を続けたことなど、学生の行動としては不自然さが目立っていました。
そのため同時期の大正8年(1919年)1月から第1次世界大戦後のドイツとの講和条約を議定するために開催されたパリ講和会議で、日本が提案していた「世界初の有色人種差別撤廃法案」に対するけん制の意味もあったのではないかと、萬歳事件当時の状況を知る人たちからは疑われていました。
人種差別撤廃法案は大正8年(1919年)4月11日に開催された国際連盟最終委員会において、外務大臣 牧野 伸顕が国際連盟規約の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し、出席者16名中11名の賛成を得ました。
しかし、議長であるアメリカのウィルソン大統領(民主党)は、このような重要事項の決定には全会一致を要するとして、日本の提案を退けました。
こうして日本の人種差別撤廃に関する提案は、最終委員会での牧野 伸顕外務大臣の陳述と日本の提案に対する賛否の数が議事録に残されただけの結果に終りました(外務省外交資料Q&Aより)。
多発した内地人への暴行事件
大東亜戦争後、社会主義者や共産主義者が力をもった日本のマスコミと教育界。
今日「萬歳事件」についても日本側の資料や証言を使わず、事実とは異なる「戦後朝鮮半島側で作られた話」を報道、教え続けていますが、実際には一般日本人の被害の方が示威活動によって甚大なものとなっていました。
騒擾前 本町筋の金物店からナイフが多く賣れて居つた、商店では何うしてこの様に賣れるのかと怪しんで居た。
處が其の後間もなく獨立運動が行はれた、だから無抵抗主義を標榜はしてゐても、どんな暴行が行はれるかも知れないと云ふ恐惶(※恐れ)が内地人の間に湧いた。
そして一日後 五日後 各所で投石や要撃(※待ち伏せての襲撃)が行はれた事が傳へられた。
一方朝鮮人間には何等徹底的運動の目的ない者も群衆に交つて見物して居たので内地人に打たれ捕いられた(其の初めは角袖巡査【※私服警官】や刑事に依つて打たれりしたのであるが制服でない爲めに一般内地市民が鮮人に暴行を加へたと誤認されたのである)。
又内地人の爲に惡口され侮辱せられたことなどを針小棒大に吹聽した、運動企畫者、指揮者は當局に對抗する考へであつたのが、かうなつては朝鮮人一般の感情は對内地人に變つて來たのである。
かく人種感情的對立になつて來ては仕末に了へない。
鍾路方面に通ふ内地人小學生徒が鮮人に暴行され欠席しなければならないような事となつた。
この子供を持つ父兄が憤慨するのは無理もない、場末に近い内地人の稀薄な處では幾人かの内地婦人か強姦せられた。
東部では訓錬院(※東大門近く)に連れ行かれ輪姦の結果 人事不省(※意識不明)に陥れられた者もあり、西部ではある教養ある婦人が辱められたゝめに憤死してしまつたとも傳へられた。
其の事實が果して、眞なりや否やを當時厳密に調査せらるゝ餘裕がない、優越の誇りを有する内地人が朝鮮人に辱められたと云ふことは如何に憤激せしめたであろうか、もしこれが米國人であつたならば當局の手を待たずして私刑の擧に出てたに違いない。
事實當時の内地人は當局が餘りに其の取締りと騒擾の鎭壓(※鎮圧)が緩漫であると非難して居たのである。
汽車の中に於て、電車の中に於て、公園に於て、郊外に於て少數の内地人は多數の朝鮮人の爲に迫害され、侮辱された。
市内でも日中は軍隊、警官や憲兵やの警戒がある爲め何事もなくても、夜中は日中とは反對に彼等の獨り舞臺(※舞台)の如く各所に集合して萬歳を唱へ警官が來るや散じ 去れば又集る。
只それのみではなく各所を横行して居るが爲めに奔命(※忙しい任務)に疲れたる警戒員の眼の届かない所では内地人に對する暴行が行はれた。
壽松洞の一官舎に住居した官吏の妻は毎夜投石せらるゝが爲めに神經衰弱の結果 發狂した者さへある。
投石は交通機關の電車(※路面電車)にも行はれ三月 二十三日 以降 四月に陟り夜間 市内外 各所に於て電車は投石の結果 硝子戸を破られ、負傷者を出し又は停車され、乗客は脅迫され下車せしめられた。
暴民は四五十名又は百名の集團をなして市内鮮人町の警察官派出所の襲撃をなし、數箇所の派出所に投石 窓硝子を破壊し、中には多數を恃んで(※多数の力で)警官の制止に服せず、頑強に抵抗し遂に死亡者(三名)を出したものさへある。
市内に意を得ない(※満足しない)處の暴民は其の勢を市外に向け、空地、山上等に集合して萬歳を唱へ 暴行は面事務所(※内地の役場に相当)襲撃となり、蠶島面事務所の如きは三月 二十六日の夜 約五百の暴民に襲はれその雨戸を破壊され、面書記は毆打負傷せしめられた。
之等の場合に使用せれた暴民の武器は棍棒、割木(※たきぎ用に割った木)、木槍及び最も得易く且つ得意とする投石であつた。
茲に於てか數に於て少ない内地人は夜の京城に於ける通行の自由を封ぜられたようになつた、夜は四五人の同行者がなければ出歩けないことになつてしまつたのである。
憲兵、警官も毎日の警戒に疲勞を來たす、そして鮮人巡査は朝鮮人群衆から強迫せられる處から確實な巡警を敢てしない、又彼等の暴行に對して制止しようともしないものが少くなかつた(※朝鮮社会は一族支配が強いため朝鮮人巡査は板挟みとなっていた)。
其處で内地人は自警の意味で消防隊の出動(※元町小学校火災 同様不審火も多発していたため)を促し市民の少壮者(※血気盛んな若者)亦 各自警戒の任に就くことになつた。
かくて各所消防手と群衆と、内地人自警團と群衆との衝突が繰返へされた。
京城の表面は五日の示威運動後 事ないように見えたが、不安の空氣は日に増しその濃度を増し來り、何時この不安が除去されるか計られざる状態となつた。
そこで當局は遂に軍隊の力に訴へて、この不安状態を救はんとしたのである。
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「萬歳事件」当時、朝鮮半島にて一連の騒動に出くわした官吏(役人)や民間人は内地(日本本土)に戻ると、朝鮮人の怖さや、朝鮮人が集団になると襲って来るという経験談を話していました。
このことが関東大震災時に自警団を設立して、自分たちの生活圏から朝鮮人を排斥する行動へとつながりました。
また、震災時の東京で流された「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマも、京城発の萬歳事件へとつながる「日本人が李太王を毒殺した」というデマと同じ様に、対立を煽るものとしてはベストなタイミングで流されていたものだったのです。
すでに現地に支局を設けていた朝日新聞社や毎日新聞社などは、この事実を知っていました。
しかし、大東亜戦争敗北後は事実関係を隠蔽して朝鮮半島側の反日勢力と同調した報道を行っているのです。
出兵・警戒
兵を以て警戒を助けたのは三月 一日 歩兵三箇中隊の京城市中へ出動を促したことに初まる(※始まる)、京城の街路 空所は綿を布いたように群衆に堆められた。
その數はどの位であつたか地方から集り來つた者が二十餘萬と稱せられ 學生五千餘 市民浮浪者、其の數 總で四五十萬を下らなかつたといふ。
加ふるに三月 三日は李太王の國葬日である 有事の際にかゝる獨立宣言といふような容易ならざる事件が起つては其の動搖が如何なる危態に陷るかも知れない、殊に(※とりわけ)群衆の組成分子は所謂 有志、民族代表、學生だけに止まらず前述の如く老若男女あらゆる階級と種類の人々から成つて居る。
示威運動が化して暴動となり革命的騒擾(※暴力革命)となるかも知れない、警備の任に當る者が事態容易ならずと觀て軍隊に出動を促したのも全く當然なことであろう。
其の初動員された三箇中隊は憲兵、警官の援助に任じたが只其の後援位置に立ちて直接群衆には對しなかつた。
二日、三日稍静穩となつたので一箇中隊は引揚げたが五日になつて再び騒擾が現はれたので一箇中隊を増し、平靜となるや二箇中隊 京城を撤退した。
九日に至り鍾路通方面の鮮人店舗は殆ど悉く閉店し翌十日 一大運動を企劃されて居るといふ情報があつたので、豫め歩兵三箇中隊 及 騎兵二箇小隊よりなる大隊を以て警備の援助をなし 嚴重な警戒を試みた。
かくて其後は大事件はないが氣運は益惡化し暴行各所に行はれる、市民の不安は極度に達する、三月 二十八日に至り歩兵三箇中隊を増加し六箇中隊を以て市内の警戒に任し嚴重に不穩運動を取締つたので、其の後は大規模なる暴行は遂に行はれなかつた。
「萬歳事件」は3月1日の京城での騒動から始まり、次第に地方へ波及しましたが、それも役場の打ち壊しや日本人への襲撃程度のものでした。
さらに独立運動の軍資金を口実に活動家が一般の朝鮮人に金品をたかるなどしたため、瞬く間に運動は冷めて行き6月までにはほぼ終息しました。
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しかし、日本政府(天皇家)は事態を深刻に受け止め、朝鮮総督の差し替えと、改めて一視同仁(内鮮人すべての人を平等に見て区別なく仁愛の政治をほどこすこと)の政策を推し進める方針を決定しました。
これによって陸軍の長谷川 好道2代目総督に変わり、海軍の斎藤 實が3代目総督として就任、京城入りが決定しました。
そして悪夢の「南大門駅 爆弾テロ」が起きたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました