触れない、伝えない、教えない(日本弁護士協会)
法律の専門家を育成する機関として旧韓国政府(李王朝)時代の明治28年(1895年)に法官養成所として創設、明治43年(1910年)朝鮮総督府の所管に移行した京城法学専門学校。
内鮮人(日本人・朝鮮人)共学で運営され、卒業後は判事や裁判所書記、弁護士、朝鮮総督府官吏などになりました。
昭和14年(1939年)の日本弁護士会(現在は日本弁護士連合会)所属弁護士総人員6,008名中、朝鮮半島の弁護士は337名でした。
京城弁護士会には東京 1,628名、第一東京 477名、第二東京 330名、大阪 704名、神戸 186名、名古屋 177名、京都 150名、福岡 134名に次ぐ131名、7番目の規模の弁護士が所属してました。
京城弁護士会は会員弁護士数131名。
会長に京畿道出身の李 升雨弁護士、副会長に高知県出身の長野 一之弁護士と京畿道出身の李 在元弁護士が就任していました。
清津弁護士会は会員弁護士数5名。
会長に岡山県出身の赤木 輝夫弁護士、副会長に京畿道出身の韓 基璜弁護士が就任していました。
平壌(現在は北朝鮮の首都ピョンヤン)弁護士会は会員弁護士数28名。
会長に京畿道出身の崔 鼎默弁護士、副会長に長崎県出身の本島 文市弁護士が就任していました。
大邱弁護士会は会員弁護士数31名。
会長に全羅南道道出身の孫 致殷弁護士が就任していました。
女子挺身隊の名目で慰安婦として朝鮮人女性を強引に徴用したと、吉田清治や朝日新聞社がでっち上げた現場の一つである済州島も、併合時代は全羅南道に含まれていました。
徴発とは現地住民から人や物を集めて、軍需品の生産や軍事目的の橋や道路整備などを行うことです。
朝鮮半島でも、そのための法律 朝鮮徴発令が施行されていました。
第四条に「徴発令中 陸海軍省とあるは朝鮮総督とし 府県とあるは道とし 町村又は区町村とあるは府面とし 府知事 県令 群区長 戸長とあるは道知事 府尹 郡守 島司 面長とし 戸長とあるは府尹 面長とす」とある様に、内地(日本本土)の行政区分を朝鮮半島の行政区分に置き換えて、法律に従う形で業務は行われていました。
そのため朝鮮総督(陸軍上級将校)に話を通さずに、内地(日本本土)の管区外の部隊が徴発を行うことは法律違反になりましました。
さらに、強引な徴発が原因で暴動が起きた際の責任は、朝鮮総督や朝鮮総督府官吏(役人)、朝鮮守備のために置かれていた朝鮮軍が負わされるため、吉田 清治の話は組織運営の常識からもあり得ないものでした。
保導教育と出征応召遺家族
第二帝都として開発された京城(ソウル)は、昭和10年(1935年)代には日本の8大都市に数えられるほどの近代的な街になっていました。
京城府明治町にあった映画館 明治座は座席数1,500名と京城最大でした。
他に座席数1,200名の若草映画劇場、座席数1,126名の黄金座や座席数750名の京龍館など、京城(ソウル)だけで大小10館近い映画館がありました。
この様に都市化した京城でも児童の無断外泊や家出、万引きなどの非行が問題になっていました。
昭和15年(1940年)に全国保導教護団体連合会が東京市立中学校で開催した第5回実務者研究会。
その報告書である「盗みをする児童生徒の保導に就て」。
このような研究会にも朝鮮半島も他の県に交じって出席していました。
そして、100万都市となっていた京城での児童の保導(補導)と、その後の教育指導の内容を報告していました。
また、この会合には児童・教育心理学者で東京家政大学 学長(1949年創立)としても知られる、青木 誠史郎教授を招き、児童心理学を取り入れた非行児童に対する効果的な指導を模索していました。
「出征應召遺家族の子弟がなかつたことは、せめてもの幸ひであります。」
これは、「應召遺家族の子供が非行に走ったとあっては前線で戦う兵士たちや、家族を残し名誉の戦死をした方たちに申し訳が立たない、今回の報告には、その例がないのがせめてもの救いです」という意味になります。
出征応召遺家族とは、朝鮮半島から兵役・志願で戦地へ旅立だった兵士の家族、不幸にも戦死して戻った兵士の家族を指しました。
戦時中、この出征応召遺家族は周囲の人間がその生活を支えていました。
召集令状が来た在朝鮮の内地人だけではなく、すでに社会に出て家計を支えていた朝鮮人の若者も志願兵として合格、出征しているため、働き手を失った家族に対して寄付金だけではなく、その日に採れた魚や野菜などを愛国班や近隣住民が融通して該当する家族に提供していたのです。
消された歴史認識と朝鮮人志願兵
歴史学者喜田貞吉の著作「韓国の併合と国史」。
初代天皇である神武天皇の兄 稲氷命が、新羅国の建国者であるとの説は大東亜戦争に敗れるまで日本歴史学会でも支持を集めていた認識でした。
幕末の孝明天皇の時代、1860年(万延元年)3月11日に神武天皇の御陵祭として始まり、1864年(元治元年)孝明天皇は紫宸殿にて神武天皇陵を拝まれました。
山陵御用掛となった柳原 光愛は大正天皇の実母柳原 愛子の父親にあたります。
昭和13年(1938年)4月3日、神武天皇祭の佳節(祝日)を祝って実施された「朝鮮陸軍 特別志願兵令」。
これにより、朝鮮人の青年も17歳以上の男子で朝鮮総督府の設けた陸軍兵志願者訓練所を修了した者は、陸軍の現役または補充兵役に編入され、内地人兵(日本人日本兵)と同様に軍務に就くことが可能になりました。
朝鮮半島からの志願者は昭和13年(1938年)度で2,964名、昭和14年度に12,349名、昭和15年度(1940年)は84,443名、昭和16年(1941年)度は15万人に迫る1,44,745名、昭和17年(1942年)度は25万人を越える251,594名と増加し続けました。
ここから選抜された合格者が、京城と平壌(昭和17年に開所)の2ヵ所の訓練所に収容され、4ヵ月の猛訓練を受けた後、その一部は軍隊に所属(待遇は内地人兵士と同等)、残りは補充兵として帰郷、各地方の国民総力連盟推進隊員として地元青年隊の指導に当たっていました。
「遠き祖先に繋がる内鮮一体の血液」と朝鮮青年隊歌に歌われている様に、血縁関係があることが前提になっており日本国が朝鮮民族を人として扱わないなどということはありませんでした。
近年、ゲームや漫画での旭日の表現が出来なくなった問題も、日本側で日の丸や旭日旗に敵意をもつ教育界や弁護士、マスコミが、太陽信仰を持っていた大和・出雲両民族の関係性から朝鮮半島で掲げていたものであるということを伏せて、韓国の反日集団と連携して世界に誤ったメッセージを与えて出来たものなのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。