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8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.8)


あい朝鮮ちょうせん半島はんとうすく

朝鮮ちょうせん半島はんとう近代化きんだいか日本にほん明治めいじ維新いしん以降いこう西欧せいおうからまなんだ医療いりょう福祉ふくし分野ぶんやにおいても積極的せっきょくてきすすめられました。

朝鮮ちょうせん半島はんとう社会しゃかい事業じぎょう団体だんたい一部いちぶ

国立こくりつ児童じどう保護ほご施設しせつ済生院さいせいいん 養育部よういくぶほか鎌倉かまくら保育院ほいくいん 京城けいじょう支部しぶ京城けいじょう保育院ほいくいんなどがもうけられて、おやくした児童じどうてられた児童じどう保護ほご育成いくせいつとめ、私設しせつ育児いくじ施設しせつたいしては朝鮮ちょうせん総督府そうとくふから一定額いっていがく補助金ほじょきん交付こうふしていました。

済生院さいせいいん 養育部よういくぶでは乳幼児にゅうようじはすべて里預さとあずけ(里親さとおや制度せいど)で、まん12さいまであずき、普通ふつう教育きょういく小学校しょうがっこう)を卒業後そつぎょうご適職てきしょく紹介しょうかい養育部よういくぶ施設しせつでのあずかりは8さい以上いじょうで、併設へいせつされた4学年制がくねんせい普通科ふつうか学習がくしゅうさせ、その実習科じっしゅうか附属ふぞく農場のうじょう農業のうぎょう研修けんしゅうおこなっていました。

済生院さいせいいん 聾唖部ろうあぶ授業じゅぎょう風景ふうけい

また済生院さいせいいんには聾唖部ろうあぶがあり、みみ障碍しょうがいをもつひとたいして普通ふつう教育きょういくはり治療ちりょう技術ぎじゅつ按摩あんま技術ぎじゅつ洋服ようふく縫製ほうせい技術ぎじゅつ指導しどうおこなっていました。

この福祉ふくし事業じぎょうもテロリストの凶弾きょうだんたおれた伊藤いとう 博文ひろぶみ生前せいぜんふかかかわっていたものでした。

明治めいじ39年(1906年)11月10日、社会しゃかい事業じぎょう団体表だんたいひょう日本にほん赤十字社せきじゅうじしゃ朝鮮ちょうせん本部ほんぶ診療部しんりょうぶとなり記載きさいされている京城けいじょう愛国あいこく婦人会ふじんかい 支部しぶ大会たいかいにおいての伊藤いとう博文ひろぶみ演説えんぜつのこっています。



婦人ふじん活動かつどう

伊藤公いとうこう全集ぜんしゅう 第二巻だいにかん」より、明治めいじ39年(1906年)11月10日、京城けいじょう愛国あいこく婦人会ふじんかい支部しぶ大会たいかいおいて。

本日ほんじつ愛國あいこく婦人會ふじんかい大會たいかいもよおさるよしにて、委員いいん諸氏しょし案内あんないにて臨席りんせきしたるが、この盛況せいきょう欣悦きんえつ(※よろこび)にず。

本會ほんかい成立せいりつおよびこの盛況せいきょうていするにいたりたる次第しだいは、只今ただいま鶴原長官ちょうかんより演説えんぜつありたれば、此處ここぜいせず(※無駄むだはなしくわえない)。

只今ただいま日本にほん婦人ふじん日本にほん社會しゃかいおこりし事柄ことがら所感しょかんぶべし。

そもそいずれのくにおいても國々くにぐに風俗ふうぞく習慣しゅうかんあり。
東洋とうよう婦人ふじんは、一家いっかおさめ、所謂いわゆるおとこそとはたらおんなうち(※家庭かてい)をまもるの風習ふうしゅうなり。

清國しんこく韓國かんこく婦人ふじんいまだこの風習ふうしゅうだっせざるものごとし。
ひと日本にほん婦人ふじんそとあられ、女子じょしまた男子だんしたすけて社會しゃかいことたずさるにいたれり。

けだし(※まさしく)そとあら社會しゃかいめにはたらこと東洋とうよう従來じゅうらい風俗ふうぞくにはえてところにして、まった歐米おうべい輓近ばんきん(※欧米おうべい最近さいきん)の進歩しんぽによる。

日本にほんおいても卅九さんじゅうきゅう三十九さんじゅうきゅう年前ねんまえには、婦人ふじん社會しゃかい事業じぎょうたずさわることなく、おおやけせきにも親類間しんるいかん交際こうさいほかほとんど出席しゅっせきせざるところなりき。

いま婦人ふじん社會しゃかいける事業じぎょうついて、關係かんけいせる事實じじつ二三にさん陳述ちんじゅつせんに、明治めいじ十五じゅうごねん 憲法けんぽう制度せいど取調とりしらべ勅命ちょくめいほうじて歐洲おうしゅういたり、しゅとしてどく(※ドイツ)、おう(※オーストリア)、(※イタリア)のかんにあり、外國がいこく帝室ていしつ訪問ほうもんかく皇后かくこうごうにも謁見えっけんしてしたしくその社會しゃかい事業じぎょう盡瘁じんすいせらる(※全力ぜんりょくくす)實情じつじょう目撃もくげきしたり。

獨逸どいつにてはげん皇帝こうてい伯母おばあたるおかた學校がっこう病院びょういん事業じぎょうすこぶ熱心ねっしんにして、その費用ひよう自分じぶん得給えたま帝室ていしつ費中ひちゅう俸給ほうきゅうより支出ししゅつせられ、歐洲おうしゅう風習ふうしゅうたる銀婚式ぎんこんしきおよ金婚式きんこんしき各方面かくほうめんより捧呈ほうていせる金銀製きんぎんせい物品ぶっぴんをばすべての費用ひようとうぜらるほどなりき。

しかして(※そして)みずか女子じょし學校がっこう創立そうりつたま時々ときどきみずか馬車ばしゃにて臨幸りんこう(※出席しゅっせき)せられ、その教場きょうじょうまでもなく庖厨ほうちゅう(※台所だいどころとうをも巡覧じゅんらんあり、臺所だいどころ淸潔せいけつ 包丁ほうちょう錆迄さびまで御注意ごちゅういあらせられ、校長こうちょうには信用しんようある婦人ふじんきて監督かんとくせしめ、種々しゅじゅ御相談ごそうだんせらることすくなからず。

とき簡單かんたんにて淸潔せいけつむねとせる食卓しょくたく生徒せいととも會食かいしょくせらることさあり、また病院びょういんひとしく監督かんとくもとかれ、ときみずか病室びょうしつ見舞みま次第しだいなるが、在留中ざいりゅうちゅう熊本くまもと縣人けんじんなにがし入院にゅういんりしを陛下へいかにはしたしく慰問いもんあり、遠國おんごく日本人にほんじん病院びょういん入院にゅういんるはまことよろこばしきことなりと三個さんこ密柑みかんかごれて贈輿ぞうよせられたるがごとき、當人とうにんもとよりくものみなふか感動かんどうせるところなりき。

また露國ろこく(※ロシア)にゆきれば、同國どうこく土地とち廣獏こうばく(※広大こうだい)にして人民じんみんおおきも、沃野よくや(※ゆたかな土地とちとぼしきがゆえ貧民ひんみんすくなからず。

したがっ棄兒きじ(※育児いくじ放棄ほうきされた子供こどもおおく、莫斯科もすくわ(※モスクワ)には五千人ごせんにん収容しゅうようせる棄兒院きじいんあり。

これ總裁そうさい露國ろこく代々だいだい皇后こうごうにして、その建築けんちくなどすこぶ壮大そうだいきわ設備せつびはなは完全かんぜんにして、皇后こうごう事務じむらる事務室じむしつもあり、その養育よういく自己じこしんずる婦人ふじんもっ監督かんとくせしめ、なかには相應そうおう年長ねんちょうおんなもあるが、みぎ軍人ぐんじんなど遺児いじにして婚姻こんいんするまで教養きょうようせらるなりと

棄兒きじ受取うけとり方法ほうほうなどもっと行届ゆきとどきたるものにて、何人なんびと棄兒きじす(※子供こどもいてく)にその名前なまえ告知こくちするははじとすべきところなるにり、これ遺棄いきするあなありて、其處そこ棄兒きじすれば姓名せいめいただされず、一片いっぺん受取書うけとりしょ交付こうふせらる。

しかしてみぎには番號ばんごう記入きにゅうしあれば、後日ごじつおやにしてたずんとほっせば、番號ばんごうりてただちに會見かいけん次第しだいなり。

棄兒院きじいんにて受取うけとりたる兒童じどうは、湯浴ゆあみうえ新衣しんいせしめ、體重たいじゅうはかり、醫師いしをして監督かんとくせしめ、六箇月ろっかげつのちかねして地方ちほう百姓ひゃくしょう養育よういくたくする順序じゅんじょなるが、その時々ときどき巡廻じゅんかいして注意ちゅういあた規定きていなり。

遊歷ゆうれき(※海外かいがい視察しさつ當時とうじ英國えいこく皇太子こうたいしすなわいま皇后こうごう陛下へいか御手製おてせい物品ぶっぴん販賣はんばいせしめ、その利益りえきもっ貧民ひんみん救助きゅうじょてさせられ、父母ふぼ毎日まいにち勞働ろうどうづるとき兒童じどう學校がっこうあずけ、よるいたればかえらしむ規則きそくなり。

晝間ひるま兒童じどうきて勞働ろうどうしたがむをざることなれども、親子おやこ情愛じょうあいまで喪失そうしつせしめざるの趣意しゅいよりして、夜間やかんいえかえらしむるものなりと

しかしてその學校がっこう貴婦人きふじんをしてもっと親切しんせつ教育きょういくことしたがしむるがゆえに、あまりに貧困ひんこんならざるもの入校にゅうこうのぞむものおおきにより、貴婦人きふじんみずか出張しゅっちょうして、はたしてその家庭かてい貧困ひんこんなりやいなやをけんする(※調しらべる)ほどなりと。

此等これら事例じれい歐洲おうしゅうおい一々いちいち列擧れっきょいとまあらざることなるが、歸朝きちょう(※帰国きこく)ののちこれわが皇后こうごう陛下へいか(※昭憲しょうけん皇太后こうたいごう)にしたしく上申じょうしんするところありしに、御感斜ごかんしゃならずして、つい華族かぞく女學校じょがっこうならび慈惠じけい醫院いいん(※ 東京とうきょう慈恵会じけいかい医科いか大学だいがく附属ふぞく病院びょういん)の創立そうりつるにいたれり。

しかして慈惠じけい醫院いいん高木たかき 兼寬かねひろ主任しゅにんとしてその經營けいえいきたりしが、たん施藥せやく(※くすり処方しょほう)にとどまらず入院にゅういん施療せりょうすをようし、その費用ひよう莫大ばくだいにしてこれ維持いじ困難こんなんなるより、べつ慈善會じぜんかいをも設立せつりつし、華族かぞく大臣だいじん紳商しんしょう(※一流いちりゅう経済人けいざいじんなど助力じょりょくりて基金ききんつくり、孤兒院こじいんおよ慈惠じけい醫院いいん支出ししゅつ方法ほうほうをももうけたり。

日本にほん赤十字せきじゅうじ事業じぎょうは、いますで故人こじんとなりたる佐野さの 常民つねたみなど創業そうぎょうかかり、最初さいしょ博愛社はくあいしゃもうけありしが、十五年じゅうごねん歐洲おうしゅうより歸朝きちょう(※帰国きこく)して宮内くないきょうるや、これ助力じょりょく依頼いらいあり、その總裁そうさい有栖川宮ありすがわのみや殿下でんかなりしが、當時とうじその名前なまえ狭隘きょうあい範囲はんいせまい)なるをおもこれ萬國ばんこく共通きょうつう一視いっし同仁どうじん(※すべて平等びょうどうにみる)の主義しゅぎもとづ赤十字せきじゅうじしゃすべしと慫慂しょうようしたりき(※つよすすめた)。

しかるに當時とうじは、十字じゅうじ耶蘇やそきょう(※キリストきょう)にちな宗教上しゅうきょうじょう嫌惡けんおより、如何いかがならんと疑惑ぎわくいだものもありしが、赤十字せきじゅうじたんはつ會合地かいごうちたる瑞西すいすジュネーブしゅうもん採用さいようしたるにぎざれば、けっして偏狭へんきょう意味いみあるにあらずとなし、つい日本にほん赤十字社せきじゅうじしゃ創立そうりつしたりき。

わが皇后こうごう陛下へいか歐洲おうしゅう貴婦人きふじん社會上しゃかいじょうける實況じっきょうきこされ、社會しゃかい事業じぎょう御心みこころそそがせらる御事おんこととなり、以來いらい學校がっこう奨勵しょうれいともな社會しゃかい交際こうさい頻繁ひんぱんとなり、交際こうさい頻繫ひんけいまた社會しゃかい事業じぎょう誘導ゆうどうするにいたれり。

いま愛國あいこく婦人會ふじんかいひとしく慈善じぜん事業じぎょうにして、婦人ふじんのやさしき慈善じぜんこころ社會しゃかいうえ活動かつどうするものべく、これもっと婦人ふじん至當しとう事業じぎょう(※女性じょせいにふさわしい事業じぎょう)にて、此事このことたるひとり日本にほん婦人ふじんとどまらず、韓國かんこく 貴婦人きふじん諸子しょしまた率先そっせん誘導ゆうどうせらるおいては、そのくに進歩しんぽたすくることかなら尠少さしょうあらざるべし。

韓國かんこく婦人ふじんたん慈善じぜん事業じぎょうのみにとどまらず、社會しゃかい必要ひつよう事業じぎょうついても關係かんけいすべきことはなはおおく、たと工業上こうぎょうじょうおいても女工じょこうようすることあるべく、婦人ふじん此等これら事業じぎょうむかい活動かつどうするにいたらば、その國家こっかえきすることはなはだいなるべしとしん

明治めいじ39年11月10日、京城けいじょう愛國あいこく婦人会ふじんかい 支部しぶ大會たいかいおい

ロシアのれいげられている「おさな子供こどもいのち優先ゆうせんして、母親ははおや人目ひとめにせずに施設しせつ子供こどもたくすことが出来でき制度せいど」。

平成へいせい19年(2007年)に熊本県くまもとけんのキリストきょうけい慈恵じけい病院びょういんがドイツを参考さんこう運用うんようはじめた「こうのとりのゆりかご」より100年まえには実行じっこうされていて、日本にほん韓国かんこく紹介しょうかいされていたことになります。

西欧せいおう帝室ていしつんでいた児童じどう福祉ふくし事業じぎょうもまた大日本だいにほん帝国ていこくだけではなく、大韓だいかん帝国ていこくたいしても福祉ふくし活動かつどう参考例さんこうれいとして伊藤いとう博文ひろぶみみずからの言葉ことば紹介しょうかいされていたのです。



昭憲しょうけん皇太后こうたいごう基金ききん朝鮮ちょうせん半島はんとう

ひだり 明治めいじ天皇てんのう みぎ 昭憲しょうけん皇太后こうたいごう

日本にほん赤十字社せきじゅうじしゃ」の名付なづけや発展はってんにも寄与きよし、昭憲しょうけん皇太后こうたいごう明治めいじ天皇てんのうきさき)の福祉ふくしへの関心かんしん喚起かんきした政治家せいじか伊藤いとう 博文ひろぶみでした。

その伊藤いとう 博文ひろぶみなきあと明治めいじ45年(1912年)赤十字せきじゅうじ国際こくさい会議かいぎ米国べいこくワシントン)において昭憲しょうけん皇太后こうたいごう寄付金きふきんもとに「昭憲しょうけん皇太后こうたいごう基金ききん」が創設そうせつされました。

この基金ききん赤十字社せきじゅうじしゃにおける災害さいがい救助きゅうじょ活動かつどう保健ほけん衛生えいせい改善かいぜん活動かつどう先駆さきがけとなりました。

日本にほん赤十字社せきじゅうじしゃ 昭憲しょうけん皇太后こうたいごう基金ききん(The Empress Shoken Fund)

日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ 朝鮮ちょうせん在住者ざいじゅうしゃ 社員別表しゃいんべつひょう

大正たいしょう14年(1925年)10月当時とうじ日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ朝鮮ちょうせん半島はんとう 道別どうべつ(※日本にほん県別けんべつ相当そうとう社員表しゃいんひょうになります。

一例いちれいげると京城けいじょう(ソウル)のある京畿けいきどう内地人ないちじんが2,588にん朝鮮人ちょうせんじんが6,305にん慶尚北けいしょうほくどうでは内地人ないちじん2,759にん朝鮮人ちょうせんじん6,339にんとなっていて、伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつ数多かずおおくの内鮮人ないせんじん朝鮮ちょうせん半島はんとう医療いりょう福祉ふくし発展はってんちからくしていました。

日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ 朝鮮ちょうせん本部ほんぶ病院びょういん 所在地しょざいち  京城府けいじょうふ 竹添町たけぞえちょう

こちらは、日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ運営うんえいする京城けいじょう 竹添たけぞえちょう赤十字せきじゅうじしゃ 朝鮮ちょうせん本部ほんぶ病院びょういん患者かんじゃ統計表とうけいひょう昭和しょうわ年度ねんど(1933年)と昭和しょうわ14年度ねんど(1939年)になります。

予防よぼう接種せっしゅ母子ぼしのための保健ほけん指導しどうおこなわれ、朝鮮ちょうせん半島はんとう人口増じんこうぞう一役ひとやくっていました。

ひだり済生院さいせいいん 中央ちゅうおうあか部分ぶぶん日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ 朝鮮ちょうせん本部ほんぶ病院びょういん

この日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ総裁そうさいつとめた皇族こうぞく閑院宮かんいんのみや 載仁ことひと親王しんのうであり、皇族こうぞく軍人ぐんじんとして昭和しょうわ4年(1929年)に渡鮮とせん龍山りゅうざん練兵場れんぺいじょう開催かいさいされた視閲式しえつしき皇族こうぞく軍人ぐんじんによるぐん点検てんけん)や、日本にほん赤十字せきじゅうじしゃ 朝鮮ちょうせん本部ほんぶ総会そうかいにも出席しゅっせきしていました。

また、明治めいじ天皇てんのう崩御ほうぎょには20万円まんえん現在げんざい価値かちで7億円おくえん程度ていど)、昭憲しょうけん皇太后こうたいごう崩御ほうぎょさいには11まん千円せんえん合計ごうけい31まん千円せんえん御下賜金ごかしきん天皇家てんのうけからの寄金ききん)に国庫こっこ補助金ほじょきん10万円まんえんくわえてきん41まん千円せんえんをもって大正たいしょう3年(1914年)に恩賜おんし罹災りさい救助きゅうじょ基金ききん設立せつりつ朝鮮ちょうせん半島はんとう風水害ふうすいがい被害者ひがいしゃ保護ほご事業じぎょうおこなわれました。※「朝鮮ちょうせん社會しゃかい事業じぎょう昭和しょうわ8年(1933年)朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ学務局がくむきょく社会課しゃかいか発行はっこうより。

朝鮮ちょうせん半島はんとう福祉ふくし向上こうじょう天皇家てんのうけ皇族こうぞくにとって重要じゅうよう関心事かんしんじだったのです。



朝鮮ちょうせん半島はんとう医療いりょう

朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ機関きかんとしては各道かくどう日本にほん各県かくけん相当そうとう)に道立どうりつ医院いいんもうけて医療いりょう提供ていきょうおこなっていました。
朝鮮ちょうせん事情じじょう昭和しょうわ19年(1944年)ばんの「救療機關きゅうりょうきかんから説明せつめいします。

道立どうりつ医院いいん診療しんりょう患者かんじゃは、昭和しょうわ16年患者かんじゃ総数そうすう239まん6,754にんとなり。そのうち、治療費ちりょうひ負担ふたんえられない窮民きゅうみんたいしておこなわれていた無料むりょう診療しんりょう施療せりょう患者かんじゃは7まん7,029にんでした。

助産婦じょさんふ看護婦かんごふ養成ようせい事業じぎょう。 
現在げんざい助産師じょさんし看護師かんごしばれますが、当時とうじ女性じょせい職業しょくぎょうとされていたため「」の文字もじ使つかわれていました。

京城けいじょう帝国ていこく大学だいがく現在げんざいのソウル大学だいがく医学部いがくぶ付属ふぞく医院いいん京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう附属ふぞく医院いいん仁川じんせん大田だいでん全州ぜんしゅう光州こうしゅう大邱たいきゅう晋州しんしゅう海州かいしゅう平壌へいじょう春川しゅんせん咸興かんこう羅南らなん道立どうりつ医院いいんにおいて助産婦じょさんふ看護婦かんごふ養成ようせいしていました。

この養成所ようせいじょ小学校しょうがっこう卒業そつぎょう程度ていど資格しかく必要ひつようとして、教育きょういく期間きかんは2ねん教育きょういく期間中きかんちゅう一定いってい手当てあてが支給しきゅうされていました。

さらに恩賜おんし記念きねん診療しんりょう施設しせつとして、御下賜金ごかしきんもとにした基金ききん国費こくひくわえて救療きゅうりょう計画けいかく実行じっこうしていました。

昭和しょうわ7年(1932年)10月より医療いりょう機関きかんのない地方ちほう2,112めん日本にほんむら相当そうとう)にたいして、救療箱きゅうりょうばこ置薬おきぐすり)を設置せっちし、毎年まいとしくすり更新こうしん補充ほじゅうしていました。

また医療いりょう機関きかんがある地域ちいきたいしては診療券しんりょうけん配布はいふ官公立かんこうりつ病院びょういんおよび開業医かいぎょうい診療しんりょうけられるようにしていました。

さらに重症じゅうしょう患者かんじゃには入院料にゅういんりょう交付こうふおこない、僻地へきち窮民きゅうみん救済きゅうさいとして昭和しょうわ16年(1941年)より巡回じゅんかい診療しんりょう開始かいし昭和しょうわ16年度ねんど受診者じゅしんしゃべ197まん6,940にんでした。

大正たいしょう3年(1914年)の恩賜おんし罹災りさい救助きゅうじょ基金ききん恩賜おんし記念きねん診療しんりょう施設しせつなど、天皇家てんのうけから朝鮮ちょうせん半島はんとう国民こくみんへの支援しえん事業じぎょう積極的せっきょくてきおこなわれていたのです。

選挙権せんきょけんがなく政治家せいじか支援しえんられない朝鮮ちょうせん半島はんとうは、「大御心おおみこころ天皇てんのうかんがえ・意思いし)」が内地ないち不満ふまん分子ぶんしこえおさえ、国庫こっこからの補助金ほじょきん支出ししゅつをしやすい環境かんきょうづくりに一役ひとやくっていたのでした。



京城けいじょう大学だいがく附属ふぞく病院びょういん京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう附属ふぞく病院びょういん

京城けいじょう大学だいがく 医学部いがくぶ 職員しょくいん名簿めいぼ
京城けいじょう大学だいがく 医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういん

医学いがくのあった京城けいじょう大学だいがく(ソウル大学だいがく)は大正たいしょう13年(1924年)5月創立そうりつ京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう明治めいじ32年(1899年)3月に創立そうりつされ、その附属ふぞく病院びょういん併合後へいごうご朝鮮ちょうせん総督府そうとくふそば開業かいぎょうしていました。

京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう附属ふぞく病院びょういん
京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう 卒業生そつぎょうせい名簿めいぼ 明治めいじ40年代ねんだい

京城けいじょう医学いがく専門せんもん学校がっこう 卒業生そつぎょうせい名簿めいぼ氏名しめいうえ開業かいぎょう公醫こういにあるように、卒業そつぎょう開業医かいぎょうい私立しりつ病院びょういんへの勤務きんむ公医こういとして朝鮮ちょうせん半島はんとう近代きんだい医療いりょう従事じゅうじしていました。

そのなかで20万人まんにんもの朝鮮人ちょうせんじん女性じょせい慰安婦いあんふとして朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ朝鮮軍ちょうせんぐん強制きょうせい連行れんこうしていたと平然へいぜんしたのが、朝日あさひ新聞社しんぶんしゃ日弁連べんれん朝鮮ちょうせん半島はんとう各教育かくきょういく機関きかん教員きょういん派遣はけんしていた日本にほん大学だいがく教授きょうじゅたちでした。

このことでも「調しらべたというなら、当時とうじ朝鮮ちょうせん半島はんとうがどういうものだったのか、自分じぶんたちの関係者かんけいしゃからいてっているのだろう。それでなんでそんな蛮行ばんこうおこなわれたとわれなければならないのだ、伊藤いとうこう伊藤いとう博文ひろぶみ)や皇族こうぞく朝鮮ちょうせん近代化きんだいかはげんだ故人こじん侮辱ぶじょくするのか」と引揚ひきあ日本人にほんじん憤慨ふんがいしていました。

かえしになりますが、朝鮮ちょうせん半島はんとう引揚ひきあ日本人側にほんじんがわは「従軍じゅうぐん慰安婦いあんふ強制きょうせい連行れんこう問題もんだい」が沙汰ざたされてから一度いちども、どこからも確認かくにん調査ちょうさけていないのです。


本日ほんじつはここまでになります。おいいただきありがとうございました。

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