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8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.8)
愛は朝鮮半島を救う
朝鮮半島の近代化は日本が明治維新以降に西欧から学んだ医療・福祉の分野においても積極的に進められました。
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国立児童保護施設の済生院 養育部の他に鎌倉保育院 京城支部、京城保育院などが設けられて、親を亡くした児童や捨てられた児童の保護育成に努め、私設の育児施設に対しては朝鮮総督府から一定額の補助金を交付していました。
済生院 養育部では乳幼児はすべて里預け(里親制度)で、満12歳まで預け置き、普通教育(小学校)を卒業後に適職を紹介、養育部施設での預かりは8歳以上で、併設された4学年制の普通科で学習させ、その後実習科の附属農場で農業研修を行っていました。
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また済生院には聾唖部があり、目や耳の障碍をもつ人に対して普通教育や鍼治療技術、按摩技術や洋服縫製技術の指導を行っていました。
この福祉事業もテロリストの凶弾に倒れた伊藤 博文が生前に深く関わっていたものでした。
明治39年(1906年)11月10日、社会事業団体表の日本赤十字社朝鮮本部診療部の隣に記載されている京城愛国婦人会 支部大会においての伊藤博文の演説が残っています。
婦人の活動
「伊藤公全集 第二巻」より、明治39年(1906年)11月10日、京城愛国婦人会支部大会に於て。
「本日は愛國婦人會の大會を催さるゝ由にて、委員諸氏の案内にて臨席したるが、この盛況を見て欣悦(※喜び)に堪へず。
本會の成立及びこの盛況を呈するに至りたる次第は、只今鶴原長官より演説ありたれば、此處に贅せず(※無駄に話を付け加えない)。
只今日本婦人が日本社會に興りし事柄に就き所感を述ぶべし。
抑も何れの國に於ても國々の風俗習慣あり。
東洋の婦人は、一家を治め、所謂男は外に働き女は内(※家庭)を守るの風習なり。
清國韓國の婦人は未だこの風習を脱せざるものゝ如し。
獨り日本婦人は稍や外に現はれ、女子も亦男子を助けて社會の事に携はるに至れり。
蓋し(※まさしく)外に現はれ社會の爲めに働く事は東洋従來の風俗には絶えて無き所にして、全く歐米輓近(※欧米の最近)の進歩による。
日本に於ても卅九(三十九)年前には、婦人は社會の事業に携ることなく、公の席にも親類間の交際の外殆んど出席せざる所なりき。
今の婦人の社會に於ける事業に付て、予が關係せる事實二三を陳述せんに、予は明治十五年 憲法制度取調の勅命を奉じて歐洲に至り、主として獨(※ドイツ)、墺(※オーストリア)、伊(※イタリア)の間にあり、外國の帝室を訪問し各皇后にも謁見して親しく其社會の事業に盡瘁せらるゝ(※全力を尽くす)實情を目撃したり。
獨逸にては現皇帝の伯母に當るお方は學校病院事業に頗る熱心にして、其費用を自分の得給へる帝室費中の俸給より支出せられ、歐洲の風習たる銀婚式及び金婚式に各方面より捧呈せる金銀製の物品をば凡ての費用に投ぜらるゝ程なりき。
而して(※そして)自ら女子學校を創立し給ひ、時々自ら馬車にて臨幸(※出席)せられ、其教場は云ふ迄もなく庖厨(※台所)等をも巡覧あり、臺所の淸潔 包丁の錆迄も御注意あらせられ、校長には信用ある婦人を置きて監督せしめ、種々御相談せらるゝ事も少なからず。
時に簡單にて淸潔を旨とせる食卓に生徒と共に會食せらるゝことさへあり、又病院も均しく監督の下に於かれ、時に自ら病室を見舞はるゝ次第なるが、予の在留中に熊本縣人某の入院し居りしを陛下には親しく慰問あり、遠國の日本人が予の病院に入院し居るは誠に喜ばしき事なりと三個の密柑を籠に入れて贈輿せられたるが如き、當人は固より聞くもの皆深く感動せる所なりき。
又露國(※ロシア)に往て見れば、同國は土地廣獏(※広大)にして人民多きも、沃野(※豊かな土地)乏しきが故に貧民少なからず。
従て棄兒(※育児放棄された子供)多く、莫斯科(※モスクワ)には五千人餘も収容せる棄兒院あり。
之が總裁は露國代々の皇后にして、其建築等は頗る壮大を極め設備も甚だ完全にして、皇后が事務を執らるゝ事務室もあり、其養育は自己の信ずる婦人を以て監督せしめ、中には相應に年長の女もあるが、右は軍人等の遺児にして婚姻する迄教養せらるゝなりと云ふ。
棄兒受取の方法等は最も行届きたる者にて、何人も棄兒を為す(※子供を置いて行く)にその名前を告知するは耻とすべき處なるに據り、之を遺棄する穴ありて、其處に棄兒すれば姓名も質されず、一片の受取書を交付せらる。
而して右には番號を記入しあれば、後日親にして其の兒を尋ね見んと欲せば、番號に據りて直ちに會見し得る次第なり。
棄兒院にて受取りたる兒童は、湯浴の上新衣を着せしめ、體重を計り、醫師をして監督せしめ、六箇月の後金を附して地方の百姓に養育を托する順序なるが、其後も時々巡廻して注意を與ふる規定なり。
予が遊歷(※海外視察)當時の英國皇太子妃即ち今の皇后陛下は御手製の物品を販賣せしめ、其利益を以て貧民救助の費に宛てさせられ、父母は毎日勞働に出づる時に兒童を學校に預け、夜に至れば連れ歸らしむ規則なり。
是れ晝間は兒童を棄て置きて勞働に従ふは已むを得ざることなれども、親子の情愛は飽く迄も喪失せしめざるの趣意よりして、夜間は家に歸らしむるものなりと云ふ。
而して其學校は貴婦人をして最も親切に教育の事に従はしむるが故に、餘りに貧困ならざる者も入校を望むもの多きにより、貴婦人自ら出張して、果してその家庭が貧困なりや否やを檢する(※調べる)程なりと。
此等の事例は歐洲に於て一々列擧に遑あらざる事なるが、予は歸朝(※帰国)の後之を我皇后陛下(※昭憲皇太后)に親しく上申する處ありしに、御感斜ならずして、遂に華族女學校并に慈惠醫院(※ 東京慈恵会医科大学附属病院)の創立を見るに至れり。
而して慈惠醫院は高木 兼寬主任として其經營を爲し來りしが、單に施藥(※薬の処方)に止まらず入院施療を爲すを要し、其費用も莫大にして之が維持の困難なるより、別に慈善會をも設立し、華族大臣紳商(※一流経済人)等の助力に依りて基金を作り、孤兒院及び慈惠醫院に支出の方法をも設けたり。
又た日本赤十字の事業は、今は已に故人となりたる佐野 常民等の創業に係り、最初博愛社の設けありしが、予の十五年歐洲より歸朝(※帰国)して宮内卿と爲るや、之が助力の依頼あり、其總裁は故有栖川宮殿下なりしが、當時予は其名前の狭隘(範囲が狭い)なるを思ひ、之を萬國共通一視同仁(※全を平等にみる)の主義に基く赤十字社と爲すべしと慫慂したりき(※強く勧めた)。
然るに當時は、十字の耶蘇教(※キリスト教)に因む宗教上の嫌惡より、如何ならんと疑惑を懐く者もありしが、赤十字は單に初の會合地たる瑞西ジュネーブ州の紋を採用したるに過ぎざれば、決して偏狭の意味あるに非ずとなし、遂に日本赤十字社を創立したりき。
我皇后陛下も歐洲貴婦人の社會上に於ける實況を聞し召され、社會の事業に御心を注がせらるゝ御事となり、以來學校の奨勵に伴ひて社會の交際頻繁となり、交際の頻繫は又社會の事業を誘導するに至れり。
今の愛國婦人會も均しく慈善事業にして、婦人のやさしき慈善の心が社會の上に活動する者と云ふべく、是れ最も婦人至當の事業(※女性にふさわしい事業)にて、此事たる獨り日本婦人に止まらず、韓國 貴婦人諸子も亦率先誘導せらるゝに於ては、其國の進歩を助くる事必ず尠少に非ざるべし。
尚ほ韓國婦人は單に慈善の事業のみに止まらず、社會必要の事業に就ても關係すべき事甚だ多く、例へば工業上に於ても女工を要する事多ゝあるべく、若し婦人が此等の事業に向て活動するに至らば、其國家を益すること甚だ大なるべしと信ず。
ロシアの例で挙げられている「幼い子供の命を優先して、母親が人目を気にせずに施設に子供を託すことが出来る制度」。
平成19年(2007年)に熊本県のキリスト教系の慈恵病院がドイツを参考に運用を始めた「こうのとりのゆりかご」より100年前には実行されていて、日本と韓国に紹介されていたことになります。
西欧の帝室が取り組んでいた児童福祉事業もまた大日本帝国だけではなく、大韓帝国に対しても福祉活動の参考例として伊藤博文自らの言葉で 紹介されていたのです。
昭憲皇太后基金と朝鮮半島
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「日本赤十字社」の名付けや発展にも寄与し、昭憲皇太后(明治天皇の后)の福祉への関心を喚起した政治家も伊藤 博文でした。
その伊藤 博文亡後の明治45年(1912年)赤十字国際会議(米国ワシントン)において昭憲皇太后の寄付金を基に「昭憲皇太后基金」が創設されました。
この基金が赤十字社における災害救助活動や保健衛生の改善活動の先駆けとなりました。
日本赤十字社 昭憲皇太后基金(The Empress Shoken Fund)
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大正14年(1925年)10月当時の日本赤十字社の朝鮮半島 道別(※日本の県別に相当)社員表になります。
一例を挙げると京城(ソウル)のある京畿道は内地人が2,588人、朝鮮人が6,305人、慶尚北道では内地人2,759人、朝鮮人6,339人となっていて、伊藤博文暗殺後も数多くの内鮮人が朝鮮半島の医療や福祉の発展に力を尽くしていました。
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こちらは、日本赤十字社が運営する京城府 竹添町の赤十字社 朝鮮本部病院の患者統計表、昭和8年度(1933年)と昭和14年度(1939年)になります。
予防接種や母子のための保健指導も行われ、朝鮮半島の人口増に一役買っていました。
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この日本赤十字社総裁を務めた皇族が閑院宮 載仁親王であり、皇族軍人として昭和4年(1929年)に渡鮮、龍山練兵場で開催された視閲式(皇族軍人による軍の点検)や、日本赤十字社 朝鮮本部の総会にも出席していました。
また、明治天皇崩御時には20万円(現在の価値で7億円程度)、昭憲皇太后崩御の際には11万5千円、合計31万5千円の御下賜金(天皇家からの寄金)に国庫補助金10万円を加えて金41万5千円をもって大正3年(1914年)に恩賜罹災救助基金を設立、朝鮮半島の風水害被害者保護事業も行われました。※「朝鮮の社會事業」昭和8年(1933年)朝鮮総督府学務局社会課発行より。
朝鮮半島の福祉の向上は天皇家・皇族にとって重要な関心事だったのです。
朝鮮半島の医療
朝鮮総督府の機関としては各道(日本の各県に相当)に道立医院を設けて医療の提供を行っていました。
朝鮮事情・昭和19年(1944年)版の「救療機關」から説明します。
道立医院の診療患者は、昭和16年度は患者総数239万6,754人となり。そのうち、治療費の負担に耐えられない窮民に対して行われていた無料診療の施療患者は7万7,029人でした。
助産婦・看護婦養成事業。
現在は助産師・看護師と呼ばれますが、当時は女性の職業とされていたため「婦」の文字が使われていました。
京城帝国大学(現在のソウル大学)医学部付属医院・京城医学専門学校附属医院・仁川・大田・全州・光州・大邱・晋州・海州・平壌・春川・咸興・羅南の道立医院において助産婦・看護婦を養成していました。
この養成所は小学校卒業程度の資格を必要として、教育期間は2年、教育期間中は一定の手当てが支給されていました。
さらに恩賜記念診療施設として、御下賜金を基にした基金に国費を加えて救療計画を実行していました。
昭和7年(1932年)10月より医療機関のない地方2,112面(日本の村に相当)に対して、救療箱(置薬)を設置し、毎年薬を更新・補充していました。
また医療機関がある地域に対しては診療券を配布、官公立病院および開業医の診療を受けられるようにしていました。
さらに重症患者には入院料の交付を行い、僻地の窮民救済として昭和16年(1941年)より巡回診療を開始、昭和16年度の受診者は延べ197万6,940人でした。
大正3年(1914年)の恩賜罹災救助基金や恩賜記念診療施設など、天皇家から朝鮮半島の国民への支援事業も積極的に行われていたのです。
選挙権がなく政治家の支援が得られない朝鮮半島は、「大御心(天皇の考え・意思)」が内地の不満分子の声を抑え、国庫からの補助金支出をしやすい環境づくりに一役買っていたのでした。
京城大学附属病院と京城医学専門学校附属病院
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医学部のあった京城大学(ソウル大学)は大正13年(1924年)5月創立、京城医学専門学校は明治32年(1899年)3月に創立され、その附属病院は併合後も朝鮮総督府の直ぐ側で開業していました。
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京城医学専門学校 卒業生名簿の氏名の上の開業・公醫にあるように、卒業後は開業医や私立病院への勤務、公医として朝鮮半島の近代医療に従事していました。
その中で20万人もの朝鮮人女性を慰安婦として朝鮮総督府や朝鮮軍が強制連行していたと平然と言い出したのが、朝日新聞社や日弁連、朝鮮半島の各教育機関に教員を派遣していた日本の大学教授たちでした。
このことでも「調べたというなら、当時の朝鮮半島がどういうものだったのか、自分たちの関係者から聞いて知っているのだろう。それで何でそんな蛮行が行われたと言われなければならないのだ、伊藤公(伊藤博文)や皇族、朝鮮近代化に励んだ故人を侮辱するのか」と引揚げ日本人は憤慨していました。
繰り返しになりますが、朝鮮半島引揚げ日本人側は「従軍慰安婦強制連行問題」が取り沙汰されてから一度も、どこからも確認調査を受けていないのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。