李王家と共に
韓国にも主義者(社会主義者・共産主義者・無政府主義者)の組織が結成された明治32年(1899年)の2月 14日、大倉財閥(現在のサッポロビール・帝国劇場・ホテルオークラ・大成建設など)創始者の実業家大倉 喜八郎によって設立された帝国ホテルにて伊藤 博文より対韓国の方針が示されました。
この大倉 喜八郎の子息で慶應義塾出身の大倉 喜七郎が明治40年(1907年)11月に結婚した際に仲人を務めたのは伊藤 博文でした。
京城(ソウル)中枢で重要任務にあたっていた役人や関係者、その家族をきちんと調査していれば、どこかで必ず朝鮮半島近代化の総合プロデューサーとも言うべき伊藤 博文が、日本の明治維新をモデルとして韓国近代化を行うと説明していたと聞いているはずでした。
「寧ろ王家と共に歩ましむるにあらざれば、根據ある改革は得て望むべきにあらず。」との発言の様に李王家を支えて韓国内での軽挙な武力革命を防ぎ、その旗の下で国民の近代化教育を行い、日本と同様に四民平等と職業選択の自由を与える予定になっていました。
韓国の早期近代化には、自分たちが誇る明治維新以降の文明開化で得たものを使う。
日本が天皇家中心で国をまとめた成功例にならい、韓国は李王家を中心にまとめる。
これによって朝鮮半島領有を狙う他国の干渉を防ぎ、日本と共同歩調をとれる政治体制づくりを行うとの方針が、明治天皇の了解のもと決定されていました。
しかし、朝鮮半島では長年の政治腐敗から李王家への忠誠心は薄れていたため、一刻も早く韓国国民から尊崇される王家へと変わってもらう必要があったのです。
これを実現するための準備として明治40年(1907年)、幼い11歳の韓国皇太子の日本留学が行われました。
京城小学生児童招待の言葉
嘉仁親王(大正天皇)が韓国を訪問帰国した後に、伊藤 博文は明治40年(1907年)11月 17日に京城(ソウル)韓国統監官邸で園遊会を催しました。
この集いに招待されたのは、京城小学校並びに付属幼稚園生徒1,500名や官民合わせて100名ほどの大人でした。
彼らに対しての伊藤 博文の言葉になります。
この様に、大人だけではなく現地の日本人児童にも韓国皇太子の留学の重要性は伊藤 博文の口から直接説明されていました。
また大東亜戦争敗北後のマスコミや教育関係者は、韓国皇太子留学があたかも日本への人質であったかの様な解釈を流していますが、実際には「殿下が再び歸らるゝ時には、お前達は既に大人と爲る位であらうが・・」と招待した幼稚園児や小学生たちに語っている様に、初めから長期の留学になることは韓国帝室も理解の上で承諾されたものでした。
太子太師 伊藤 博文
大韓帝国 純宗皇帝の詔勅(皇帝の命令文書)にも「泰西諸国の太子(※ヨーロッパ諸国の王子)多くは幼年に於て外国に遊歴し(※各国を巡り学び)仕えて軍籍に入るものあるに至る・・」と書かれている様に、韓国を立つ前から韓国皇太子は日本の陸軍幼年学校に入学することが決まっていたのです。
「太子太師」とは古代中国にあった天子(皇帝)の師となり政治を補佐する官職のことになります。
伊藤 博文は、純宗皇帝陛下直々にその職を与えられた栄誉だけではなく、李垠皇太子殿下を韓国皇帝に相応しい人物へと教育した後、必ず韓国帝室にお返しするという責任を帯びたのでした。
そして李垠皇太子殿下が正式に韓国皇帝に就任された際には政治顧問としてその新皇帝を支えるという大役も与えられていたのです。
これは西欧の王室関係を参考に、日韓両帝室の関係を強固なものとするための計画でした。
それと同時に日本が狙っていたものは、清国(中国)やロシアの息のかかった韓国宮殿内のスパイから次代の皇帝を引き離すことでした。
留学によって幼い頃より日本語を学習することより、こちらの意図を歪めて伝える韓国宮殿内の通訳を介することなく意思の疎通が図れる効果と、日本軍の士官教育を受けることで朝鮮半島が置かれている状況(地政学リスク)を学んでもらい、ハーグ密使事件の様な裏切り行為を防ぐ効果も狙っていました。
韓国皇太子水戸訪問
伊藤 博文は、明治42年(1909年)8月 1日にも水戸(茨城県)で「成業の日」という言葉を使い、留学を終えれば李垠皇太子が韓国皇帝に就任することを示唆していました。
韓国皇太子は明治40年(1907年) 12月に伊藤 博文に伴なわれ来日してから始まった日本語の基礎訓練が終り、いよいよ陸軍幼年学校に入学することが決まっていました。
しばらくは厳しい軍隊生活になり自由な時間が無くなる李垠殿下のために、伊藤 博文は老齢の身を押して日本各地を連れ歩きました。
その一つが明治維新の聖典とも言える「水戸学」を生み、徳川の国譲り「大政奉還」を成し遂げた徳川慶喜の生家でもあった水戸藩のあった茨城県の水戸でした。
そして、この日からわずか2カ月後の明治42年(1909年)10月 26日、伊藤 博文はハルビン(現在の中国黒竜江省の都市)で朝鮮独立運動家の安重根に射殺されました。
大日本帝国憲法作成に尽力し、初代内閣総理大臣を務めた元老(天皇の相談役)であり韓国皇太子の太師の突然の死。
日本は日韓両国に殉じた政治家 伊藤博文が残した計画をあっさりと捨てたわけではありませんでした。
ただ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進学させ、さらに新しい時代の統治者として相応しい帝王学も習得させるスケジュールになっていた、12歳の韓国皇太子成人までの時間が必要でした。
そのための緊急処置が韓国併合(一時預かり)だったのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました