見出し画像

伊藤博文の置き土産 8.15 終りの始まり(歴史の改ざん・日韓対立への道.14)


李王家りおうけとも

海外かいがい教育会きょういくかい協議会きょうぎかいでの挨拶あいさつ

韓国かんこくにも主義者しゅぎしゃ社会しゃかい主義者しゅぎしゃ共産きょうさん主義者しゅぎしゃ無政府むせいふ主義者しゅぎしゃ)の組織そしき結成けっせいされた明治めいじ32年(1899年)の2月 14日、大倉おおくら財閥ざいばつ現在げんざいのサッポロビール・帝国ていこく劇場げきじょう・ホテルオークラ・大成たいせい建設けんせつなど)創始者そうししゃ実業家じつぎょうか大倉おおくら 喜八郎きはちろうによって設立せつりつされた帝国ていこくホテルにて伊藤いとう 博文ひろぶみよりたい韓国かんこく方針ほうしんしめされました。

この大倉おおくら 喜八郎きはちろう子息しそく慶應けいおう義塾ぎじゅく出身しゅっしん大倉おおくら 喜七郎きしちろう明治めいじ40年(1907年)11月に結婚けっこんしたさい仲人なこうどつとめたのは伊藤いとう 博文ひろぶみでした。


れの状態じょうたいけっしてわが維新前いしんまえ有様ありさまたがべくもあらず(※韓国かんこく現状げんじょう日本にほん幕末ばくまつとはくらべることは出来できない)。

なんとなればわが封建ほうけん諸侯しょこう(※各藩かくはん)は社稷しゃしょく(※国家こっか)をゆう兵力へいりょくゆう兵力へいりょく財力ざいりょくふるうて活動かつどうしたるが、ごとはたらきは到底とうてい個人こじんべきところにあらず。

いま朝鮮ちょうせん資力しりょく故郷こきょうたる長州ちょうしゅう現在げんざい山口やまぐちけん一藩いっぱんちからにすら匹儔ひっちゅうするにらざるべし(※現在げんざい韓国かんこく財源ざいげん維新いしんまえ長州ちょうしゅうはん一藩いっぱん予算よさんにすらおよばない)。

縦令たとえ兵力へいりょく養成ようせいせんとするも、朝鮮ちょうせん長州ちょうしゅう一藩いっぱんおよばざるなるべし(※この状態じょうたいでは朝鮮ちょうせん半島はんとう守備しゅびする兵力へいりょくとうにも長州ちょうしゅうはんにすらおとるものになる)。

これつて、學問がくもんもっ彼等かれら誘導ゆうどうするにも平和へいわたもちつつ進歩しんぽするの大切たいせつなることを彼等かれら腦裏のうり注入ちゅうにゅうするの手段しゅだんえらばざるべからず(※手段しゅだんこうじなければならない)。

詳言しょうげん(※くわしく説明せつめい)すれば王家おうけとか政府せいふとかにむかいあま反對はんたいせしむるごときことは不可ふかなり(※韓国人かんこくじん指導しどうするさいにむやみに李王家りおうけ政府せいふ批判ひはんしないようをつけてもらいたい)。

むし王家おうけともあゆましむるにあらざれば、根據こんきょある改革かいかくのぞむべきにあらず。

支那しな(※中国ちゅうごく)は勿論もちろん朝鮮ちょうせんおいても、革命かくめいもっ進歩しんぽはからんとするごと輕擧けいきょあらば、かえっ萬事ばんじ妨害ぼうがいおよぼしいたずら列國れっこく物議ぶつぎはや換起かんきするのうれいあれば、彼等かれらおしるにはもっと是等これらてんもち(※注意ちゅういはらい)彼等かれらみずからが十分じゅうぶんちから養成ようせいするののちにあらざれば何事なにごとあたざる道理どうり彼等かれら注入ちゅうにゅうせられたし(※近代化きんだいかすすのうこうしょう発展はってんさせてくに財源ざいげん確保かくほしてからでなければ、いかなる理想りそう実現じつげん出来できるものではないと理解りかいさせなければならない)。

本會ほんかい計畫けいかく賛同さんどうひょうすると同時どうじに、今日きょう來臨らいりん方々かたがたたいしてさら十分じゅうぶん御賛助ごさんじょあらんことを希望きぼうす。

海外かいがい教育會きょういくかい協議會きょうぎかいでの伊藤いとう 博文ひろぶみ発言はつげん」より抜粋ばっすい

京城けいじょう(ソウル)中枢ちゅうすう重要じゅうよう任務にんむにあたっていた役人やくにん関係者かんけいしゃ、その家族かぞくをきちんと調査ちょうさしていれば、どこかでかなら朝鮮ちょうせん半島はんとう近代化きんだいか総合そうごうプロデューサーともうべき伊藤いとう 博文ひろぶみが、日本にほん明治めいじ維新いしんをモデルとして韓国かんこく近代化きんだいかおこなうと説明せつめいしていたといているはずでした。

むし王家おうけともあゆましむるにあらざれば、根據こんきょある改革かいかくのぞむべきにあらず。」との発言はつげんよう李王家りおうけささえて韓国内かんこくないでの軽挙けいきょ武力ぶりょく革命かくめいふせぎ、そのはたもと国民こくみん近代化きんだいか教育きょういくおこない、日本にほん同様どうよう四民しみん平等びょうどう職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆうあたえる予定よていになっていました。

韓国かんこく早期そうき近代化きんだいかには、自分じぶんたちがほこ明治めいじ維新いしん以降いこう文明ぶんめい開化かいかたものを使つかう。

日本にほん天皇家てんのうけ中心ちゅうしんくにをまとめた成功例せいこうれいにならい、韓国かんこく李王家りおうけ中心ちゅうしんにまとめる。

これによって朝鮮ちょうせん半島はんとう領有りょうゆうねら他国たこく干渉かんしょうふせぎ、日本にほん共同きょうどう歩調ほちょうをとれる政治せいじ体制たいせいづくりをおこなうとの方針ほうしんが、明治めいじ天皇てんのう了解りょうかいのもと決定けっていされていました。

しかし、朝鮮ちょうせん半島はんとうでは長年ながねん政治せいじ腐敗ふはいから李王家りおうけへの忠誠心ちゅうせいしんうすれていたため、一刻いっこくはや韓国かんこく国民こくみんから尊崇そんすうされる王家おうけへとわってもらう必要ひつようがあったのです。

これを実現じつげんするための準備じゅんびとして明治めいじ40年(1907年)、おさない11さい韓国かんこく皇太子こうたいし日本にほん留学りゅうがくおこなわれました。


京城けいじょう小学生しょうがくせい児童じどう招待しょうたい言葉ことば

嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)が韓国かんこく訪問ほうもん帰国きこくしたのちに、伊藤いとう 博文ひろぶみ明治めいじ40年(1907年)11月 17日に京城けいじょう(ソウル)韓国かんこく統監とうかん官邸かんてい園遊会えんゆうかいもよおしました。

このつどいに招待しょうたいされたのは、京城けいじょう小学校しょうがっこうならびに付属ふぞく幼稚園ようちえん生徒せいと1,500めい官民かんみんあわわせて100めいほどの大人おとなでした。

かれらにたいしての伊藤いとう 博文ひろぶみ言葉ことばになります。


おいこら。お前達まえたち過般かはん(※先日せんじつ日本にほん皇太子こうたいし殿下でんか(※嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)が渡韓とかんせられたせつはいしたかどうだ。(生徒中せいとちゅうはいしましたとぶものあり)。

よろしい。わが皇太子こうたいし殿下でんか十月じゅうがつ 十日とおか 東京とうきょう御出發ごしゅっぱつどう十二日じゅうににち 宇品うじな(※現在げんざい広島港ひろしまこう)より軍艦ぐんかんされ、中國ちゅうごく大分おおいたとのあいだすなわ佐賀さがせき(※大分県おおいたけん佐賀関さがのせき)とところ外海がいかいでられ、仁川じんせん(※韓国かんこく仁川インチョン)に御着おつきに相成あいなつたのである。

御滞京中ごたいきょうちゅう(※京城けいじょう滞在中たいざいちゅう)のことみなとおりであるからここ必要ひつようはないが、殿下でんかには仁川じんせん御出發ごしゅっぱつ鎮海灣ちんかいわん(※韓国かんこく 鎮海チネ)を佐世保させぼ御上陸ごじょうりく利根とね(※二等にとう巡洋艦じゅんようかん)の進水式しんすいしきのぞまれ、長崎ながさき共進會きょうしんかいをも御覧ごらんうえ鹿兒島かごしま宮崎みやざき大分おおいた高知こうち各地かくち御巡視ごじゅんし十四日じゅうよっかもっようや東京とうきょう御着おんちゃくつた。

しかるに當日とうじつは、天皇てんのう陛下へいか(※明治めいじ天皇てんのう陛下へいか)があたか大演習だいえんしゅう行幸ぎょうこう(※軍事ぐんじ演習えんしゅう視察しさつ)の御發輦ごはつれん(※御出発ごしゅっぱつ)にき、新橋しんばしよりただちに上野うえのおもむかれ、停車場ていしゃじょう(※えき)におい御會見ごかいけんあり、かん巡視じゅんし始末しまつ詳細しょうさい奏上そうじょうせられた次第しだいである。

も(※そもそも)皇太子こうたいし海外かいがい交誼こうぎていせらること(※したしいいをむすばれること)は古來こらいえてないところであつて、およ一箇いっか月餘げつよ波風はふうあら海上かいじょうとうと御身おんみせいさせらること(※さらされること)非常ひじょう御奮發ごふんぱつねばならん。

今日こんにち時節じせつむかしちが皇太子こうたいしぢやからというていたずらに宮中きゅうちゅうおい安逸あんいつくらわけにはかぬ(※むかしよう皇太子こうたいしだからと宮中きゅうちゅう日々ひび行事ぎょうじおこなってらすだけではくにたない)。

すなわ外國がいこく帝室ていしつ訪問ほうもんし、見學けんがくめに各地かくち巡視じゅんしせらることは、りもなおさずその職分しょくぶんつくさる所以ゆえんである。

來月らいげつはじめには東京とうきょうかえるにり、當分とうぶん前達まえたち途中とちゅうこともなかうが、そのせつ韓國かんこく皇太子こうたいし(※ぎん殿下でんか)をも同伴どうはんすることたのまれてる。

殿下でんかふたたかえらるときには、お前達まえたちすで大人おとなくらいであが、韓國かんこく皇太子こうたいし日本にほん遊學ゆうがくせらることまでにはないことで、今日きょうじつ重大じゅうだい機會きかいである。

古人こじん(※むかしひと)も百聞ひゃくぶん一見いっけんかずとれたうに、今日きょうここ來會らいかいしてはなしたところなが記憶きおくそんし(※記憶きおくにとどめ)、他日たじついた統監とうかんがアーれたこともあるがと囘想かいそうすれば自然しぜん奮發ふんはつするもとともなるのである。

今日きょうあたかも一昨年いっさくねん日韓にっかん條約じょうやく成立せいりつした當日とうじつであるけれども、あながこれしゅくするとめではないが、さいわ天氣てんき睛朗せいろう日曜日にちようびでもあるから、かいもよおしたる次第しだいである。

生徒せいと職員しょくいん前述ぜんじゅつ趣意しゅいりょうして(※理解りかいして)、後丘こうきゅうあそび、辨當べんとう(※弁当べんとう)でもうてたがい遊戯ゆうぎし、十分じゅうぶんかんつくされんことをのぞむ(※たっぷりとたのしんでしい)。

伊藤いとう こう全集ぜんしゅう だい二集にしゅう」より「京城けいじょう小學しょうがく兒童じどう招待しょうたい

このように、大人おとなだけではなく現地げんち日本人にほんじん児童じどうにも韓国かんこく皇太子こうたいし留学りゅうがく重要性じゅうようせい伊藤いとう 博文ひろぶみくちから直接ちょくせつ説明せつめいされていました。

また大東亜だいとうあ戦争せんそう敗北後はいぼくごのマスコミや教育きょういく関係かんけいしゃは、韓国かんこく皇太子こうたいし留学りゅうがくがあたかも日本にほんへの人質ひとじちであったかのよう解釈かいしゃくながしていますが、実際じっさいには殿下でんかふたたかえらるときには、お前達まえたちすで大人おとなくらいであうが・・」招待しょうたいした幼稚園児ようちえんじ小学生しょうがくせいたちにかたっているように、はじめから長期ちょうき留学りゅうがくになることは韓国かんこく帝室ていしつ理解りかいうえ承諾しょうだくされたものでした。



太子たいし太師たいし 伊藤いとう 博文ひろぶみ

韓国かんこく皇太子こうたいし後見人こうけんにんとなっていた伊藤いとう 博文ひろぶみ

大韓だいかん帝国ていこく 純宗じゅんそう皇帝こうてい詔勅しょうちょく皇帝こうてい命令めいれい文書ぶんしょ)にも「泰西たいせい諸国しょこく太子たいし(※ヨーロッパ諸国しょこく王子おうじおおくは幼年ようねんおい外国がいこく遊歴ゆうれきし(※各国かっこくめぐまなび)つかえて軍籍ぐんせきはいるものあるにいたる・・」とかれているように、韓国かんこくまえから韓国かんこく皇太子こうたいし日本にほん陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入学にゅうがくすることがまっていたのです。

太子たいし太師たいしとは古代こだい中国ちゅうごくにあった天子てんし皇帝こうてい)のとなり政治せいじ補佐ほさする官職かんしょくのことになります。

伊藤いとう 博文ひろぶみは、純宗じゅんそう皇帝こうてい陛下へいか直々じきじきにそのしょくあたえられた栄誉えいよだけではなく、ぎん皇太子こうたいし殿下でんか韓国かんこく皇帝こうてい相応ふさわしい人物じんぶつへと教育きょういくしたのちかなら韓国かんこく帝室ていしつにおかえしするという責任せきにんびたのでした。

そしてぎん皇太子こうたいし殿下でんか正式せいしき韓国かんこく皇帝こうてい就任しゅうにんされたさいには政治せいじ顧問こもんとしてその新皇帝しんこうていささえるという大役たいやくあたえられていたのです。

これは西欧せいおう王室おうしつ関係かんけい参考さんこうに、日韓にっかんりょう帝室ていしつ関係かんけい強固きょうこなものとするための計画けいかくでした。

それと同時どうじ日本にほんねらっていたものは、清国しんこく中国ちゅうごく)やロシアのいきのかかった韓国かんこく宮殿きゅうでんないのスパイから次代じだい皇帝こうていはなすことでした。

留学りゅうがくによっておさなころより日本語にほんご学習がくしゅうすることより、こちらの意図いとゆがめてつたえる韓国かんこく宮殿きゅうでんない通訳つうやくかいすることなく意思いし疎通そつうはかれる効果こうかと、日本軍にほんぐん士官しかん教育きょういくけることで朝鮮ちょうせん半島はんとうかれている状況じょうきょう地政学ちせいがくリスク)をまなんでもらい、ハーグ密使みっし事件じけんよう裏切うらぎ行為こういふせ効果こうかねらっていました。



韓国かんこく皇太子こうたいし水戸みと訪問ほうもん

伊藤いとう 博文ひろぶみは、明治めいじ42年(1909年)8月 1日にも水戸みと茨城県いばらきけん成業せいぎょうという言葉ことば使つかい、留学りゅうがくえればぎん皇太子こうたいし韓国かんこく皇帝こうてい就任しゅうにんすることを示唆しさしていました。


韓國かんこく皇太子こうたいし御見學ごけんがくため東京とうきょうよりここまいつてらるが、このかん皇太子こうたいし日本にほん留學りゅうがくせらるることいては、韓國かんこく有志者ゆうししゃかんおい一昨年いっさくねんはるごろより發々たびたびとなられてたのであるが、中々なかなか日本にほんして日本にほん留学りゅうがくするとこと容易よういくわだてらるべきことにあらず、またこと韓國かんこく今日こんにちこそ衰頽すいたい微弱びじゃく(※国勢こくせいおとろえている)なりといえども、四千餘よんせんよ年間ねんかん 一國いっこくしてくにである。

その王者おうじゃ子孫しそんたるものが外國がいこく留學りゅうがくするようこと古今ここんれいなきことである。

しか時勢じせい變遷へんせんつて今日こんにち智識ちしき錬磨れんましなければならぬとので、わずか識者しきしゃあいだ留學論りゅうがくろん端緒たんしょひらいてたのであるが、愈々いよいよ 留學談りゅうがくだん(※留学りゅうがくばなし)の進捗しんちょくしたのは一昨年いっさくねんあきわが皇太子こうたいし(※嘉仁よしひと親王しんのう)に御勸おすすもうして韓國かんこく御巡遊ごじゅんゆうになつたのが動機どうきであつて、つい韓國かんこく皇室こうしつかせられても愈々いよいよ太子たいし日本にほん留学りゅうがくせしむることになり、不肖ふしょうなる拙者せっしゃに、六尺りくせき(※幼少ようしょう君主くんしゅ)をたく勅意ちょくい(※韓国かんこく皇帝こうてい意思いし)の依頼いらいけて、此國このくにれてまいつてほとん一年いちねん有半ゆうはん以上いじょう歳月さいげつおくり、今日こんにちでは日本語にほんご一通ひととおわかり、また日本にほん教育きょういくけて、北海道ほっかいどう 其他そのた此地このち地名抔ちめいなどほとんどんじて(※暗記あんきして)らるるから、ものはほとんど解釋かいしゃく出来でき度合どあいである。

なにしろ十二歳じゅうにさいいま幼童ようどうであるから、これれてこの炎暑えんしょ巡回じゅんかいするのは、自分じぶんろうゆえよりなにとすることはないが(※自分じぶんのことはもともとにしていないが)、殿下でんか健康けんこう状態じょうたいたいしては、日夕にっせき苦勞くろうをしつある次第しだいである(ぎん殿下でんか健康けんこう状態じょうたいには日夜にちや使つかっているのである)。

およなかでは、如斯かくのごとく區々くくたること(※こまかいこと)をおそれて學業がくぎょうおこたようことでは、到底とうてい成業せいぎょう(※目的もくてきげる)のぞむべからずとかんがるにつて、この炎暑えんしょをもかえりみずしてれてまいつたわけである。

今晩こんばん人力車じんりきしゃじょうより當地とうち官民かんみん有志ゆうし諸君しょくんと、多數たすう小學しょうがく生徒せいと提灯ちょうちんつらねてくをたが、まこと友国ゆうこく情諠じょうぎ(※友好国ゆうこうこくとしての交遊こうゆう)をおもんじ、こと日韓にっかん両國りょうこく関係かんけいほとんど兄弟きょうだいただならざるものがある(※兄弟きょうだい同様どうようである)ことを、未來みらい國民こくみんたる兒童じどう心裡しんりにまで了解りょうかいせられてれが發揚はつようしたものとかんがる。  

もとよりこれかならずしも兒童じどうこころよりはっするものにあらず、あるい教師きょうしなどがありて(※教師きょうし指導しどうり)ここいたつたのであろうが、自分じぶんこれ日韓にっかん両國りょうこく關係かんけいじょうよりるときは、自分じぶん責任上せきにんじょう衷心ちゅうしん(※こころそこ)より感謝かんしゃべざるを次第しだいである。

今夕こんゆうここ列席れっせきせられたる有志ゆうし諸君しょくんは、わたしたいして厚情こうじょうひょうせらるのみならず、同時どうじ韓國かんこく皇太子こうたいしたいしてももっと懇切こんせつなる歡迎かんげいひょうせられたるものとして、これたい満腔まんこう謝意しゃい(※こころそこからの感謝かんしゃ)をひょうすることをるは、自分じぶん衷心ちゅうしんよりよろこところである。

此晩このばんは、平素へいそ胸中きょうちゅううかんだところべた次第しだいであるが、順序じゅんじょ不整ふせい前後ぜんご錯綜さくそう(※はなしがバラバラでわかりにくかったかもしれないが)、其邊そのへん御寛恕ごかんじょ(※おゆるねがって)かさねて諸君しょくん御厚意ごこうい感謝かんしゃします。

伊藤いとう こう全集ぜんしゅう だい二集にしゅう」より「韓太子かんたいし留學りゅうがく經緯けいい日韓にっかん融和ゆうわ

韓国かんこく皇太子こうたいし明治めいじ40年(1907年) 12月に伊藤いとう 博文ひろぶみともなわれ来日らいにちしてからはじまった日本語にほんご基礎きそ訓練くんれんおわり、いよいよ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入学にゅうがくすることがまっていました。

しばらくはきびしい軍隊ぐんたい生活せいかつになり自由じゆう時間じかんくなるぎん殿下でんかのために、伊藤いとう 博文ひろぶみ老齢ろうれいして日本にほん各地かくちあるきました。

そのひとつが明治めいじ維新いしん聖典せいてんともえる水戸学みとがくみ、徳川とくがわ国譲くにゆず大政たいせい奉還ほうかんげた徳川とくがわ慶喜よしのぶ生家せいかでもあった水戸藩みとはんのあった茨城いばらきけん水戸みとでした。

そして、このからわずか2カげつ明治めいじ42年(1909年)10月 26日、伊藤いとう 博文ひろぶみはハルビン(現在げんざい中国ちゅうごく黒竜江省こくりゅうこうしょう都市とし)で朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動家うんどうかあん重根じゅうこん射殺しゃさつされました。

大日本だいにほん帝国ていこく憲法けんぽう作成さくせい尽力じんりょくし、初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめた元老げんろう天皇てんのう相談役そうだんやく)であり韓国かんこく皇太子こうたいし太師たいし突然とつぜん

日本にほん事蹟じせき写真しゃしん宝鑑ほうかん」より「伊藤いとう博文ひろぶみ国葬こくそう

日本にほん日韓にっかん両国りょうこくじゅんじた政治家せいじか 伊藤いとう博文ひろぶみのこした計画けいかくをあっさりとてたわけではありませんでした。

ただ、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうから陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうへと進学しんがくさせ、さらにあたらしい時代じだい統治者とうちしゃとして相応ふさわしい帝王学ていおうがく習得しゅうとくさせるスケジュールになっていた、12さい韓国かんこく皇太子こうたいし成人せいじんまでの時間じかん必要ひつようでした。

そのための緊急きんきゅう処置しょち韓国かんこく併合へいごう一時いちじあずかり)だったのです。


本日ほんじつはここまでになります。おいいただきありがとうございました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?