随筆(2021/2/24_1):小学校算数水準での数の掛け算の「順序」という、しばしば「数学」「教育」上有害にはたらく、公理っぽい何か(H_最終回・総括.個々のとある事例を、過度に一般化して、個々の別の事例に適用することは、危険である)
3.総括
3_0.(お知らせ)この記事は総括なので、実はここだけ読んでもいいようになっています
この記事は総括なので、実はここだけ読んでもいいようになっています。
「この記事の前に、AからGまで7つも記事があるのか。読みたくないな」
という方は、この記事だけでもお読みください。
その上で、
「この辺の話を、もうちょっと解像度上げて読みたい」
というのであれば、是非AからGまでお読みください。宜しくお願い致します。
3_1.今までの話の流れ
3_1_1.場合分け
小学校算数水準における、数の掛け算の「順序」は、場合分けが可能である。
「単位が関係ない数の場合」や、「単位が等しい数の場合」は、それらの掛け算の際に、並び方は関係ない。
「複数の数に、複数の異なる単位が割り振られている場合」は、それらの掛け算の際に、並び方がある、「と感じる人がかなりいる」。
そして、ここがしばしば議論になる。
3_1_2.どういう場合にメリットがあるか
なお、これは、数学の都合ではなく、数学教育の方の都合である。
それも、特別な狙いがあり、その狙いが正当である時に限り、正当である。
つまりは、その狙いが正当化できない場合は、この教育法は何ら正当ではない。そういう性質のものだ。
***
その、数の掛け算の「順序」による狙い、数学教育上のメリットとは、
「全体としての結果と、個々の条件と、その性質としての単位が、全て必要な時(に限り)、
個々の条件や性質としての単位を無視するような生徒に、
それらを自覚させる」
ことにある。
***
ちなみにこの話は、これを相手に説明していて、狙いが伝わっていて、相手が理解できている場合に限り、正当化される。
相手に説明しておらず、あるいは狙いが伝わっておらず、あるいは相手が理解できていない場合、それはもう正当化できなくなる。
相手にとっては、訳が分からない、メリットがあるとは思えない、脳にゴミを詰める教育にしかならないだろう。
そもそも、そのメリットが実際に効いているのかすら、検証されているかどうかは実は怪しい。
それは手前味噌のバイアスに満ちた独断かもしれない。
そういった可能性も、かなり真剣に疑うべきところだ。
3_1_3.どういう場合にメリットがなく、無駄になるか
なお。
個々の条件を問われなかったり、単位が問われなかったりする時。
小学校算数水準での数の掛け算の「順序」には、意味も価値もない。
つまり、さっきも書いたように、「並び方は関係ない」。
(そして、これらが問われないことは極めて多い。例えば九九や面積・体積がそうだ)
誰しもリソースは無限ではない。
「これは、今も今後も、無意味で無価値な約束事だが、やりなさい」
という話に、付き合ってられない。
それで、リソースが枯渇して、社会生活でドロップアウトしたり、死んだりするの、おそろしくばかげている。
だから、場合分けはしなければならない。
今、あるいは今後、意味や価値があり、リソースをちゃんと花開かせているから、やるだけの理由となりうるか。
それとも、そういったものはないから、やってられない類いのものか。という。
前者の話はどうあったって「かなり限定的な範囲内」にならざるを得ない。
まして、これを「一般化」することは出来ない。
「一般に」こういう教え方をしようと考えている人たちがいるが、それは結局、場合分けが出来ていない、ということになる。
3_1_4.どういうデメリットがあるか
3_1_4_1.どういうデメリットがあるか
これに加えて。
数の掛け算の「順序」には、メリットのみならず、かなり深刻なデメリット、副作用の害もある。
というか、これがあるから、大筋では要するに採用されてないのだ。
***
では、副作用の害とは何のことか。
ここの話は、「数学と数学教育の間」の話と、「数学教育」の話と、「数学教育と社会生活の間」の話に分かれる。
どれもこれも、マズイ。
3_1_4_2.数学上、どういうデメリットがあるか
「数学と数学教育の間」の話は、こうだ。
小中高の算数・数学の水準で出て来るような数においては、数学教育における数の掛け算の「順序」は、数学では通用しない。
なのに、数の掛け算の「順序」が、数学でも通用すると信じた生徒が、数学教育を真面目にやったとする。
こうなると、結果として、数学教育をやればやるほど、数学では通用しないこだわりを、己の血肉と化してしまい、リソースをごっそりドブに捨てて疲弊する羽目になる。
何より、このままだと数学に対してかなり大きく誤った理解を抱く。
これは、
「数学教育を真面目にやればやるほど数学が分からなくなる」
ということと事実上同じ効果がある。
もちろんこの矯正にはまた努力コストがかかる。
そして、言われたままに穴掘って、
「そこじゃない」
と後で言われて、舌打ちしながら別の穴掘って元の穴を埋め直す行為、
「なぜ最初に違うところに穴を掘らせた? 何かの罰か? バカにしてんのか?」
となるの、当事者としてはまあ当たり前であろう。
「頑張ったら罰がある」
こうなるようでは、その数学教育は、数学に対して有害だと言えよう。
お話にならない。
3_1_4_3.数学教育上、どういうデメリットがあるか
「数学教育」の話は、こうだ。
***
さっきも書いたが、数学教育の方針上、この手の数学教育をやればやるほど、数学の正規の考え方からは逸脱していく。
***
また、必要のない時にこうした努力をしていたら、それはしばしば問題行動であり、邪魔な振る舞いだ。
社会生活でも「無能な働き者」「勤勉な馬鹿」扱いされて、罵声を浴びたり塩対応されたりするだろう。
こうなると、社会生活への適応、出来ているという話にはまるでならない。
何せ、周囲としては、それは場でなすべきことから外れている。そんなことをしてドヤ顔されても困る。場でなすべきことをしてほしい。
「これをやれ。そんなことをするな」
という軌道修正を、つまりは矯正をせざるを得ない。
そもそも、こういうことをやってる本人は、これを「いいこと」と教わったからやっているのだ。
「あれはなかった。あれをするな。これをやれ」
と今更言われて、しばしば
「褒められるべきところなのに、頑張ったら罰があった。何だそれは。ふざけるな」
と頑なになるの、無理もない話ではあろう。
「多少の指導コストなら払えるし、それも場の役に立ってもらうためには必要なコストだ」
と、場の人々はある程度は配慮してくれるかもしれない。
だが、事ここに至ると、軌道修正など出来る訳がない。
指導コスト、全部水泡に帰す。
指導する先輩が心折れる瞬間だ。俺だったら直面したくない。これまでに何度かこれを食らってきた。あれは、本当に心の底から、嫌なものだ。
(もちろん俺も誰かにこういうのを食らわせてきたのだろう。残念ながら今更しょうがないことではある。が、今後はあまり繰り返したくない)
数学教育が、こういう形で、社会の現場や指導する先輩に迷惑をかけるようでは、
「その数学教育が社会のお役に立てている」
という話、かなり冷ややかな態度で受け取られるだろう。実際にはところどころ邪魔になってるんだから。
***
数学教育には
「素材としてうま味のある知識体系を教える」
か、
「知識を生活や社会で直接活かす方法を教える」
か、いずれにせよ何らかの目的があるからされている訳だ。
上の話では、
「このスタイルで突き進むと、両方とも失敗に向かう」
という話になる。
いずれの目的に対しても、手段が不適切なせいで、不協和音が起こっている。
こうなると、
「生徒が数学教育そのものについていけなくなる」
し、
「生徒が数学そのものに拒絶反応を示すに至る」
訳だ。
無理もない話であろう。
自分の役に立てるためにやっていることで、自分が役立たずになるんだから。
そして社会生活で干されるんだから。
3_1_4_4.社会生活上、どういうデメリットがあるか
「数学教育と社会生活の間」の話は、こうだ。
さっきも触れたように。
上のような数学教育を真面目にやって、教えた生徒が社会に出た場合。
必要のない時にリソースを無駄な作業コストに費やす、つまりはドブに捨てる、「無能な働き者」「勤勉な馬鹿」に育つ。
本人の生活としては、やることなすこと何かしらうまくいかなくなる。
社会としては、こんなことする人に、罵声や塩対応を浴びせがちになるの、かなり避けがたいだろう。
この時点で、いずれにせよ、マズイ。
***
別の話もある。もう少し一般的な話だ。
「TPO(時と場と場合)をざっくりと分けて、省略した方がいいものは省略した方が、実際としては円滑だ。
場合分けを考慮せずに、何らかの基準を一律厳格に適用したら、この円滑さは損なわれる」
という話がある。
また、数の掛け算の「順序」は、
「一律同じように考えることで、場合分けを「しない」で、場合分けのための判断のコストを下げる」
という話に依拠している。
これら2つの話は、基本的には相容れない。
場合分けをする話と、しない話だからだ。
TPOの場合分けをした方が、社会生活で蹴つまづくことは減る。
社会生活は、たくさんの物事であり、それは様々なTPOで場合分けされるものなんだから。
これをすっ飛ばしたら、少なくとも、個々の事例でしっくりこなくなる。
だから、社会生活どころか、やることなすこと、何もかも蹴つまづく。
「一律でやって楽をする」
という話は、個々の事例を無視して踏んでいく場合、そもそも蹴つまづく元だ。そう弁えねばならない。
3_1_5.その副作用の害は、期待し得る利益と並べた時に、そこまで際立つものなのか
3_1_5_1.その副作用の害は、期待し得る利益と並べた時に、そこまで際立つものなのか
そもそものメリットは
「単位の違いを前にして、その分別を付けてくれると、社会生活の適応に寄与する」
ということだった。
そして、デメリットは
「数学そのものに拒絶反応を示すに至り、数が出て来る社会生活で適応できなくなる」
ことであった。
社会生活の適応に寄与するつもりだったはずだ。
まるで逆の、社会生活への不適応に関するデメリットがある。
何だそれは。話がおかしいぞ。と、そういう話にもなるだろう。
***
そして、この副作用の害は、期待し得る利益と並べた時に、「致命的に」大きい。
数の掛け算の「順序」のメリットは、これを成り立たなくさせるようなデメリットをあらかじめ食らうことによって、結局は砂上の楼閣のように崩れ去る。
デメリットのせいで根本的に崩れてしまうようでは、そもそもそんなメリットなど、およそ信用に値しないだろう。
3_1_5_2.数学上、その副作用の害は、どう致命的か
数学においては、数の演算は、それなりに根本に近いレベルで重要なことの一つだ。
数の掛け算は、数の演算の中でも、非常に頻繁に使われるものだ。
そういう数の掛け算のどこかでこのように蹴つまづいたら、数の演算全体のどこかで蹴つまづいたことになる。
数の演算は数学全体でも呼吸のように使われるものなので、数の演算で蹴つまづいたら数学全体でも蹴つまづく。
数学に脱落する生徒の存在や、脱落した元生徒の増加が、数学にとって歓迎すべき事態とは言えまい。
そして、脱落したんだから、もう上のようなメリットもへったくれもない。デメリットしか残らない。
3_1_5_3.数学教育上、その副作用の害は、どう致命的か
数学教育という観点からしても、
「数学そのものに拒絶反応を示すに至った」
元生徒たちが、
「それでも、初等的な数学を受容して、単位の違いを前にして、その分別を付けてくれる」
などということを、なぜ期待できるのだろうか?
まず、無理だ。
そもそも数学も数学教育も嫌いなんだから。
そして、それらで挫折したポイントが、正にここなんだから。
挫折したんだから、もう上のようなメリットもへったくれもない。デメリットしか残らない。
3_1_5_4.社会生活上、その副作用の害は、どう致命的か
社会生活においても、似たようなことが起きる。
もし、生徒がやってられなく「ならない」で、そのまま真面目に「やった」ら、必要のない時にリソースを無駄な作業コストに費やす「無能な働き者」「勤勉な馬鹿」に育つ。さっき書いた通りだ。
場としては、それは場でなすべきことではないので、なすべきことをさせようと、その人の思考回路を軌道修正しにかかる。
当然これは難航する。本人は良かれと思ってやっているのに、怒られが発生しているからだ。大人しく聞く可能性が低いのは、ある意味当然であろう。軋轢は避けがたくなる。
そんなこんなで、場に、もう少し広く言えば社会に、不要不急の迷惑がかかる。
***
また、数の掛け算の「順序」の一律固定は、
「場合分けをしないで一律何かをすることで判断コストを下げる」
という話の具体例だ。
実際にはこれは、
「個々の事例に対する判断コストを払いたくない。判断したくない」
ということだから、どうあっても個々の事例で少しずつつまづく元になる。
これでは、社会も生活も、やっていくのは困難になる。
***
それに。
社会生活に向けた、とはいえ実際には的外れのところへの、リソースの不断の消耗。
これは、やってる本人の社会生活どころか、気力までをも脅かす。
無駄に頑張って、疲弊して、ある日潰れて飢えて死んでいく。
そういうのが、その人にとって、一体何のメリットがあるのか?
***
これは、社会生活への適応を志向した教育のはずだ。
で、結果として、その人は無駄な時に無駄な努力にこだわるようになり、不適応の元になるし、何ならそれで周囲に迷惑をかけるし、最悪本人が気力を使い果たして飢えて死んでいく。
この時点で、社会生活上の適応のメリットもへったくれもない。デメリットしか残らない。
3_1_5_4.どこに出しても空手形になってしまう
そんな訳で、こと小中高の算数・数学水準において、数の掛け算に「順序」があるという思想と、それに基づいた教育は、期待し得る利益よりも、副作用の害の方が致命的に大きい。
数学と数学教育の間においても、数学教育においても、数学教育と社会生活の間においてもだ。
いずれにせよ、これらのメリットというものは、内包するデメリットのせいで、反故にされる空手形だ。
それも、致命的なデメリットであり、それがわずかばかりのメリットを根こそぎ無意味無価値にするので、これは非常に有害な約束事である。空手形を約束事とはよもや言うまい。
じゃあ、そういうメリットの話をすることは、およそ誠実とは程遠い、詐欺的な行為です。やめた方がいいと思うんですよ。
そうなると、致命的なデメリットの話だけが、そこに横たわってしまいます。
掛け算をはじめとする数学全体についていけなくなった結果、金などの量の概念が絡む社会生活で困るか。
このやり方をそのまま丸呑みした結果、やるべきことにかけるべき労力を、無駄なこだわりに費やして、周囲に迷惑をかけて、社会が困るか。
無駄なこだわりの結果、そのうち自分の気力を無駄に使い果たして、端的に自分の生活で困るか。
うん。
これはやりたくないぞ。
というか、ここまで改めてみると、むしろ何でこんなことをしなきゃならないんだ?
3_2.話を一般化して問題のないレベルにまで一般化する
3_2_1.個々のとある事例を、過度に一般化して、個々の別の事例に適用することは、危険である
今までの話、特に場合分けの話を、一般化して問題のないレベルにまで一般化すると、
「個々のとある事例を、過度に一般化して、個々の別の事例に適用することは、危険である」
という話になります。
いわゆる個別と普遍の話です。
共通点があっても、差異があり、そこでつまづいている場合。
前の事例を今の事例に適用しようとしても、何の効き目もない。
同じ手は効かない。
あくまで別のものとして扱わねばならない。
これは、数学でも、数学教育でも、社会生活でも、何にでも付きまとうことです。
個別と普遍は区別されねばならないし、とある個別と別の個別も区別されなければならない。
共通点、類似点がある場合ならまだしも、そういうのがない場合、それらを同一視するのはとんだお門違いであり、また有害でもある。
物事を良くしたい、良い事をしたいのなら、そんなことをしてはならない。
3_2_2.難易度の高いとある事例を先にやらせて、難易度の低い個々の別の事例に適用すると、無益な脱落者を生む
共通点が効いてきているようであれば、前の事例を今の事例に適用する余地は大いにあります。
ですが、
「難易度の高いものから慣らしていって、難易度の低いものもやらせる」
というスタイルも、やはり問題が付きまといます。(これを好む人はかなりいますが)
というか、
「難易度の低いものから慣らしていって、難易度の高いものもやらせる」
のが、ふつうはスムーズな「慣らし」でしょう。
いきなり難易度の高いものに慣らしたら、無益に脱落する生徒が出る。
それは、難易度の低いものから慣らして、難易度の高いものに挑戦させる時より、ふつうは脱落は多くなるし、その後の展開も悪い。
ここで脱落した生徒は、別にその後再挑戦などしない。彼らはそのまま脱落する。しかも、今言ったように、たくさん。
もし、
「社会生活から脱落する者を減らしたい」
のであれば、こういう無益な足切りを正当化出来ない。だってまるで逆のことをしているのだから。
それとも、彼らの再挑戦を手伝ってあげるのか?
やはり無益に難易度の高いハードルを、なおもそのままもう一度掲げて?
それでは、彼らはかなり高い確率で同じように脱落するだろう。
そして、今度は「再現された」失敗に真剣に嫌気が差して、
「「今度こそ」もう関わり合いになるのはごめんだ」
となるだろう。
物事を良くしたい、良い事をしたいのなら、こんなこともやはりしてはならない。
3_3.数の掛け算の「順序」を固定する数学教育、やめた方がいいと思うんですよ
もし、数の掛け算の「順序」を固定する数学教育をやるつもりなら、やめた方がいいと思うんですよ。
いずれにせよ、生徒の社会生活を潰す、そういう数学教育になる。
こんなこと、しない方がいいと思うんですよ。
(以上です)
(大変長くなってしまいました)
(最後までご覧下さいまして、誠にありがとうございました。ご清聴ありがとうございました)