随筆(2020/12/26):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_18-1_20)(戯れる気持ち、潤う気持ち、性行為)
1_18.キャッキャウフフと戯れたい気持ちと、そこにある罠と、克服
1_18_1.そろそろ油断してもよくなるが、筋をかなぐりすててはいけない。信頼の上で成り立つ甘えなんだから、信頼をぶち壊しにしたらダメに決まってる
心を開いて甘えるようになると、肩の力を抜くことが多くなる。
これはとても大事なことで、四角四面に肩肘張っている人に、いつまでも四角四面に肩肘張ることを余儀なくすると、意外にも相手は壊れるし、こちらは棄てられることになる。
というか、これは意外でも何でもなくて、「緊張を無限に強いられる」ということだし、こんなもん壊れて当たり前だ。
そしてこちらは緊張を強いている側だ。そりゃあ、脅威だし、脅威である相手との関係を、誰だって友好的に続けたくはないんだよな。
***
とはいえ。
ここまで来られたのは、相手を評価するとか、相手をナメないとか、相手のためにするとか、相手との約束を守るとか、相手のしてくれたことに見合うようにするとか、そういうことの実績と、思い出(エピソード記憶)の積み重ねによるものです。
で、これらの重要性はフェーズによってその都度その都度変わるが、価値があること自体はずーっと変わらない。
つまり? これらをかなぐり捨てるようなことをしちゃいけないんだよな。
自分が相手に甘えられるのは、信頼の上で成り立つことであって、信頼もへったくれもない赤の他人には、相手はそういうことはふつうさせない訳だ。
ある方がむしろ珍しい、「有難い」ことだ。「有難く思う」べきところだろう。
***
まして、自分で
「関係が一旦成り立ったから、関係を成り立たせるための信頼構築や信頼維持の努力は、最早要らない」
と言って、信頼をぶち壊しにしてはいけない。
「釣った魚に餌をやらない」思想の人には、
「そうではない。餌をやらなかったら誰だって死ぬ。そこをぶち壊すな」
ということしか言えない。
***
で、時々別の動機でこれをやる人がいる。
「こいつは自分や、自分との関係が好きなんじゃなくて、信頼が好きなんだ。
つまり、こいつが欲しいのは信頼だ。
自分そのものは直ちに交換可能だ。
つまり、何かあればこいつは自分を捨てる。
ふざけるなと言いたい。
違う? よくも抜け抜けと抜かすものだ。
こいつには自分の吐いた嘘が真実であることを証明してもらう。
出来ないだろう? くたばれ」
という絶望で、これをやっている人だ。
まあ、分かる。
でも、
「何を言ってるのだ? そんなことは当たり前だろう???
信頼のないお前や信頼のない関係が、信頼の伴うお前や信頼の伴う関係と同一な訳がない」
という感想しかないんだよな。
平たく言って、信頼を自らぶち壊しにした人は、自分の良さを自分で一部破壊した人でしかない。
じゃあ、それだけ不利に決まってるんだよな。何をやってるんだ何を。
***
愛の本質は、自分という個人や、自分と相手との関係にあるのではない。
というか、信頼の中にあるのですらない。
そもそも、「愛の本質」という発想自体、けちな痩せた発想だ。
ふつうの人は、愛の本質「ではなく」好きなところと嫌いなところについて考える「より前に」今ここにある塊、その総体としてのあなたを愛しているのだ。
全体が好きな人を相手に、部分に分解したものを出せば出すほど、嫌われるに決まってるんだよな。
好きな部分と嫌いな部分はあるかも知れないし、今ある総体から、今既に目立つ、嫌いな部分をなくすことは許容できる。いぼを取るような話だ。
でも、今ある総体をわざと切り刻んで、特に好きなところとどうでもいいところと嫌いなところを腑分けして検証するの、病んでるとしか言いようがないんだよな。
そんな素人の外科手術、相手はふつう望んでいない。
グロ画像にしかならない。
「愛の本質」をやるな。それはラッキョウの皮を剥いて芯を食べようとする猿のような、有害な妄想だ。
「愛のためにやれることを全部」やるべきであり、そのうちのどれかをサボるのは、ふつうリスクだ。
「愛の総体」をやれ。としか言えないんだよな。
***
特に、信頼によって得られた関係なら、信頼も関係もどちらもぶち壊しにしてはならない。
信頼だけあって関係がないなら、それは
「その色恋沙汰は先に進めない。ガッカリ」
ということだし、関係があって信頼をぶち壊しにしたのなら、
「その愛は部分的にぶち壊しになった。ガッカリ」
ということでしかありえないんだよな。
部分を破壊するのが好きな人は、総体に対する評価に興味がない。
そういうの、やめろ。総体の評価を受け容れろ。
その中には、不可分な性質ながら、自分がちゃんといるから。
信頼や関係と同じくらい、というか不可分な形で、自分は肯定されているから。
「信頼や関係がなかったら要らなくなるし、奪い尽くして殺してよくなる」
などという形で、否定されてなんかいないから。
ふつうの人は、
「信頼している関係を結んでいる相手を愛している」
と思いながら、
「信頼や関係がなかったら要らなくなるし、奪い尽くして殺してよくなる」
と考えるような、器用な、そして病的な考え方は、出来ないようになっているんだから。
***
自分は愛の総体に、その部分としての信頼や関係や相手に興味がないのか?
ある?
相手の信頼と関係「だけ」が大事で、相手には興味がないのか?
違う?
そうか。
じゃあ、相手だって同じことを考えていると思うよ。
総体を愛しましょう。
そして、おそらく相手が信頼や関係をぶち壊しにし始めたら、自分はきっと興ざめするに違いないのだ。
じゃあ、自分だってそれをやってはいけない。
信頼と関係のどちらも、そして愛の総体も、大事にしましょう。
その中には自分も相手も含まれていて、どちらも同時に大事にされているのだ。
総体を愛して部分も大事にする。それが正解でしょう。
***
自分が自分を愛しておらず、相手が自分を愛している時に、
「お前が自分を愛しているのは嘘であり、嘘であることを証明してやる。
これを否定するために、自分への愛を貫徹せよ」
というの、自分の心の病気に相手を巻き込んでるだけですよ。やめましょう。
自分が自分を愛していないのは、それはもちろん自分にとって尋常でなく腹が立つ大きな不幸だし、一般に見ても、世界残酷物語であり、大きな問題だ。
それは、今まで出会って来た他の誰かたちから
「何で無報酬でやってくれないの?
何で奪い尽くされてくれないの?
それがあなたの、やくめでしょ?」
と侮辱と虐待をされ続けたせいなのかも知れない(メチャクチャよくあることだ)。
だが、ちゃんと愛してくれて、報いてくれて、奪い尽くさない、目の前の相手にまで、
「あなたは報いてるし、奪い尽くさない。他の奴とは違う。
つまりは、完全に未知のリスクパターンであり、何を考えているか全く読めない。真剣な脅威であり、死の恐怖をもたらす異常者だ。
『あなたがこの世界と断絶した異常者でないこと』を証明するか、『その異常行動こそがこのちっぽけな世界ごときよりはるかに正しいのだ』ということを証明するか、どちらかにしろ。
いずれにせよ、身の証を立てろ」
という形で、己の不幸な成り行きを、ぶつけちゃあいけないんだよ。
そのような権利は、別に自分には備わっていない。
絶対にやめましょう。
***
(これは、虐待に慣れ過ぎたある種の一派が、
「虐待は、世界の現実であり、世界の正しさである。
虐待をしない養育者はすべて、子育てを真面目にやっていない、とんだエアプレイのフェイク野郎だ」
と信じ込むのに、パターンとしてはかなり近い。
非常に哀しい話をすると、ガチめの虐待親は「少ない」から、児童相談所は(辛うじて麻痺せずに)回っているのだ。
この話にリアリティがあるようならよかったが、そもそも児童相談所を
「自分たちを助けないし、助けると称して虐待するのであろう」
と頑強に思い込んで、一切信じず頼らず憎悪している被虐児は、いる。
それは健康福祉系の公僕は真剣に受け止めなければならないところだし、実際にかなり多くの担当者は真剣に受け止めています)
1_18_2.キャッキャウフフやイチャイチャの願望はまあいいが、むき出しにするのはちょっと待った方がいい
甘えの話に戻ります。
甘えの中には、
「キャッキャウフフしたい、イチャイチャしたい」
という、「戯れたい気持ち」という動機が含まれている。
そこはまあいいだろう。
気心の知れた友達とふざけて戯れるの、一般に、楽しい。
じゃあ、心を開いて甘えた相手とふざけて戯れるの、メチャメチャ楽しいに決まってるんだよな。
だが、しばしばこの動機は、「汚らわしい」と思われやすい。ということに注意して下さい。
一線を何度か越えた後だと、それは当たり前になり、初手の抵抗もなくなるから、それはその後やればいい。
ただ、初手でやるのは、失敗を招くこともある。
なぜか。
***
一線を越えるレベルでは、ただの好意なり信頼なりではなく、余程の強度のある「受け容れたさ」が要ります。
「キャッキャウフフしたい、イチャイチャしたい」
というのは、正直な動機ではあろうが、相手にとっては別に「受け容れたさ」を伴わない話だ。
むしろ引っかかりすら覚えるだろう。
「最後の最後でケダモノであることを隠さなくなりやがった。あーあみっともねえ」
ここでこの手の幻滅をされたら、色恋沙汰中間面接試験、かなり辛い評価になるでしょうね。
一線を越えた後で、相手の脳内にリザルト画面が出て、容赦なく
と出てくるやつですよ。
だから、動機はそれで間違いないが、着地点としては、もうちょっと
「幻滅するような引っかかりがなく、むしろ色恋ロマンティック特大感情にグッとくる」
話が要る。
1_19.温かく瑞々しく柔らかく癒される気持ち、心の潤い
1_19_1.「距離の近い、側にいる人との間の、温かく瑞々しく柔らかく癒される気持ち、心の潤い」は、二人分の精神の深いところに訴えかけてくる。これに着目しましょう
キャッキャウフフやイチャイチャは、官能や願望の快楽に訴えるものだ。
それは、気持ちいいし、満足ももたらすが、二人分の精神の深いところに訴えかけてこない。
ここで、奇妙なことを言うかもしれない。
キャッキャウフフやイチャイチャをすることで、別の回路が励起されることがある。
何か。「孤独でない、心の通い合い」だ。
人は、一人でいると、冷たく渇いてひび割れた孤独は避けられない。
もちろん、それはそれで、一人でやっていかねばならない。
だが、二人でいると、そうではないこともある。
「単に孤独なのではない。受け容れられている」
という、温かく瑞々しい柔らかい空気が、通うことがある。そういう話だ。
いいですよね。そういうの。
それにこれは、キャッキャウフフやイチャイチャよりも、聞こえの良さが「綺麗」だ。
(個人的な感覚の話に過ぎないのですが)
(そしてこの話は後で、一線を超える際の「二度目の告白」の時に効いてきます)
(「二度目の告白」とは? その話もすぐ後でします)
1_19_2.特に心が深く傷ついて渇いている相手に、どうやって自分が補う潤いを、「詐欺商材」でない「本物」あると認めてもらうか
また、決定的に大事な話をします。
何か。
「特に心が深く傷ついて渇いた人は、心の潤いというものを、極めて警戒している」
ということです。
そりゃあそうでしょうね。私だって激烈に警戒している。
当たり前で、それは今まで自分を騙すための詐欺の商材であり、実在せず、もし自分の目の前にあったら、まずはそれは詐欺であると疑ってかからないと安全ではなかったからです。
「やってくれよ。
ゴミみたいな報酬で甘んじて受けて、吐き出せる限りのリソースを吐き出して高品質な成果を出してくれよ。
やくめでしょ。
もちろん自分はゴミみたいな報酬しか払わないよ」
こういうことを言う人は掃いて棄てるほどいたのだ。
当然、相手もそうであると疑われている。
というか、これを覆すための努力も、そうではないことを証明するための根性も、相手は別に示したためしがないではないか。
さっきも、この話、しましたね。
(まあ、それでも、頼まれたらやっちゃうんだけどな)
(何で…?)
(俺があほだからじゃねーの?)
***
さて。
身の証を示すのは、実は簡単です。
まず、目の前の人がそういう傷を抱えているかもしれないことを認識し、出来れば確認すること。
否定しようが、ここは本人にとってとても大事なところなので、否定の仕方に屈託があるはずです。
そして、「猜疑心をもって試される前に」「身の証を立てる」ことです。
「自分は相手の全体を愛している。
個別の要素を愛しているのではなく、相手も、相手との関係も、そのために相手が構築した信頼も、不可分のものとして愛している。
どれが欠けても、たぶん、とても、すごく嫌だ」
そういうことを伝える。
考えもしなかった?
じゃあ、今伝えました。
だから、言ってあげて下さい。
「被虐児、クソ面倒臭いガキ」
と思うかもしれませんし、そこは実際その通りなのです。我々はクソ面倒臭いガキです。
が、誰しもセカンドネグレクト虐待者になってはいけない(俺だってなりたくない)。
そこはそういう渡世(しゃかい)の仁義(ひとあつかい)の話であり、渡世の仁義である以上、どこのシマでも何ら変わりありません。
最後に、ここだけは難しいのですが、
「だから、私を信じて欲しいし、私も、私との関係も、そのために私が立った今ここで構築せんとする信頼も、ひっくるめて全部愛して欲しいのだ」
ということです。
難しいですよ。相手の同意と拒絶にかかっているのだから、もうこちらではどうしようもない。
ここで目の前の人が「マジでか…!!!???」と心を動かし、あなたに対しては猜疑心を解いて信頼を抱くようになったら、これは大きな話です。
1_20.性行為の話を、せざるを得ないので、します
1_20_1.性行為の話を避けて通るのも、それはそういう不誠実、卑劣さであろう
ここからはいよいよ(おそらくは予想されていた通り)性行為の方の話をします。
何でこのタイミングかって?
性行為はかなりしばしば、
・相手からの本格的な好意や、
・「あなたに好かれて、今、このように、嬉しい」
と感謝して、
「私も、あなたのことが、今、このように、好きですよ。これで同じではないですか?」
と応える返礼や、
・その感謝や返礼を心意気込みで受け取る行為や、
・お互いがお互いのためにする行為や、
・「これだけしてくれたのだから、報いてあげたくなってきた。
それも、とっておきのがいい。これだとバチッとキマる。
今、事ここに及んでは、私もそういう報い方をするのにやぶさかではない」
という公正取引や、
・そうしたことの繰り返しで得られた「この人は信頼できる」という深い安心や、
・そういう相手にだけほころんで開かれる「心の柔らかいところの開示」や、
・その上で初めて可能な水準の「甘え」や、
・その一種である「戯れ」や「潤い」の、
ある種の顕れ、実例として、起こりがちだからです。
要するに、これらのステップのどこかでの、起こり得るバリエーションとして、性行為は、起きます。
(もっと、その他のレベルでも出来るかも知れないが、そっちの可能性はかなり低いでしょう。その話も後でしますが…)
***
性行為のことを、
「相手に吐き出させて利己的に消費する献身とか、
報いないことは前提となっている相手に吐き出して供給する献身とか、
あるいは好意や献身に基づかない相互の返礼とか、
あるいはこれらでさえない何かだ。
そういうものであり、だから今までの話に何らの望ましさも認めがたい。
というか、そんな望ましさとやらは、ことごとく欺瞞だ」
と思っており、
「これは万人において妥当するし、そこでそう思ってないやつはフェイクだ」
と確信している人、かなりいます。
全てがそうであるかはともかく、実際にそういうことも多々あるから、これはしょうがない話でしょう。
である以上、当然、今まで書いてきた話や、上の話が、およそ受け入れられない人も、かなりいるでしょう。
これはつまり、今までの俺の話は「全部」ごみだと言われている訳です。
今までの話が全部ごみだという方には、ここから先の話だって全部ごみでしょう。
読んでいてもしゃーないでしょう。読まなくていいです。
***
念のため書いておくと、
「どんな相手でも、常に一貫して、報いない。ということは、当然の前提となっている」
というの、世間的には信じられないほど失礼な前提ですよ。これ。
要するにこれは
「目の前のこいつは、自分に報いるほどまともな大人でない。クソガキだ」
というメッセージとして相手に受け取られる可能性がかなり高い。
そりゃあ、こんなメッセージ発してる人に、いずれにせよ絶対に報いたくないっすよ。
こんな失礼をされた相手が、まず「初手で反省して報いてくれる」などというの、あまりにも都合のいい、甘い想定にすぎる。
ふつうは、喧嘩を売ったら腹を見せるような話、そうはならないですからね(なるわっきゃないやろ)
1_20_2.身体的楽しみの延長としての、友達との遊びとしての性行為、実際には「ある」話ではある(が私は関わりがない)
当然予想される、色恋ロマンティック特大感情より前に、仲良しグループの話と、性行為の話をします。(かなりぎょっとする話に踏み込むかもしれませんが…)
よくある話ですが、友達相手に色恋ロマンティック特大感情が発生したり、そうでない相手に色恋ロマンティック特大感情が発生したりします。
やりたくない相手と、ただ単に仲良しグループのムーブをすることは、実は簡単だ。
(というか、ふつうの友達相手には、ふつうはやりたくないの、当たり前なんだから)
ただ、身体的な楽しみのために、友達と「遊ぶ」。つまり、平たく言えば、「戯れる」。というの、これが実際に「ある」話だろうということはまあ分かる。
そうなると、色恋ロマンティック特大感情も、別に性行為の必須の前提とは言い難くなるのよね…
(ふつうは色恋ロマンティック特大感情が前提だが、それでは自慰の説明がつかない。それはやはり、まずは「身体的な楽しみ」として在るものだろう)
個人的にはちょっとびっくりするが、仲良しグループでの遊びとしての性行為というの、別に成り立ってもおかしくないんだよね。びっくりはするが…
1_20_3.色恋ロマンティック特大感情だけで性行為に至ってしまうケースももちろん多々あるが、その場合は後でやってくる火の粉を全部振り払わねばならない
色恋ロマンティック特大感情だけで性行為に至ってしまうケースももちろん多々ある。
さっきもちょろっと書いたように、厳密には、色恋ロマンティック特大感情と性行為は別で、どちらが先かはかなり難しい問題がある。
「そんなもの人それぞれでは…?」
と思うのだが、
「どういう順番であれば、うらみつらみが残りにくいか」
というのは、確かにあるように思うんですよ。
***
何のことかというと、今までつらつらと述べて来た発達段階をちゃんと踏み、発達課題をちゃんと解決していかねばならん。ということです。
色恋ロマンティック特大感情と性行為、「やった」からといって終わりではない場合が多々あり、そうなれば飛ばしたところは埋めた方がいいし、これから先のことも考えねばならん。
「やった」らもうそのための努力を割く気などない?
そういう人、割といる(しさっきもその話をした)んですけど、もちろん、これ、ダメですよ。
達成するための創業と、維持するための守成は、基本的に別の話だ。
創業しかしない、守成をしたがらない人、たくさんいるが、それでは創業で得られたものは、何も守護(まも)れず、何もかもが漏れ出て行く。
そんなんじゃあ創業の意味なんかないやんけ。いずれ歯抜けの櫛のようになっていくだけだ。
***
それに、そういう色恋ロマンティック特大感情は、しばしば胸にズキンとした重い痛みをもたらすものだ。
単純に快楽だけをもたらすわけではない。
人によっては、正気を失わせ、ケダモノにする、苦痛をもたらすものだ。
自分がこれになるのも嫌だし、他人からこれを向けられるのもメチャクチャ嫌だ。
そういうことは、多々ある。
だから、単に色恋ロマンティック特大感情に快楽を覚えて乗せられて、ウォーッと性行為をすると、そこに狂気と苦痛を見る人からは、メチャクチャ嫌がられるに決まってるんだよな。
「こいつは色恋ロマンティック特大感情を、ただの快楽の源泉としか思っていないのか?
狂気や苦痛をちゃんと「見て」ない、向き合っていない、あほなのではないか?
こんなあほと性行為? 嫌に決まっているが?」
こうなる。まあしょうがないね…
1_20_4.色恋沙汰中間面接試験としての、二度目の告白
今まで書いてきたようなことを積み上げられる人は、基本的にそういうあほではないだろう。
(特に、「略奪・不正アクセス等の防止」の話を踏まえているのなら、色恋沙汰の狂気や苦痛の一側面については、最低限理解している。ということだ)
そして、色恋沙汰中間面接試験としての、二度目の告白がある。
一度目は交際のニーズを伝えるものであった。
二度目は性行為のニーズを伝えるものになる。
(もちろん、この順序でない場合もある。
が、長期的な関係を考えているのなら、交際していないのに性行為をするより、交際して性行為をする状況の方が、ふつうは多いだろう)
これらは、共に、「断られる」リスクが大いにある。
そういう意味でも、これらの告白は、ある種の色恋沙汰中間面接試験であると言えよう。
1_20_5.一線を越えるためには、やはり、綺麗事は、ふつう、要る。本心から綺麗事が言えない人、本心の綺麗さが疑われる。だから、綺麗事を、蔑むな
そして、一度目の告白もそうだが、二度目の告白も、心から出た綺麗事でなければならない。
と書くと、またしても鼻で笑う人がいるだろう。
だとしたら、とても気を付けて欲しい。これは、マズイ。
ぶっちゃけ、
「綺麗事だから上っ面だとしか思えない、本心からそんなことは信じられない」
なら、そんな人は究極的に
「綺麗さや清潔さの感覚を持たない。つまりは人の心に欠けがある」
という、かなり否定的な文脈で解釈されるだろう。
「心が綺麗さや清潔さを理解しない」
そんな人を、審美的にも倫理的にも、受け入れられるか?
そういうのを有しない人は、いつの日か、醜く、あるいはなお悪いことに、ゲスいことをしでかして、しかも何ら恥じないだろう。そう、判断される。
余程の強度のある「受け容れたさ」であろうが、こんなやつだと思われた時点で、秒で消し飛ぶ。無理無理無理。
「ゲスい人、生理的に無理」
土壇場でそういうレベルの話に急遽なってしまうの、シチュエーション的にもタイミング的にも、だいぶ最悪度が高いと言える。
***
もっと言うと、
「孤独も温かさも安らぎも甘えもどうでもいい。そんなもの、価値がない」
というクソリアリティを、さも「誠実さの証」の如く言い抜けない方がいいですよ。
それは、リアリティかもしれないが、ただのクソだ。そんなクソを相手に投げつけちゃいけないんだよな。
***
その上で、「やらせろ」じゃあないんだよな。
自分だけは昂った夢心地の中なのかもしれないが、相手はまるでそうじゃないんだよなあ。というか、この時点で相手は白け切っているんだよなあ。
しかも相手を白けさせているのは、どう考えても、クソリアリティを強いた、自分だ。
そういうことをしてると、衝動で動く、なんかの機械と思われますよ。それも、かっこいいロードバイクとかじゃなくて、でっかいシュレッダーとか、そういうおっかないやつです。
そういう機械に巻き込まれてぐっちゃんぐっちゃんになるの、『四丁目の夕日』の事故シーンくらいおぞましい。絶対に巻き込まれたくない。
(参考画像はグロなので貼らないし、グロが嫌なら探さない方がいいですよ)
1_20_6.「温かく瑞々しく柔らかく癒される気持ち、心の潤い」みたいな、実を伴う綺麗事が、二度目の告白の際にちゃんと備わっているといいですよね
二度目の告白は綺麗であってほしい。
もちろん、そこにはきちんとした背骨のある理屈が通っていなければならない。実のない綺麗事ではいけない。
実のある綺麗事の話が、出来るようであっていたい。
「心の距離の近い人と一緒にいる。
そうすると、二人の間に、温かく瑞々しく柔らかく癒される気持ちが通う。
孤独で渇いている心が潤う。
いいですよね。そういうの。
私の中にも、あなたと身も心も通い合いたい、という気持ちがあります。
あなたは?」
という、比較的「綺麗事を含む」話なら、性的な動機としてまあギリギリ「汚らわしくない」かもしれない。
(とはいえ、理屈の上ではこうだけど、実際これでダメだったら、その時は本当に申し訳ない。
皆さんは皆さんの理屈を練って欲しい。
上のは、そういう意味では、指標にしかなりません。だから、ごめんなさい)
***
そしてこれは、一度目の告白と同様、ある種の「確認行動」です。
要はそこまでの構築で、相手が「いいよ。というか、是非私も」と言うだけの色恋ロマンティック特大感情の勢いがあればいいし、そうでないならダメ。関係自体がGAME OVERになるやつです。
***
そして、もちろん、この確認行動は「絶対に」必要です。
このプロセスは、あってもなくても同じ、ではありません。
確認行動をしなければ、これは「合意を取っていない」ということです。
性行為だろうが、契約だろうが、取引だろうが、これをやったらもうそれは民法(人間関係)の世界から刑法(犯罪と刑罰)の世界に変わる。
もちろん自分が当事者だ。言い訳はきかない。
だからここは、しっかりやりましょう。
1_20_7.「同意」を「余儀なくしない」。それはにせものの「同意」であり、「同意」としての効力を有しない
メチャクチャ当たり前のことを言いますが、「自分がやりたい」からやる、というのでは、相手はやりたいかどうかは分からない訳です。
「そういう空気になったから」
というのも、雑誌等でそういう雰囲気についていろいろガタガタと書いてあるかもしれませんが、相手は
「うわっ、巻き込まれている。やだなあ。逃げられないか? 逃げられないのか? 覚悟を決めるしかないのか?」
と思っているのかもしれません。
だったらダメです。
だって、ここで言う
「覚悟を決めるしかないのか?」
とは、
「性的に同意を「迫られ」「余儀なくされて」、同意を「する」、そんな覚悟を決めるしかないのか?
実質的には抵抗できなくさせられた性行為となると、ふつうに性犯罪の要件を構成するのではないのか?
であれば、何故そんなことを飲まねばならぬ…???」
ということです。
嫌な事をウンと言わされるの、仕事の上ではどうでしょう。
これをして悪びれない上司、基本的に統率能力について無能です。
「嫌だろうが、あなたの都合を聞いていたら、仕事が回らないリスクが爆上がりするんだから、回すためにやるんだよ」
ということすら言えないで、
「ハイと言え。ハイ? そうだね。言ったよね?」
とか言い出す上司、責任感と罪悪感で人を操作する、モラルハラスメント人間です。
(この話は後でします。『ブラックメール』という本が、昔あったのです)
虐待親と同じ機序を、パートナーシップや家庭の中でなく、職場で使ったら、それは虐待になるんですよ。
ならない? 何で?
虐待という言葉に、私的なものを感じるなら、こう言い換えてもいい。
これ、教室でもいじめによく使われるやつですね。だからこれは職場でのいじめです。
いじめじゃない? 何で? 都合のいいこと言ってんじゃねーぞ。
地位や権力を盾にパワーハラスメントを行う代わりに、実質権力構造を背景に、責任感罪悪感でモラルハラスメントを行うならば、それはハラスメントではない、とでも思っているか? そうはならないだろ。モラルハラスメントはハラスメントだよ。
相手の負の感情を伴って、何ならそれを道具として、相手を都合よくどうこうしようとするんじゃねえぞ。これがハラスメントでなくて何だ。
相手は仕事の歯車であっても、別に上司の道具じゃねえんだ。
というか、上司だって、社長だって、仕事の歯車だろ。同じやないか。
そして、職場での職場の外に出たら、平らに同じ人間としてしか扱われない。
職務以前に人間扱いされないなら、職場の外の天下の往来、職場の出口のすぐ外で、後頭部をスパナで叩き割られて殺害されて肉塊になるリスクについて、当然受け容れなければならない。
で、こういうことをパートナーシップや家庭や教室の中でやったら。
これはパワーはともかく(権力関係を一義的にパートナーシップや家庭や教室の中に平然と前提するの、2022年現在でそれは最早正当化の余地がないから、マジでやめた方がいいですよ)、モラルにおいては明瞭なハラスメントです。
ハラスメントが行われている状況は、これは虐待、いじめなのです。
本人が役所(福祉相談所)に相談したら、保護プログラムが組まれて、本人以外の当事者は隔離される可能性が高いやつです。
理屈で納得できない? そうですか。
でも、実害を考えたら(それを本人以外の当事者が実害と認めるか否かはともかく、本人は実害だと主張している訳だし、役所が認定したら、そりゃあ客観的にも実害です)、役所の実務レベルではこれが当然の選択肢です。
1_20_8.いかなる理由であれ、にせものの「同意」をやることは、信頼にとって致命的に悪く効くので、ほんものの「同意」であることを明示した方がいいでしょうね
さて。
別の話をします。
「自分は相手に性愛を覚えるが、相手は自分に性愛を覚えない。
同意の余地? 余儀なくせず? 相手は自分に性愛を覚えないのに? そんなことは不可能だ。
端的にリスクではないか。
観測できないことを、抜け抜けと
「やれ」
と言うの、
「現実の現場が何も分かってねえクズバカが喋るな」
と言う話にしかなりえないんだよな」
こうした深い失望は、かなり広く存在します。
***
「そんなやつらが広く存在する!? そこまで状況は危険なのか!?」
と愕然としている人がいるかもしれません。
***
が、これはある意味当たり前で、ふつう誰もルールブックを公開しないし、シグナルも明示しないからです。
何度も何度もくどいほど言ってるのですが、自分の評価基準も地雷も言語化できないやつに、評価されるべく付き合わされ、言外のしぐさを読み取ることも含めて言いなりになるの、だいぶアカン話ですよ。
これ、矛盾した基準でこちらを攻撃して来る毒親に振り回されているのと、基本同じ機序だからね。
これをロマンスと言い放つの、だいぶグロテスクに映る。というのが正直なところです。
***
「それこそが、恋の駆け引きの本質であり、ロマンスであるから、これをしたいんだ。分かってねえな」?
ええー。
「恋の駆け引き、びっくりするほどスパルタンでマッチョで男根主義的だなあ。
女性向けコンテンツって男根主義を呑み込むことも含まれているのか?
だとしたら、それを男根主義者が強いたのであり、申し訳ない。
が、俺らに男根主義を捨てろと言いながら、身内で男根主義の蟲毒をやって囚われるの、お話として到底付き合ってられないのだけど」
という感想しか湧いて来ない。
***
相手の「いいえ」は、言葉通り、「いいえ」である。そこはいいだろう。
だが、「はい」も、本当は、相手の認識では「先方の都合に合わせるべく余儀なくされたもの」かもしれない。
そしてそれについて確認すると、相手は「そんなことはない」と言う。
訊いている側は
「これは同意だけど、実際は違うんじゃないかなあ。
そして後で覆されるんじゃないかなあ。
何度訊いても「そんなことはない」と返ってくるし、そのうち相手は「信頼されてないのか?」という顔で、ムッとし始めた。
じゃあ本当なのか?
けど、相手からのシグナルはあっても、ルールブックは不明なままだ。
そして、自分が相手に信頼を構築したほどには、目の前の相手は自分に信頼を構築してくれていない。
「信頼されてないのか?」
何ら、信頼、ないなあ。ある訳がないなあ。構築されてないんだからなあ」
という、「同意」と言うことに対する根本的な不信を抱えながら、相手と抱き合うか、抱き合わないか、考えることになる。
というか、この状況下だと、私だったら抱き合わない。男性器が萎びてしまう。
(心因性EDの人、かなりいる。
通常、こういう議論では認識すらされていないし、
「そんなフニャ〇ンは二等人類だから無視して虫けら扱いしてよい」
というマチズモは、男性にも女性にもかなり広範に見られる。
マチズモを内面化する女性、もうそんなことはしない方がいいですよ。
それで適応するの、使い潰されて損をするだけなので、早晩生きて行けなくなりますよ)
***
あまりにも当然の話をするのだけど、「いいえ」と「はい」が言葉通りの「いいえ」と「はい」を意味していない人は、言葉通りの人より、信頼ははるかに薄くなるに決まっているではないか。
言ってることが、本来想定されている意味と、かけ離れているか、何なら逆なのだから。
***
え?
「しぐさを参照しないで言葉を聞くやつはあほ」?
それ、複数の手がかりがないと判別できない情報を撒いている時点で、かなり混乱したコミュニケーションをやっているだけです。
これを相手にお出しする人、相手の選別を人事課のツラでやっている訳だ。
である以上、相手に「は?」とキレられてもしょうがない。
それか、コミュニケーションスキルがヘボ。
言葉通りの方が、コミュニケーションははるかに円滑でしょう。
ストレスなく円滑であることは、コミュニケーションに期待される、かなり大きなニーズでしょう。
それをぶち壊しにして分かりにくくことに、作法的美学以外のものを認めたくないなあ。
これはそこまで難しい話ではないと思うのですが…
(「プライマリーキーは存在していて欲しい。
当然ながら主キーというからには一意的であってくれ。
なかったり、同じものが二つあったりするな。
一対一を厳守してくれ」
と言えば、データベース系の人は分かってくれるだろうか)
1_20_9.性行為の動機がないように見える人にも、「微細な性行為」の微細な動機は、ちゃんと存在する(それが微細であるから認識されないだけで)
さて、今から言う話は、「相手が自分に性愛を示すという現象は観察されない」論者たちや、「自分に性愛がないと思っている」人たちは、絶対に信じないでしょう。
が、性愛に積極的でない相手が、性愛に積極的になるきっかけは、実際に存在します。
「嘘だッ!」
「本当のことですよ」
ただしそれはとんでもなく微細な形で、要するに「私を見て欲しい」とか「手を繋いで欲しい」とか、「抱きしめて欲しい」とか、そういう形で出てきます。
性愛に強い執着のある人は、ここで唖然とするかもしれません。
「そんなものは性愛ではない」!
「自分は満足しない」!
「それだけで済まされるの、詰んでるじゃねえか。やってられっか」!
まあ、そうでしょうね。
ですが、よく考えてみて下さい。
これは、身体的接触かそうでないかで言えば、一応は広義の身体的接触です。
ほんの少しでも広義の身体的接触であるものを、性愛だと思う人たちがいることは、まあ、理解して戴きたいのです。理解、出来るでしょ?
そういう人たちにとっては、これは、うっすらとしたものであるが、性愛なのです。
身体的接触、性愛は、ロマンティック特大感情がない時にやると、相当気持ち悪い。
快楽も、胸のドキドキとかも、受け容れ難い時に受け容れるの、メチャクチャ受け容れ難い。
とはいえ、「私を見て欲しい」頻度や、「手を繋いで欲しい」頻度や、「抱きしめて欲しい」頻度は、「キスをしたい」頻度より、はるかに高い。
(ご存知の方も多いでしょうが、「キスは非常に大事である」とする価値観は、かなり広範に存在します。
それくらい、ロマンティック特大感情がない時にやるキスは、メチャクチャ気持ち悪い)
***
いわゆる「A」と、「実は存在したその前」の話は、今しました。
「B」だの「C」だのは、その後の話です。
(符牒の意味が分からない人、分からなくていいです)
そして、これら全般が起きるのは、「すごく親しく、距離が近く、もっと近く在りたい」時です。
この前ちょろっと書いた、「綺麗な温もりの話」です。
一人でいると寂しい。あるいは、人と付き合い出してから、一人でいることの寂しさに気付く。
二人でいると、温かい。相手も温かいだろうか。だったらいいな。
そういう話です。
1_20_10.「微細な性行為」の微細な動機を、うっかり踏み潰さないために、見て欲しがっている相手は見なければならないし、清潔感やデオドラントの可否は突破すべき壁だ
相手に見て欲しい。
だから、見て欲しそうだったら、ちゃんと見ましょう。
何らかのパワのある服を着ている場合、それは半分は審美的な意味合いですが、残り半分は魅力的な意味合いでやっているのです。
ここで見てないということは、
「お前の魅力に関する努力、ごみ」
という意味です。
それ、失礼だから、やめましょう。
「魅力を感じない」
というの、端的に喧嘩を売ってるのに等しい。
ちゃんと見ましょう。
***
あと、相手の手の温もりが欲しい。(だから、手は常にものすごく丁寧に洗いましょう)
相手に抱きしめて欲しい。(だから、体臭には常にものすごく気を付けましょう。脇とか、首筋とかから、体臭が立ち上るの、かなり最悪だからな)
そして、相手にキスして欲しい。(だから、歯や歯茎は毎日磨いて、外野から魚の血合いのような臭いを感じられないようにしましょう)
そういう意味では、清潔感のなさは大きな壁です。
清潔であるに越したことはない。
これの障壁がなく、心の距離が近かったら、手のぬくもりやハグやキスは、これは案外、「したいこと」なのです(当然、後者につれて頻度は減るのですが、うまく受け容れられれば、そこはちゃんとそうなります)。
逆に、不潔だったら、心の距離が近くても、ここでゲームオーバーの可能性はかなり高い。
1_20_11.「スキンシップがそんな早々起きることは、ふつうないものであり、あったら不自然であり、そこには何らかの邪悪が横たわっている可能性が高い」という認識を持つ
そして、もちろん、
「相手がそれをしたくなさそうか」
「むしろこちらにすごく熱意を向けており、そういうことがしたいように見えるか」
というのは、本当によく見なければなりません。
スキンシップが好きな人以外だと、これは一般にハードルがかなり高いので、
「これはハードルが高いものである。
こんな早期の付き合いでそれをやるということ自体、話がおかしい。
相手がスキンシップ好きな人でないなら、この話はかなり慎重であるべきだ。少なくとも早期に強いてはならない」
という認識は、持っておいた方がよいでしょう。
「スキンシップがそんな早々起きることは、ふつうないものである。
というか、あったら不自然であり、そこには何らかの邪悪が横たわっている可能性が高い。
要はそれは、実は自分が余儀なくしていたか(恥ずべきことである)、最悪の場合、相手が勝手に
「こちらから余儀なくされている」
と被害者意識を伴ってやっているかである可能性が高い。
後者の責任、不当なので取りたくないが、結果的にはありとあらゆる責任を取ることになるだろう。
それは自分に謂れのないものも当然含む。というか、マシマシに積まれる。
そうなったら、そうした自分を超えた責任を取る力は自分にはなく、自分は潰れる。
だったら、そもそも、そういう話があった時点で、トラブルに巻き込まれている可能性を強く疑うべきである」
こういう覚悟が要る。
***
甘い夢、見たいですよね。
でも。
信頼関係を構築する。
相手がスキンシップを求めてくる。
自分はスキンシップをしても良い精神状態である。
「相手が決して楽しそうに求めている訳ではない」
というリスクが排除できなかった場合、
「大丈夫? 無理してない?」
と訊く。
そこで用心深く見る。
そうしてなおも、相手が本心からやっていると信じられる。
そういう時だけですよ。そういう夢がリアリティを持ちうるのは。
相手の反応にぎこちなさがあったら、それは相手の「気の迷い」か、「「やらされている」と思い込んでいること」だ。
後者だったら、これを受け容れたら最後、あなたは「やらせた」という扱いになるし、これで相手にとっては「報復で破滅させていい」理由になる。
地雷です。避けましょう。
1_20_12.心を開かない相手は、あなたを深いレベルで拒絶して、不信感を抱いている。問題の打開や人間関係の維持、尊い努力だが、嫌になったらやめましょう
もちろん
「そういうのは嫌だ」
と言われたら、それは受けなきゃならんし、
「あなたとは(もう)やりたくない」
と言われたら、それも大いに厳粛に受け止めねばならん。
前者は行為の拒絶だし、後者に至っては人間関係の拒絶だ。これらを取り返すためには、人間関係の回復のために、余程の努力をしなければならなくなる。
そこは、やらねばならない。人間関係を維持したいのなら。
***
で、正直ベースで考えて、そこまで大事な存在でないのなら?
その相手との人間関係を、正味の話、そこまでして維持したくないのなら?
維持したら不愉快になるのが明らかなら?
そんなもん、別れたらどっすかね。
何で別れないで、未練がましく、つながりを残しておくの?
顔も見たくないから、かかわり合いになりたくない? じゃあ間に誰かを立てて別れ話をした方がいいですよ。
こんなもん残していても、お互いに不愉快の元にしかならんし、それが生活の質を下げるなら、それは有害ですらある。グズグズすればするほど、その間ずーっと腹が立ってくるよ。やめときゃいいのにな。
***
よく言う
「一度やったからと言ってパートナー面するな」
というのは、
「温もりではなくキャッキャウフフを要求されることは、今の関係ではいまだ受け入れがたい。
今の自分の心情では、それはとてもこいつの性的妄想の道具にされていることのように見える。
こいつは、パートナーのことを、自分を性的妄想の道具として扱ってよい権利を持つ地位か何かと勘違いしているのではないか?
一緒にやるというのは、道具扱いのことではない。そんな権利は永遠に与えられない。
そんな認知の歪みを抱えた人、切った方が安全である」
という見地からは、ごく当たり前のことでしょうね。
***
ただ、かなり長い期間が経っても、親しくなるためのいろいろをやった上でも、いつまでたっても、心を開かず、キャッキャウフフもイチャイチャも、というか心の通い合いも拒む人、いる。
それはどういうことかというと、要するにあなたを深いレベルでは、拒絶しているし、不信を抱いてもいる。ということだ。
それは、そういうものだと割りきった方がいいですよ。
こういう時は、まずは、信じられていない方が、立場が弱い。努力を欠いている、という話が避けがたく生じる。
そこは、やはり、信じられていない方が、汚名返上せねばならない。
そして、それはそれとして、
「あなたは私を、深いレベルでは、拒絶しているし、不信を抱いているようにとても見える。それとも、それは違うのだろうか?」
ということは、いつかは訊かねばならない。
出来れば、相手への拒絶や不信が芽生えて、それにあなたが耐えられなくなる前にした方がいい。
そうなってしまってから相手に向き合うと、言葉に棘がどうしても生じてきてしまうから。
そうしたら、成り行きがどう転んだとしても、まず、確実に、揉める。
嫌なもんですよ。あれは。
そして、この問いに対して、相手が誠実に、拒絶や不信を示した場合。
(誠実に答えてくれたことについてだけは、本当に感謝しなければならない。
傷つくのは構わないが、キレてはならない。キレる人に、誰が本当のことを言うもんか)
また、もっと悪い時には、口ではごまかすが、態度から欺瞞がにじみ出ている場合。
(さっきもそうですが、こういう風にデリケートな問題であるあまり、相手の口が明らかにぎこちない場合「だけは」、しぐさから相手の気持ちを読み取ることは、必要な見極めの元になってくる)
「今ので、拒絶や不信や欺瞞は、分かりました。
ですので、あなたにこれ以上深入りしない方が、あなたは楽だ、とふつうに思います。
そういうことなので、私もあなたにこれ以上深入りしないことにします。そういう鬱陶しいことはもうしない。スパッと諦める。
深い関係は、別の人とやることにする」
と明示した方がいいですよ。
1_20_13.「いまだに好きなんだ」とか「あなたを喪いたくない」とか、本当に心の底からそう思って言っているか? それは単なる反射的な反応ではないのか?
「相手がいまだに好きなんだ」
みたいな話が、自分の中に、まだ埋まっているかもしれない。
だとしたら要注意だ。
相手はこちらを深いレベルで拒絶してるし、信頼もしていない。
こちらが相手のことを好きでも、それはそこから先は報われない。
詰んでる色恋沙汰だ。早めに見切りをつけるしかない。
***
ちなみに、もしそこで相手が情動的に
「そういうつもりはなく、あなたを喪いたくない」
と言い出したら、気を付けねばならない。
少なくともそこでホイホイ飛び付いてはならない。
それは、その時の、一時の情動かもしれない。
「あなたをもう少し受け入れて、もう少し信頼する」
というシグナルが出て来るまで、問題は何も解決していない。
「あなたは私を受け入れて、信頼するか?」
ということは、おそらく訊かねばならなくなるだろう。
***
もちろんここで鸚鵡返し的に
「あなたを受け入れる、信頼する」
と言う場合もあるだろう。
でも、それは鸚鵡返しであって、心の底からそう思っているか、明日も明後日もそうかどうかは、かなり猛烈に疑わしい。
とはいえ、どうあれ、いったんは、その鸚鵡返しを受け入れ、信頼しなければならない。
と同時に、それがただの鸚鵡返しに過ぎないという断絶と不信は、当面は心の中で持っていなければならない。
それは、相手が本気で自分を受け入れて信頼しているなら、段階的に捨てていけばいい。いつかは本当に、お互いより深く受け入れ合い、信頼し合えるだろう。
で、そうでないなら、
「やはり受け入れるのも信頼するのも嫌なんだな」
という宣告をして、今度こそ別れればいい。
自分で「受け入れる、信頼する」と言っておきながら、実際には受け入れも信頼もしていない人、誠実さという意味ではまるでお話にならないし、応答責任なんか到底まともにやれる訳ないでしょう。
そんな人と、対等な人間関係、出来ると思うか? 無理に決まっとるやろ。諦めなさいよ。
(対等な人間関係の話は、後でします)
1_20_14.肝心な話だが、避妊しない人、ちゃんと養育者になれんのか?
性行為と発達段階について、特に、非常に重要な論点があります。
もちろん、妊娠のことです。
養育者になれなさそうな人と、生殖につながる性行為をしない方がいい。
避妊せずにやりまくって、「愛してる」とか言っておきながら、いざ妊娠したらケツまくるような人、たくさんいるんです。
それが出来ないなら、せめて避妊した方がいいですよ。真面目な話。
え?
「ゴム一枚で気持ちよさがまるで違う」?
「ゴムをつけていると男性器が機能しなくなる」?
「ゴムのない性行為が許されていないということは、要は真の意味で受け入れられていないので、舌打ちしか出て来ない」?
当たり前やろ。いざ妊娠したらケツまくる人を、真の意味で信じて受け入れて当然、とかふざけたことを抜かすなよな。そんな人のこたぁ、なーんも信じられねえし、受け入れられねえんだよ。
自分は気持ちよくなりたいが、面倒事からは逃げたい? 相手がいようがそれは譲れない?
あーもう。いい加減にしな。盗人猛々しいんだよ。そんなのは。
***
後で説明しますが、色恋沙汰の際には、「養育者になれることが暗黙に要求されている」ことが多いのです。題名でずーっと書いてるけど。
その論点が、一番、ダイレクトに問われるのが、妊娠の時です。
「ちゃんと養育者になれんのか?」
という。
もちろん、その手の覚悟の出来てない人は、こんなもん反古にする。
こうなると、残された側はもう信じられないほど大変になるし、人生最悪に凹む、という話が、現によくあります。
少し考えてみるだけでも、私も途方に暮れてしまいます。これを越えていく人たち、大変だ。これを越えた人たち、勇者だ…
そう言う事態を、相手の上に、スナック感覚で招いて、挙句ケツ捲ってトンズラしてはならない。
これは大変な事ですよ。しでかしたのは自分だ。何逃げてやがる。
「赤の他人である相手の人生が破滅しようが知ったことではない」
というの、相手と赤の他人の区別がついとらんやないか。まるで大事にしとらんやないか。
それでパートナーシップ? 話にならねえよ。
だから、そんなやつとやりたくないし、そんなやつとやっちゃならんのです。
***
もちろんそれでは、
「相手は、理由はともあれ、自分を苦しめることにしたのだ」
と言うことになるから(外形的には実際そうだし)、まともなパートナーシップを築ける、敬意を以て当たるべき、まともな人間とは思われなくなるだろう。
まともな人間と思われなくなったら、他者危害を制約する理由、ふつう、消える。
そう思われたやつは、『奇妙な果実』にされた後で、『ウィッカーマン』焼きで人間松明にされるだろう。(グロ画像なので、これも気合いのある人だけ自分で調べて下さい)
***
人類、敵と足手まといとフリーライダーと乱暴者(単体)には、ふつうメチャクチャ厳しい。
昔からずっとそうだったし、何なら今でもそうだ。だってその方が明らかに場が潰れないで済むからな。
そういう人たちは「まともな人間じゃないやつ」として扱われ、まともに顧みられず、酷い目に遭わされる。
また、非常に辛い話だが、まともに遇したくない相手は、「まともな人間じゃない」枠にボンボコ詰められ、まともに遇しなくて良いことにされ、「同じように」酷い目に遭わされる。
前者は百歩譲って適応的かもしれないが、後者はただの横着だろう。
これに巻き込まれたくはないもんだ。
***
が、そもそも「やり捨て戦術を最終的に採用する気配のある、信頼のないやつ」が、「相手のパートナーシップとしての資質、まともな人間性」云々の話を、抜け抜けと口にするんじゃあないよ。
何より自分が出来てないことだろ。
相手に要求する前に、まず襟を正して、「やり捨て戦術を採らない」と信ずべきよう振る舞え。まずは全部そこからだろ。
嫌? じゃあ全部諦めろよ。「盗人猛々しい」以外、何も言うことがねえんだよな。
繰り返しますが、そんなやつとやらないために、全力を尽くしておられる方々の営為、完全に正しいからね。
「間違っている」と言いたい皆さん、その資格が自分にあるかどうか、よく考えて下さいよ。
全部、「お前はやり捨てをする」という疑義を払拭出来てからでしょう。そこ、出来てますか? 絶対にそこは書き換えねばならない。
それが出来たからと言って、両想いになるとも、信頼されるとも、性的に受け容れられるとも限らん。多分今まで書いてきた話は全部やらなならんだろう。
だが、せめて、それらを全部台無しにするフラグ、「やり捨て」に、固執するのをやめろ。
その上で全部やれ。後は、もう、知らん。
(とはいえこの記事、まだ次回に続くんだよね)
(続くの!?)
(続くに決まっとるやろ)
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