もしも子供の頃 近所にトーチカがあったら絶対に秘密基地にしていたと思うし、今でも秘密基地を持ちたいと思っている。 ああした住める廃墟、前時代の遺構しか持ちえない自由やこの世界からの避難所のような場所がどうしても必要だ。 社会からオミットできる空間を愛している。
尾形は悪魔というよりは矛盾を抱え込んだ存在のように思う その身に光と闇両方に向かおうとする矛盾を抱えて苦悩した 矛盾をその身に宿して生きた人間らしい人間だった
美しい思い出は美しいままでいいのかも知れない。 かつての友人や同級生や恩師はその時のまま記憶に保存して、その先の物語など知らないわからないままの方がきっと美しく幸福なままでいられる
インターネット上の というかSNS上で自分自身と言う実存をどこまで見せるか、あるいは見せないかって正解がわからない 同じようにネット上で仲良くなった人の実存をどこまで見るかっていうのも結構繊細な話になる気がする。 都合のいいとこしか見ない見せない方が幸せなこともある。
子育て世帯は、子育てに関心がある。でも、そんな子育て世帯だけが集まって子育てに関する活動をしていたら、結局「子育て」が、「その他」の人からどんどん分断されてしまう。そこの境界線をぼやかすために、独身で子どももいない私のような存在がプレイヤーとして入り込む意義があるのかもしれない。
とはいえ僕は、ライターやエッセイストや、ましてやビジネス書著者になろうとは思わない。市場のニーズに「当てる」のが、ひどく退屈な行為だからだ。それは、「それつまらないね」だ。
「読むべき本」という考え方と、知的好奇心に従う「知のマップ」的な考え方がどう共存するのか(またはしないのか)を考えたい。
最近のネットでよく見る「民主化」という表現は、少し違和感がある。何でなのかは分からないが、要するに「革命を起こそう」という話。「体制を破壊するのがいいこと」という前提は、ないはずだ。
SNSをやっているといつの間にか誰かの欲望に侵食されていて怖くなる
ネタを溜め込んでるけど今あるネタは年内に全部ぶち撒けたい