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推しと自己愛、そして距離感(神の代弁者にならないために)

推し、という存在
皆様にはいらっしゃるだろうか。

昨今のインターネットでは日々誰かの推しが燃えている。アイドルや、ミュージシャンや、俳優や、色々。

特に3次元の人間を推した場合、炎上の確率は跳ね上がるでしょう。

推しが燃えた時、あなたはどうしますか?擁護する?責める?欠点を指摘する?それとも、見守る?

推しが日々燃える令和の時代、ファンは常に推しの炎上に対してどのようなスタンスを取るか、日々判断を求められているように感じます。

それはいささか窮屈で時に辛い事ですが、一方で常に推しと自分との適切な距離感、盲目になり過ぎない為に予防線を張る基準作りに役立つ視点でもあります。

今回はタイトル通り、推しとの距離感そして「推しの代理人」になっていないか?というテーマで最近起こった出来事を題材に思考を書き綴りたいと思います。


・とある騒動


先月末、あるミュージシャンがファン向けのクローズドな講演会を行いました。その内容は会場にいた人しかわからず、ライブとは異なる授業のような形式です。
この講演終了後にその内容と感想を書いた記事が某webメディアに掲載されました。執筆者はその場にいたミュージシャンのファンのライターです。記事は公開されましたが、その後すぐに取り下げられます。
理由はミュージシャン側からの取り下げの要請があったためでした。ミュージシャンはどうやらそのイベント内容を公にされたくなかったようです。事前にネタバレ注意などはなかったので、この時はまだなぜ取り下げになったのかわかりませんでした。

しかしつい先日、ミュージシャン本人のサイトでイベント当日の内容を音源化し販売する発表があったのです。つまり、ミュージシャンは後々有料で当日の内容を販売する予定だった。だから、ネタバレになるweb記事を上げたくなかったのです。これはファンのレビューとミュージシャン側のビジネスが不幸な形でバッティングしたという事でしょう。

また、ミュージシャン側はこの発表の際に自分は講演内容をみだりに広められたくない、自分が30年考えてもまとまらない内容を第三者が勝手にまとめてフォロー稼ぎやビュー稼ぎに利用しないでほしい、ファンは無視してくれという注意喚起を行ったのです。

これに対し記事を書いたライターと一部のファンからは自由なファン同士の交流の妨げになる、ファンが解釈した感想まで否定して欲しくない、と言った反論がいくつか上がったようでした。

その後、どうやらライターの方はこの一件に納得いかずファンを降りる、いわゆる「担降り」なさったようでした。前身バンドから推していたようなので約20年来の推しと別れる事になったそうです。

この騒動、何故このような形になってしまったのかはこのミュージシャンに限らずあらゆるオタクジャンルに言える現象に原因があるのではないかと思います。


それは、ファンによる「推しの代弁者化」
あるいはファンが「推しの預言者」になる現象です。

・推しの代弁者化するファン


長年1人の人を推し続けると、ファンの側には自然と自分は他の人よりも推しの人となりがわかる、推しの言いたいことが理解できるという意識が生まれます。
これは長年推しのブログを読んだり楽曲を聴いたり、あるいはファンクラブの会報などで知るプライベートな話から推しを個人として友人や家族のように感じるからだと思います。
それ自体は自然なことですし、推し活の醍醐味の一つですが、その意識が段々と「私こそが本当の彼を知っている」という思い込みになっていくと、危険です。特にファンの中でも古参になり、その個人がファン集団の中で特別な存在感や発言権、そのファン自体の特定の取り巻きをを持ち出したら危険ではないかと思います。

これはどのオタクジャンルでもそうだろうと思いますが、こうした存在感があり目立つオタクは段々と「その界隈の重鎮・長老」のような存在になり、「この人の解釈・発言なら推しの意図として間違いない」というオタク内での認識が共有されていきます。
そうなるとあたかも「特別なファンの発言=推しの意思に違いない」という誤った権威のようなものが発生し、まるで事実かのように広まっていくのです。
この「本来は単なるファンの発言・意思が推しの意思である」と混同されていくことが先に述べた「ファンによる推しの代弁者化」「ファンの預言者化」です。

今回のファンと推し本人とのすれ違いは、この「ファンが推しの代弁者のようになる」現象の果てに推していた本人から「それは私の意思ではない」と突きつけられた事で生まれたのではないでしょうか。

web媒体に記事を載せられるくらいですから当該のライター氏はファンの中では特別な発信力を持っていたと言えるでしょう。だからこそ、他のファン達もこの人が書いていることに推しの本意との大きな相違はないだろうと思っていたのではないでしょうか。
しかし、当の推し本人からは自分の意図を汲んだ内容ではないと言われたうえに、自分の表現をそのように他人が要約するべきではないというメッセージが示されたのです。

これはファンからすれば大変にショックな出来事です。自分こそ理解していたと思っていた相手にそうではないと言われてしまったのです。
これは明らかにファンと推しとのディスコミュニケーションのいい例でしょう。
では、なぜこのようなファンと推しとのディスコミュニケーションが発生してしまうのでしょうか。

それは推しとの「距離感」を誤ること、推しへの「愛」と「自己愛」が混同されたことが原因だと考えます。


・推しと自己愛


オタクが推しを愛する時、そこには推しに向く愛と同時に「推しを推している自分が好き・誇らしい」という一種の自己愛が発生します。
これは推しに対する好きの感情と共に「こんな素晴らしい推しを応援してきた自分」を誇り愛する感覚、自分に向いてる愛です。

この二つの愛はどちらも同じ方向を向いているときは良いのですが(つまり、推しが大好き・そんな自分が好き・常に推しと同じ方を向いている)、例えばそれまで推しと自己をどこか同一視していたのに推しが自分とは異なる意志・反応を見せた時に自己愛の方が肥大化していると「こんな推しは正しい推しではない」という不快感に代わります。

長年推し活をして自分は推しを理解し彼の事を知っているはずだったのに、自分とは全く違う推しの意志を見たとき、それまでの「推し像」が強固であればあるほど推し本人とのズレが大きく現実を認められません。
これは今までの推しではない、更には今まで推してきた自分を裏切られたとすら感じます。
しかし、ここで自己愛より推しを尊重できるファン、あるいは推しはあくまで他人であると推しとの適切な「距離」を取れるファンであれば推し方を変えたり自分の中の「推し像」を軌道修正できるはずです。

推しと一体化して「推し活している自分が好き」という自己愛が推しへの感情を上回ってしまうと自分の意に沿わない「推し」を否定し攻撃する側になってしまいます。
これは他者と自分の境界がなくなり推しと自我が一体化して自己認識を誤った結果良くない依存をしたから起きたことだと思います。

推しと自分はあくまで他人である事を自覚し適切な「距離」を取ること、 自分がはたして「推し」を好きなのか、「推しを推す自分」が好きなのか、どちらなのか自覚しておくことはこれからの「推し活」にとってとても大事なことではないでしょうか。


・神の代弁者にならないこと


今回例に出した一件では「推しの代弁者」になりかけていたファンに対し推し本人からNoが突きつけられた事例だと思う。

推しがこうしたメッセージを出さなければならなかったのは、特別な位置にいるファンの発言より一人一人のファンが自分自身で推しの考えを理解し解釈してほしいという希望からではないだろうか。

ある一人の特別なファンの言葉がみんなが求めているはずの「推しの意思」より優先されるのはおかしい。なぜなら一人の推しを応援するファンは本来みな平等であるはずだからだ。

推しも一人の人間で、ファンもまた一人の個人である。
そうしてそれぞれが推しを応援している。
そこに仲介者や、神の代弁者のような存在は本来必要ないのではないだろうか。

ファンはついつい推しの特別な理解者になりたがるし、推し歴が長いだけそうした気持ちになりがちだ。けれど、あくまでも推しと自分は別の人間であること、一ファンとして他の人と平等に大好きな人を推していくんだという「適切な距離」と謙虚な気持ちが快適な「推し活」を続けるうえで大事だと思う。



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