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【思考の断片】SNSではなくソーシャルメディアと呼ぶべき理由

スマートフォンの普及以来、もはや日常的に「SNS」という用語が四方八方で飛び交っている。
この「SNS」は「Social Networking Service」の略であり、2000年代初頭に日本に登場した「mixi」などのサービスが「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」として紹介されたことが背景にある。
そのため日本では「SNS」が広まったとされている。
一方、英語圏では「Social Networking Service」という表現はあまり使われず、代わりに「Social Media」が一般的である。FacebookやTwitter(現X)などのプラットフォームを指す際にも「Social Media」と呼ばれている。
「SNS」と言うと、一部の技術系の文脈では通じることもあるようだが、日常的にはあまり使われていないのが実状である。
日本では、一度定着した外来語がそのまま使われ続ける傾向がある。
「SNS」もその一例で、日本独自の言葉として広まり、今でも使われている。
つまり、日本では「SNS」が初期に普及したためにそのまま定着し、海外では「Social Media」が主流になったため、この違いが生まれたのである。

[言葉の違いが意識を変える]

言葉とは、単に事物を指し示す記号ではない。
それは人間の意識を規定し、現実の認識そのものを形作るものである。
今日、我々が日常的に用いる「SNS」という語は、果たしてその本質を正しく捉えていると言えるだろうか。
SNS——Social Networking Serviceという呼称が意味するのは、単なる人間関係の結節点であり、情報の伝達を目的とするものではない。
しかし、実際のところ、この仮想空間において我々が行っていることは、もはや「交流」などという生易しい言葉で括るにはあまりに広範であり、また強大な影響力を持つ。
英語圏では、この領域を「Social Media」と称するが、これは単なる語法の違いではなく、媒体としての本質を射抜く言葉である。
我々は、今こそ「SNS」という誤謬に満ちた表現を改め、「ソーシャルメディア」と呼び直すべきではないか。

[「つながり」の幻想]

「SNS」という言葉が人々に与える印象は、極めて私的なものだ。
そこでは、友人と些事を語らい、感情を共有し、気軽な意見を交わす場が想定されている。
しかし、現実にはどうか。
個々の投稿は無限に拡散され、些細な言葉の綾が社会全体を揺るがすことさえある。
たとえば、ある一個人の呟きが、瞬く間に数万、数十万の目に触れ、企業を動かし、政治をも動かす。
陰謀論やデマは社会に実害を及ぼし、誹謗中傷は人間を破滅させる。
それにもかかわらず、「SNS」という言葉は、こうした事態を「単なる個人的なやり取り」に過ぎないかのように錯覚させ、発信者の責任意識を希薄にするのである。

[ソーシャルメディアとしての本質〜一人ひとりがメディアである]

オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、
「言語の限界が、我々の世界の限界を意味する。」
と言った。
SNSという言葉は、「つながり」という狭い枠組みに我々の意識を閉じ込める。
しかし、現実にはそれは「メディア」であり、影響力を持つ存在である。
言葉を変えることが、認識を変える第一歩なのだ。
では、「メディア」とは何か。
それは単なる道具ではない。
新聞が世論を形成し、テレビが国家を動かし、ラジオが革命を煽ったように、メディアとはすなわち力であり、影響であり時には暴力そのものである。
ソーシャルメディアもまた、その本質を異にするものではない。
誰もが発信者となり得る現代において、「言葉の軽さ」などというものはもはや存在しない。
ある投稿が国境を越え、社会を変え、時には人の生死をも左右する。
もはや、それを「つながり」などという牧歌的な言葉で包み込むことはできない。
「SNS」という無邪気な響きを捨て去り、「ソーシャルメディア」としての現実を直視することこそ、我々の第一歩である。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)

[言葉を変え、意識を変える]

言葉を変えることは、世界を変えることである。
政治が言葉を奪い、支配者が言葉を作り変えるのは、言葉が意識を形成するからに他ならない。
「SNS」という語は、もはや時代遅れの幻想に過ぎない。
我々は、その欺瞞を払い、真実を指し示す語を採用しなければならない。
すなわち「ソーシャルメディア」である。
この言葉を広めることによって、一人ひとりが発信者であるという自覚を持ち、メディアとしての責任を引き受けるべき時が来たのだ。
言葉を正せば、意識が正される。
意識を正せば、社会が正される。
その端緒が、「SNS」という眠りから「ソーシャルメディア」という覚醒へと至ることである。
今からでも、「SNS」から「ソーシャルメディア」という言葉に切り替え、日常的に使っていこう、というのが私の細やかな提言である。
かつて紙とインクが世論を形成した時代があった。
今、我々はスマートフォンを手にし、瞬時に世界へ発信できる時代を生きている。
であるならば、個々の投稿者はすでに「メディア」としての責任を担っているはずだ。
日本史に登場するリットン調査団でも有名なブルワー=リットンの言葉を思い出してほしい。
「ペンは剣よりも強し」
今からでも、「SNS」から「ソーシャルメディア」という言葉に切り替え、日常的に使っていこう、というのが私の細やかな提言である。

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