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【思考の断片】モラトリアムが産み出す定性的価値〜「コスパ」「タイパ」を重んじる君へ
あくまでも個人的意見だが、私は「無理ゲー」や「親ガチャ」はもちろん、「コスパ」や「タイパ」という語感に生理的嫌悪感を覚えてしまう。
そもそもそこの言葉の響き自体が否応もなく嫌いなのだ。
一方、現代の若者層にとって非常に重要な人生指標になっているということは、当然のことながら認識している。
この世のあらゆる価値が「コストパフォーマンス」や「タイムパフォーマンス」という鋳型に流し込まれ、合理の名のもとに裁断される時代、若者たちは「いかに無駄を省き、いかに速やかに成果へと至るか」という問いに支配されているように見えてならない。
しかしながら、その過程で見落とされるものこそ、人間の成熟にとって不可欠な「モラトリアム」という時間の尊厳である。
[モラトリアムとは何か]
モラトリアムとは、社会の責務から解き放たれた猶予の時である。
それは単なる怠惰や空費ではなく、自らの存在を見つめ、その輪郭を確かめるための期間である。心理学者エリク・エリクソンが「アイデンティティ確立」のために不可欠な時期としたように、この時間の中で人間は未だ確定されぬ自己を抱きしめ、その曖昧さを生きねばならない。
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[効率の神とモラトリアムの相克]
「コスパ」や「タイパ」を重視する精神は、いかに無駄を削ぎ落とし、いかに速やかに結論へと達するかを至上の価値とする。
しかし、もし人間の成熟がそうした一直線の道を辿るものではないとしたらどうか?
人格とは、効率によって鍛造されるものではなく、逡巡と試行錯誤、失敗と迷妄のうちに、静かに形を成してゆくものではないか。
[哲学的視点からのモラトリアムの意義]
■ハイデガーの「本来的な生」
マルティン・ハイデガーは、人間が「世間」に埋没し、凡庸な生を送ることを戒めた。
人間はただ生きるのではなく、「本来的な生」へと己を開かねばならぬ。
そのためには、立ち止まり、問い直し、己が生を凝視する時間が不可欠である。
モラトリアムとは、まさにこの問い直しの時間である。
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■ソクラテスの「無知の知」
古代ギリシャの哲人ソクラテスは、「無知の知」を説いた。
人間は己が無知を自覚することによって初めて真理へと近づく。
しかし、「コスパ」「タイパ」の論理においては、知は即座に得られるものとして扱われ、探求の過程が疎外される。
モラトリアムこそが、自己の無知を直視し、真に価値あるものを見出すための時間なのだ。
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■フーコーの「自己の技法」
ミシェル・フーコーは「自己の技法(self-fashioning)」を提唱した。
人間は完成された存在ではなく、自己を形成していく過程そのものが生なのだ。
だが、この形成は一朝一夕に成されるものではない。
読書に耽り、異国を彷徨し、多様な価値観に触れながら、何者でもない自己をゆっくりと育てていく時間こそが、モラトリアムというものの本質なのである。
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[モラトリアムを生かす術]
されば、モラトリアムは単なる停滞の時ではなく、次のように活用すべきものである。
世界を知るための旅に出る。(異文化を歩み、己の小ささを知る。)
思索の深みに沈む。(哲学書を紐解き、人間の根源を問う。)
試行錯誤を恐れぬ。(無駄と見える経験の中にこそ、自己の輪郭は浮かび上がる。)
[効率を超えた価値の回復]
コスパやタイパの信仰は、一見すれば合理的である。
しかし、人間の生の奥底には、合理では測り得ぬ深淵が広がっている。
何が本当に価値あるものなのか、その問いに真正面から向き合うためには、非効率な時間を耐え忍ぶことが必要なのだ。
モラトリアムとは、未来への迂回ではなく、真に人間として生きるための洗礼である。
それを放棄し、ただ効率の神に仕える者は、ついには自己の人生すら他者の尺度で評価するに至るであろう。
だが、その人生に、果たして魂の震えるような実感があるだろうか。