泥に埋もれし 福音かき集め 探す旅 灰色の景色に 微かに輝く光 道は半ば されどこの一歩は 御心が望まれた一歩
私が御心を果たそうとしたことだけが大切だ。結局は私と神の関係に収束する。
何かを成すとはどういうことか?それはすれ違う人のために、心の中で親切なことを思う、という小さなことでもできることだ。例え死の淵に立ち、今にも燃え尽きそうな命でも…人は思いで神に捧げ物をして、つとめを果たすことができる。
すでに神は地上に御心を賜っている。だが人は、宇宙から隔離された自我をもって、あるがままを分別して意味付けして、恣意的に宇宙をとらえるので、御心をとらえることが難しい。そして言うのだ「神はいずこに」と。我に囚われず、虚心坦懐に宇宙を眺められれば「これでよし」と呟くことができる。
人の肉体に根差した本能からくる悪徳は御することが難しい。だが人は罪を犯しつつも神から授かったつとめを果たすことができる。己の昏き欲望を後ろめたく思うこともあるだろう。それはそのままに、ひたすら我にできる「善きこと」とは何かを考えて、それに目を向けて行う。その所作の中に救いはある。
この世は起こるべきことが起こるべくして起きている。全ては必然であるが、視野が限定された自我は僅かなことしか見れないので、不可解な偶然があると信じる。だがそれすらも必然なのだ。満足も後悔も嘆きも、全ては御心のままに。真の我はひたすら眺めるだけだ。