2024能登地震ボランティアに参加して
珠洲市の現在の状況
先日機会が与えられ、教団のボランティアで能登半島は珠洲市に伺うことができました。
向かう途中の峠道は片側のみ走行可、現在の珠洲市は、道路は車が通れるようになったものの、家々は崩れたまま、断水で水が使えず、シャワーやトイレも十分に使えない状況です。食事はあっても、住む場所や個人の休むスペース、冬が明けた春夏の衣服など様々なニーズがあります。ボランティアは物資を届けるほかにも、井戸掘りやがれき撤去、施設やお店の復帰など様々あります。
時間が経つのはあっという間で、私や人々の1月1日の記憶は薄れつつあるのですが、4ヶ月経つ今も震災当時から復興に一歩(たくさんの方々の支援で)進めたのではないかというところです。特に私は外に設置した仮設トイレのみの状況などを見ると、最低限の生活がひとまずできる(しかできない)ように感じました。
ボランティアとして被災地に行く
私は東日本大震災のときは小学生でしたし、直接ボランティアに関わる経験は今回が初めてです。教会の牧師が、当たり前のようにほぼ毎週片道3〜5時間ほどかけて支援に行く様子を見て、支援というのは、彼ら(現地の方々)が自ら生活できるようになるまで続けるのだということを学ばされています。
ボランティアをするにも、「被災者一番」という思いが必要不可欠で、自分に栄光を帰すことや満足感のためでない(もちろん助けられることに幸いを感じますが)ことが当たり前である、そのことを知る経験となりました。
神からの栄誉と、人からの栄誉のどちらを受けるか。神からの栄誉を受けるためにはどのような気持ちでいれば良いのか、今回はそのことについて学んだことをお分かちさせていただきたいと思います。
神からの栄誉を受けるか、人からの栄誉を受けるか
牧師が珠洲市に向かう道の途中で、「(ボランティアを)やりたくても合わなくて(健康状態や日々の予定等)できない人もいるから、行けることは感謝なことなんだよね」と言っていたことが、まさにそれだと思いました。
健康や時間、移動手段、自分自身の現地での食事や寝床、もし行けても当日体調を崩すかも知れない、当日外のボランティアのはずだったけれど雨でできない等、すべての条件が神様にあって許されて「行っておいで」と任されて、整えられているからできる。そのことを覚えるときに、感謝が与えられ、もはや自分を誇ることもなく、尊い働きに遣わしてくださった神様をほめたたえ、また送り出してくれた人(教会の方々、家族)に感謝して出ていくと思います。
聖書から受け取る
「神様の御心であれば」、「神様が許されるなら」、「今日を生きながらえて、これをしよう。ここまでやろう。あれをしよう。」という事が、私たちの日々の働きを、主にあって感謝しながら取り組めるあり方なのだと思います。そしてなによりも、生きていることは、神様に「わたしは今日もあなたを愛しているよ。生きていていいんだよ(生きていることをわたしは大肯定しているよ)」と生きていることをゆるされ、愛されている証拠なのではないだろうかと。いや、絶対そうだと思うのです。
最後のときには
死ぬまで神様がこんな私を見続け、愛し続け、許しておられること、罪の報酬ゆえに死に、神の御前でさばかれる(審判、ジャッジ)ときにも、イエス・キリストが私のそばで、「彼の十字架は、わたしが負いました」と弁明してくださることはありえない恵みです。この方に私は信頼します。ただ感謝しかありません。昼も夜も、彼の名を賛美せずにはいられないという気持ちがよく分かります。
弱さ、葛藤の中でも主は働かれ、私を造り変えてくださる恵みに感謝します。神様が私とともにいてくださるように、私たちも神様とともにいられますように。御心なら、私たちはどんなことでもできます。神様が私たちになしてくださる業を見させてくださいますように。御言葉は生きていて力があり、祈るときに私たちは神様の力を知ることができます。
被災地で頑張っている移住者の方々、現地で復興を目指し働いておられる方々、ボランティアとして本当に様々な働きをして下さっている方々、それを支援している方々、被災された方々お一人お一人に神様の栄光が現われますように。平安と助けが与えられ続けますように。御心なら、私も続けて行けますように。
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