戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【7月5日~11日】
戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。
7月5日 小田原城開城
天正18年(1590)7月5日(旧暦)、北条氏直(ほうじょううじなお)が豊臣秀吉に降伏。相模(現、神奈川県)小田原城を開城しました。氏直は切腹して城兵を救おうとしますが、秀吉が切腹を命じたのは前当主の氏政(うじまさ)とその弟氏照(うじてる)らです。小田原征伐終結後、東北仕置(しおき)を終えて、秀吉は天下を統一しました。
7月6日 三淵藤英自刃
天正2年(1574)7月6日(旧暦)、三淵藤英(みつぶちふじひで)が自刃。細川藤孝(ほそかわふじたか)の兄で、幕府奉公衆(ほうこうしゅう)として知られます。将軍足利義輝(あしかがよしてる)、義昭(よしあき)に仕えた藤英は、織田信長と対立した義昭に従い続けました。義昭の追放後、信長に仕えますが、およそ1年後に明智光秀(あけちみつひで)の居城・坂本城での切腹を命じられます。理由は今のところ不明。
7月7日 織田軍、神吉城攻めで苦戦
天正6年(1578)7月7日(旧暦)、松平家忠(まつだいらいえただ)は播磨(現、兵庫県)神吉(かんき)城を攻める織田軍の敗報に接します。羽柴秀吉の播磨攻めの一環で、別所長治(べっしょながはる)に味方する神吉頼定(よりさだ)の城を織田信忠(のぶただ)、明智光秀、滝川一益(たきがわかずます)、丹羽長秀(にわながひで)らが攻撃しますが、多数の負傷者を出すことになりました。
7月8日 本願寺、雑賀衆に鉄甲船攻撃命令
天正6年(1578)7月8日(旧暦)、石山本願寺(いしやまほんがんじ)の坊官・下間頼龍(しもつまらいりゅう)らが紀伊(現、和歌山県)雑賀(さいか)の門徒に通達。織田信長の命令で伊勢(現、三重県)の大船(鉄甲船〈てっこうせん〉)が紀州浦に向かう動きがあること、九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍の大船は海上で自由に動けぬものの、来航すれば一大事なので攻撃するよう命じました。
7月9日 帰蝶没
慶長17年(1612)7月9日(旧暦)、一説に織田信長の正室帰蝶(きちょう)が没。斎藤道三(さいとうどうさん)の娘・帰蝶(濃姫〈のうひめ〉)については史料が乏しく、信長と結婚後、早世したともいわれます。最近、慶長17年に没した「信長公御台(みだい)」を帰蝶とする説もありますが、定かではありません。
7月10日 安国寺恵瓊、秀吉へのとりなしを懇願
天正11年(1583)7月10日(旧暦)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が堀秀政(ほりひでまさ)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)に依頼。美作(現、岡山県北東部)・備中(現、岡山県西部)・伯耆(現、鳥取県西部)についての毛利(もうり)側の所領の見解を伝え、受け入れ難い場合は、穂井田元清(ほいだもときよ、毛利元就〈もとなり〉4男)、吉川元春(きっかわもとはる)子息を秀吉に仕官させるとし、とりなしを懇願しました。
7月11日 秀吉、細川藤孝父子を賞す
天正10年(1582)7月11日(旧暦)、羽柴秀吉は三法師(さんぽうし、信長嫡孫)を伴って入京。本圀寺(ほんこくじ)にて邦房(くにのぶ)親王の使者と対面します。また本能寺の変の際の細川藤孝(ほそかわふじたか)・忠興(ただおき)父子の態度を賞し、待遇を保証する起請文(きしょうもん)を送付。さらに鍋島直茂(なべしまなおしげ)に、毛利との和睦と明智与党全滅を伝えました。
【7月の戦国武将生没日】
7月3日・尼子勝久没
7月4日・三好長慶没
7月5日・甲斐宗運没
7月6日・三淵藤英没
7月10日・島津歳久誕生
7月11日・三浦義同(道寸)没
7月11日・三浦義意(荒次郎)没
7月11日・北条氏政没
7月11日・北条氏照没
7月13日・福島正則没
7月14日・藤田信吉没
7月15日・豊臣秀次没
7月16日・佐竹義宣誕生
7月17日・島津忠長誕生
7月17日・山中鹿介没
7月17日・中村一氏没
7月18日・島津歳久没
7月19日・北条氏綱没
7月19日・大道寺政繁没
7月19日・立花直次没
7月20日・結城晴朝没
7月21日・島津義弘没
7月21日・諏訪頼重没
7月23日・島津義弘誕生
7月24日・真田大助誕生
7月26日・太田道灌没
7月27日・高橋紹運没