ワプニック博士の解説というのは、ぼくたちの理解したいという衝動に応えるものだったような気がする。だから、多くの人が博士の解説に飛びつくことになった。博士の解説は学校教育の延長で学ぶことができるのだ。けど、真理はそのような学び方では到底太刀打ちできないものなのではないだろうか。
イエスは言う。「ただこれらを繰り返し読むのです、そうすれば、自ずと真理があなたのもとにやって来るでしょう」 ワプニック博士は言う。「コースを文字通りに読まないでください」
noteを初めてからというもの、これまで知らなかったことをたくさん知ることになったけれど、知れば知るほど、ワプニック博士がやってきたことは、無茶苦茶だったような気がしてくる。
ワプニック博士の解説を通してコース(奇跡講座/奇跡のコース)を学ぼうとすると、コースの学習は苦痛で無味乾燥に感じるけれど、博士の解説を通さずに学ぶと、コースの学びが楽しく感じられ、イキイキしてくるんだよな。不思議。
奇跡のコースは、解脱への最短のコースだと言われることがあって、「本当だろうか」とずっと思っていたのだけど、ビルの人生を知って、本当のような気がしてきた。コースを最短のコースではないものにし、ゴールへ辿り着くことさえも難しくしたのが、ワプニック博士の解説なのではないだろうか。
ワプニック博士が言う「純粋非二元」とは、「世界は存在しない。神のみが存在する」という観点から、妥協なく教えを説いているという意味だと思うのだけど、コースには「このコースは、それが必要とされている場である自我の枠内にとどまる」とも、書いてあるんだよな。
ワプニック博士の解釈と違う解釈をすると、それは全て自己流解釈、自分にとっての都合のよい歪曲とされてしまう。これはある種の洗脳なのではないだろうか。
キャロル・ハウさんとワプニック博士のワークブック解説の違いは、キャロルさんは書かれていることの意味を理解しようとしないようにと解説し、博士は書かれていることの意味を解説する。この時点で、博士はワークの意味を理解していないように思うのだ。
ワプニック博士いわく「イエスをこの世界に引きずり込むのではなく、わたしたちのほうからイエスがいる場所にいかなければならない」ということだけど、そんなことできるのだろうか。わたしたちに必要なことは、イエスに対して心を開くことだけではないだろうか。
コースはワプニック博士の解説を通してのみ学ぶと決めた人達に思うのは、そう決める必要はあるのだろうかということである。そう決めることなく、博士の解説のみを学ぶことはできないのだろうか。決めてしまうと、視野が限定され、心は頑なになり、他者の意見を素直に聞けなくなる恐れはないだろうか。
コースは「純粋非二元」の教えだとワプニック博士は言うけれど、それは文字で記録されたものから判断するのではなく、純粋非二元的体験に導いてくれるものかで判断するべきなのではないだろうか。そうであるなら、数千あるという他の霊性の道も全て純粋非二元と言えるのではないだろうか。
本来コースは、私達の内にある妄想的思考体系を取り除くための教えのはずなのに、私達コース学習者は、ワプニック博士の自己流解釈による妄想的思考体系をまた新たに身につけてしまうということになってしまったのではないだろうか。
ワプニック博士は、「愛のコース」について、非二元から二元に後退していると評しているけれど、ぼくが思うに、「愛のコース」は、博士が純粋非二元の観点からのみコースを解釈するという誤りを犯してしまったために、その修正のために筆記されたのではないかと思っている。
ワプニック博士が間違えているのか、それとも、ワプニック博士の信奉者の方々なのか。歴史上、多くの間違いは、追従者によって為された。追従者は、自分の感性を抑圧した上で、ただ盲目的に権威に従おうとするがゆえに、間違いを犯すのではないだろうか。
ワプニック博士の経歴、立場で、「自分の都合の良いようにコースを解釈(歪曲)しないでください」と言われたら、まるで催眠術にでもかけられたかのように、博士の解説こそが正しいと思いこまされ、博士の解説に頼らざるを得なくなってしまうのではなかろうか。
膨大な著作を残したワプニック博士の解説を読んで理解しないと、コースを 学べないのだとしたら、そんな意地の悪い書物(奇跡講座)をイエスが口述するのだろうかという素朴な疑問は、考えてみてもよいのではないだろうか?
これまでワプニック解説支持者の側からの、ワプニック博士以外の教師に対する批判的言動はよく目にしてきたけれど、その逆は、ほとんどなかった。そのために、日本のコース学習者の間に分断が起こり、学習者の選択が著しく制限されてきたように思う。まだ日本は学習環境が整ってないのではないだろうか
ワプニック博士が犯した間違いは、ぼくにとって看過できないものだ。でもだからといって恨みがましい気持ちを抱くことは間違っているのだろう。人は正しいことを学ぶことよりも、間違いの修正から、血肉となるより多くの学びが得られるものなのかもしれない。すべてはプロセスの一部なのであろう。
けど「ワプニック博士の解説」とは言うけれど、何をもって博士の解説とするのだろうか?博士の著作は膨大だし、前期と後期とでは内容も違うというし、博士の著作は全て読んだという加藤さん曰く、まだ博士の解説の全てを提示したわけではないという。博士の解説の全容はあまりにも茫漠としている。
ワプニック博士は、日々の日常における実践で心がけていることを問われ、「自我と同一化しないこと」と言ったそうだけど、自我と同一化してしまっている私達に、そんなことはどだい不可能なのではないだろうか。自我と同一化してしまっているこの身のまま、全てを聖霊に委ねる他ないのではないだろうか
初期には肯定していた「聖霊によるこの世界の具体的な導き」をワプニック博士が否定しはじめた背景には、博士が「自分にはそのようなものを感じられない(感じられなくなった)」からということもあるのではなかろうかとふと思った。
ぼくが、ワプニック解説は間違っていると言うようになったのは、今の日本のコース学習環境に偏りを感じるからである。博士の解説を正しいとする言説はよく目にするけれど、間違っているという言説は、それに比べて、著しく少ない。そのためにコースから離れていった人も多いように思う。
ワプニック博士曰く「コースは、自分のことを肉体を持った個人的な存在であると信じている限り、真に学ぶことはできない」との事だけど、コースは、自分のことを肉体を持った個人的な存在であると信じている私達を天国へと導くための教えなのだから、そんな事を言うのは無意味なのではないだろうか。
ワプニック博士は言う。「自分の解説を含め、誰かの解説を、コース本体を読むことの代替にしないように」と。その一方で、「コースを自分の都合のよいように解釈しないように気を付けなさい」という。これは、自分の立場を利用したポジショントークと言われるものではないだろうか。
この世界のすべてが自分を外側に投影して見ているだけなのだと真に理解するようになるとき、誰かや何かを攻撃し咎めることがどういうことなのかが明解になります。「兄弟に対して親切でありなさい」とワプニック博士は云います。自分が見ている世界を親切な世界にすることができるのは自分だけです。