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ワプニック博士の思想の変遷・その3
昨日、コース仲間である「ふう」さんとやり取りをしていたところ、ふと、「伝統的キリスト教」と「キリスト教の伝統」の区別をつけたほうがよいのではないかという考えが思い浮かびました。
「伝統的なキリスト教」の教義と「コース」の教義は違うということは、コース学習者であれば、誰もが納得するところだと思います。ただ、ワプニック博士は、それをさらに超えて、コースは「キリスト教の伝統」とも違う、独立したものだと解釈してしまったように感じます。
最初のころは、博士もコースはキリスト教の伝統に根ざしているものだと解釈していたようにわたしは感じているのですが、でも、いつの頃からかは分かりませんが、いつの間にか、博士は、コースはキリスト教の伝統とも違うまったく別個のものだとしてしまったように思います。
コースの学習者であれば誰もが知っているように、「神はこの世界を作らなかった」という考えは、コースで初めて言及されたわけではなく、キリスト教の伝統(グノーシス派)の中ですでに言及されていたことです。
また、古代のマニ教は、世界を構成する原理として「光」と「闇」という二つの原理を想定し、この葛藤が人間的現実を構成しているけれど、神はそれには一切関わっていないということを主張していたそうです。そのため、マニ教は、旧約聖書を否定し、そこに書かれている世界創造の物語を虚構だとしていたそうです。
ですから、ワプニック博士が、「奇跡の原理」の中で、「奇跡講座は古来からの霊性の偉大な伝統の一部と言えるもの」と言っているのは、まったく正しい認識だと言えると思います。「他に類のない独特な内容」だなんてことは、まったくありません。
また、わたしは以前、「キリスト教思想の形成者たち」(ハンス・キュンク著)という本を読みました。この本の中では、パウロから始まり、カール・バルト(1886~1968)まで、合計7人のキリスト教徒の思想、生きざまが紹介されているのですが、コースに書かれていることの多くが言及されていて、驚きました。そして、この7人の背後には、いつもイエスの影がちらついているような印象も受けました。
イエスは、自分に心を開いてくれる者がいれば、常にすぐに駆け寄って、助けていたのだと思います。ヘレンさんにだけに話しかけていたわけではないと思います。おそらく、グノーシス派の思想の形成過程にも関わっていたでしょう。
ワプニック博士が、コースとキリスト教を別個のものとし、あたかも、コースのイエスとキリスト教のイエスを違うものだとしてしまったのは、大きな過ちだったのではないかと思うのであります。