形而上学は、所詮、形而上学でしかなく、形而上学があなたを目覚めさせるわけではない
コースが教えている内容のシンプルさが見えてくるとき
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の形而上学を理解することはコースを実践していく上で必要不可欠であるということは言うまでもありません。
ただし、私たちがわきまえておかなければならないのは、形而上学は、所詮、形而上学でしかないということです。
形而上学をいくら理解していったとしても、それが自分の人生のすべてに適用されていないならば、もしくは体現されていかないならば、概念を弄ぶことになってしまいかねないということです。
分かりやすく言えば、コース形而上学の理論にがんじがらめになってしまって、コースを体現していくことが目的であるにもかかわらず、コースに詳しい専門家になってしまいかねないということです。
というのも、私たちコース学習者は「神の教師」という偉大なる生徒になっていくべきであるにもかかわらず、そうではなく、コースを教えるティーチャーになっていく傾向があるからです。
(それは私自身、そのことに注意しなければならないといえます。)
ただ、私自身の見解から申しますならば、実際のところ、コース形而上学(思考体系)が根付いていくにしたがって、その形而上学すらも概念にしかすぎないということが分かってくるわけです。
つまり、コース形而上学は私たちを目覚めへと導くものではありますが、コース形而上学をいくら学んでいったとしてもそれによって目覚めるわけではないということが明らかになってくるということです。
そのとき、ようやくコースが教えていることのシンプルさが見えてくるようになるといえましょう。
コース形而上学がいくら知的に理解されたからといって、真理に近づいているか?というなら、そうではないということです。
そのことについてワプニック博士は、
「知的理解と体験的理解には雲泥の差ほどのちがいがある」
とういうふうに述べています。
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