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【アイドル新歴史学】 ③第二次アイドル・ルネサンス。

1980年代前半~半ばに起こった「第一次アイドル・ルネサンス」とは、
1970年代初頭から1970年代半ばにかけて興隆した南沙織、天地真理、浅田美代子の「古典」に対して、
1980年代初頭から1980年代半ばに、松田聖子を筆頭に、中森明菜、小泉今日子、早見優、石川秀美、堀ちえみ、松本伊代から菊地桃子まで、百花繚乱のアイドル再興の時代が到来した時代を指す。

そしてその後、1990年代半ばから2000年代前半にかけて「第二次アイドル・ルネサンス」と呼ばれる時代が到来したのである。

筆者の説においては、
その始まりは「安室奈美恵」であった。

それは「第二次沖縄ブーム」でもあった。

「アイドルの始祖」である南沙織以来、再び「沖縄」という「外地」からアイドルの運動が持たされたという歴史の反復が興味深い。

ちなみに、安室を育てた沖縄アクターズスクールの創始者マキノ正幸曰く、
「安室奈美恵は最初からモノが違っていた」という。

「くるっと回ってスカートがたなびく様が、もう他の子たちと全然違っていた」とのことである。

その圧倒的な「原石」から、アイドル安室奈美恵という「彫刻作品」を削りだしたのが「小室哲哉」である。

かくして、「アイドル」+「プロデューサー」というフォーマットが初めて「前景化」したのがこの二人のコラボレーションであった(筆者注:安室奈美恵は、その後「アイドル」という枠組みを超えた存在となる。その意味で、山口百恵の系譜にあるといえる)。

それまでは、YMO時代の細野晴臣であろうとユーミンであろうと、プロダクション側の人間が最前面に出るという「見せ方」はなかったのである。

この「~プロデュース」という形式が、他の追従者を呼び込んでいき、
そこに召喚されたのが「つんく」プロデュースである。

テレビ東京という「東京ローカル局」のバラエティ番組において、
「小室プロデュース」に対して「シャ乱Qのつんく」をぶつける、という対立軸を基にした企画が立てられたのが「〜プロデュース」というアイドル界における「代理戦争」の始まりであった。

そして、その代理戦争のつんくサイド「鉄砲玉」に選ばれたのが「シャ乱Qロック・ヴォーカリスト・オーディション落選の5人組」であるプレ・モーニング娘。のメンバーであった。

1990年代後半当時、大阪感を前面に押し出したシャ乱Qというグループは「関西B級感」、
すなわち「大衆プロレタリアート」をレペゼンしており、「東京的なブルジョワジー洗練」をレペゼンする小室哲哉と明確な対立軸をつくるのには最適だったのである。

この東京vs大阪、ブルジョワジーvsプロレタリアートの代理戦争という下部構造の元、
小室哲哉の方は「屈託のない洗練された都市型現代少女」というキャラクターを纏った鈴木亜美を擁立した。

対するつんくサイドの構成員の出自は「負け組」であり、
その内訳は「北海道、社会人、暗い中学生、おばさん」という、
小室サイドとの明確な対立軸を持つ、いわば「プロレタリアートの怨嗟」を表徴する「連帯」を擁立したのである。

かくして、マスメディア上で毎週繰り広げられたこの対決型エンターテイメント・ショウは大好評を博した。

毎週、両者の売り上げランキングが比較され、大方の予想通りに鈴木亜美が常に勝利を挙げていた。

そうして、この「ブルジョワジーに対するプロレタリアートの抵抗」の物語が、TVを観ている大衆の深層心理に知らず知らずの間に浸透していったのである。

当時のディテールについて述べれば、鈴木亜美に敗北を重ねる中、モーニング娘。という「連帯」では勝てないという流れに向かい、一番人気メンバーの安倍なつみ一人をフィーチャーした勝負曲(『ふるさと』)を出した。

しかし、結果はまたしても敗北、やはり「革命」は起こらないのだ、、、
という空気が日本中に蔓延していったのである。

それ以降のモーニング娘。史における「革命の成立」、
「新しい秩序の誕生~その頂点~失脚」という、
奇しくも「ロシア革命」と同じ道筋を辿った物語と、「その復活」の物語については一部別稿にて既に記しており、随時他の論考も発表する予定である。

このようにして、「プロデューサー」小室哲哉とつんくによる「代理戦争」が着火点となり、
篠原ともえ(石野卓球)、PUFFY(奥田民生)、SPEED(伊秩弘将)、松浦亜弥(つんく)、広末涼子(竹内まりや、岡本真夜、ASA-CHANG)、と、次々に綺羅星のごときアイドルたちが歴史の表舞台に登場したのである。

これが「第二次アイドル・ルネサンス」と呼ばれる時代であった。

(つづく)


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