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【明月記】藤原定家の父「藤原俊成」91歳 臨終に食べた雪 (800年前の詳細な記録)

藤原俊成は、崇徳天皇、後白河天皇から愛され、後鳥羽天皇からは90歳を盛大に祝われるほどの人柄で、生涯現役で和歌の道に邁進し、亡くなる一週間前まで歌集の合点を行い、三日前には息子の藤原定家と和歌の話をし、平安末期から鎌倉時代初期という恵まれない衛生環境の中、 91歳の大往生を遂げた

藤原定家の明月記を調べていく中で俊成のエピソードにたくさん触れ、その藤原俊成の生涯を書いた「臨終の雪」という本で、俊成は筆跡と同様に「麗しく」生きた人なのだと知った

藤原俊成の生きた時代

藤原俊成・藤原定家 親子は、
ちょうど大河ドラマの時代とかぶっていて、
登場人物達と関係性も深く、分かりやすい

藤原俊成の美しい筆跡

藤原俊成を始祖とする冷泉家の子孫の方が
「俊成さんの美しい字を見ると、これを守って行かなければと思う」とおっしゃるのも納得

日野切 藤原俊成 東京国立博物館
75歳頃の筆跡
強い線質や鋭角的な転折に加え、リズミカルな躍動感
個性的な書風は清新的で他に類を見ないという
千載集を書写したものの断簡
仮名消息 藤原俊成 MOA美術館
90歳 最晩年の筆跡 
衰え知らず  詳細説明リンク


雪を食べたい

藤原俊成というと、今一番心に強く残るのが、 明月記に書かれた、臨終の際の「雪を求めた」エピソード。 藤原定家が俊成の臨終を明月記に詳細に書き残しているため、 820年前の出来事とは思えないほどありありと想像できる。自分の死がこんなに鮮明に後世に伝わっているとは俊成もビックリなはず。 (明月記は失われている巻もある中でこの記述の部分は残っているからこそ  ”知ることができるエピソード”  残ってくれてありがとう)


「臨終の雪」東野利夫著

俊成の臨終の際のエピソードの詳細を知りたくて、まさにそれがタイトルになっていた本を手に取った

(概要)藤原俊成とはかの有名な歌人、藤原定家の父である。俊成は平安末期から鎌倉時代、平均寿命が30歳代だった時代に91歳の長寿を全うした。文化的逆境に足元をとられず、誰よりも早く『源氏物語』の文学的重要性を主張し、流行り病だったマラリアをも手なずけ、年を経るごとに増す情熱で歌の道を生きた。一人の献身的かつ先進的文化人の生涯を、その作品とともに紹介した一冊。‎  文芸社 (2010/10/1)

引き込まれる本の冒頭

著者が俊成に魅せられ、
この本を書くに至った背景が語られている 

91歳の大往生(現代の120~130歳に相当)
平安末期から鎌倉時代初期という恵まれない衛生環境の中、 91歳の大往生を遂げたこと
※さらに現在でも後期高齢者にあたる75歳で才能を開花させ、 90歳まで美の判者として現役で活躍し続けたこと (歌合という歌の優劣の判定を行う判定者)

「ペン(文学)は剣(武力)よりも強し」
貴族と武家の政治的争い、 、源平合戦といった時代に 俊成が歌の道を選び「ペン(文学)は剣(武力)よりも強し」という格言どおり 若々しい情熱をペン= (筆)に託し美の追求に生涯を貫いたこと

地味な生活態度が想像できる和歌を詠むさま
後年、俊成が亡くなってから彼の和歌作りの態度について、子の定家が記録を記している。次の文章で晩年の俊成の人間性が想像できる。

(訳文)
亡き父は、高齢となっても夜遅くまで、灯心が燃え尽きて細くなるまで、日常に着る常服である、すすけて古くなった衣を打ちかけて、古くなった帽子を耳を隠すほど深く被られ、脇息にもたれ桐の火鉢を抱くようにして、小声で和歌を吟ずるように詠んだ。
夜が更け、人が寝静まった頃まで毎夜和歌のことに神経を使っておられるお姿は、まことにありがたいというほかない。

「臨終の雪」東野利夫

静かな夜に一人机に向かうさまがなんとも尊い
俊成の魅力が伝わってくる


「臨終の雪」目次

⚫︎まえがき
⚫︎序章
⚫︎第一期 生後より青年時代
(二十九歳まで)
コラム一般日本人の平均寿命(後藤眞氏作成)と古来からの歌人の平均寿命
⚫︎第二期 壮年期発展時代
(三十歳から五十三歳まで)
保元の乱とは/平治の乱とは/コラム「ペンは剣よりも強し」/勅撰和歌集一覧
⚫︎第三期 老年成熟「俊成」時代
(五十四歳より六十三歳まで)
俊成が判者となった「歌合」/コラム『明月記』について/コラム『古来風体抄』について
⚫︎第四期 老年円熟時代
(六十四歳より七十四歳まで)
鹿ケ谷の変/源平の争乱一覧表/コラム養和の大飢饉について
⚫︎第五期 長老として歌壇指導期
(七十五歳から九十一歳入滅まで)
コラム「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」について/コラム『源氏物語絵巻』の「もののあわれ”の表現について/コラム『源氏物語』の「もののけ」について/コラム 本書における終焉の記述について
⚫︎『源氏物語』略年表


藤原俊成の世界観を大事にした美しい構成

本の構成は、「藤原俊成の生涯」 「和歌」 その合間に「コラム」で、 文章自体と文章の配置いずれも俊成へのリスペクトと愛情が伝わる

国歌の君が代のような和歌が載っていたので調べてみると、
現在歌われている君が代は1番で、
3番は藤原俊成の和歌に由来していると分かった
2番は源頼政の和歌由来(あの以仁王の乱の方!)


余白の美

この本の文章は、完結で分かりやすく美しい
余白が俊成の世界観を表しているよう。構成自体芸術

一番好きなページ 
俊成が雪を食べて喜ぶ

俊成の臨終の表現は、
何冊か明月記関連の本を読んだうちで一番美しい
俊成さん愛おしい


医師目線で見る歌人の健康・長寿

著者の東野さんは医師であることもあり、明月記の記述から読み取れる 「病気を抱えながら長寿を果たした俊成」への考察が興味深い。 俊成の長寿の秘訣の一つとして和歌の会合のため、毎日5〜6キロは歩いていたからだという。歌人と長寿との関係についてのページを読むと、健康法に和歌を追加しないと!と思う 笑


 


藤原俊成の臨終 詳細(明月記より全文)

「明月記」藤原定家筆 元久元年(1204年)冬記
俊成の臨終の様子

持病が再発し、危篤状態となり、
本人の意向で法性寺に移ったあと、入滅までの状況が
詳しく書かれている

十一月二十七日
俊成の病状少し恢復(回復)、
釈阿(俊成)、今日は話が出来、定家と和歌のことなど話す。顔はやはり腫れている。
俊成卿女が旧夫通具と共に馳せつける。今は別居しているが、危急の場合の如く同車して来たる。
定家の姉の上西院五条の局(閉王御前)、竜寿御前、
愛寿御前も集まる。
昏(くれ。夕方)に及んで大変苦しむ。

十一月二十八日、
釈阿(俊成)の病状変らず殊に身体痛む。

十一月二十九日、
釈阿(俊成)は今回発病して以来しきりに雪を求める。(高熱のためのどが乾くのか?)
文義が北山から雪を求めてくる。
のどがしきりに鳴る。
六角尼上も来る。

昏(くれ。夕方)に静快が参入し、授戒する。
意識はたしかである。

夜に入っても病状は施す術もなく、
定家と静快は一旦家に帰る。

夜半、附添いとして留めていた青待(公家に仕える侍)が来て、今夜は静かであるがのどの鳴る事は増すという

しきりに雪などを欲するのは、発熱、咳病のためであろうか、今夜は竜寿御前もついている。

三十日、
定家あわただしく馳せ参ず。

念仏の声高く聞こえ、すでに終息(息は絶え絶え)、
閉眼すれどまだ呼吸はしている。

健御前の言によれば雪を殊によろこび、
しきりにこれを召し、
「めでたきものかな」
「えもいはぬものかな」
また、「おもしろきものかな)」
と言うので、附いている人たちは少し恐れをなし、
これ(雪のかたまり)を隠す
「雪・・・雪を・・・」
さかんに雪を求める。

また、意識ははっきりとしているようで、
周囲の人たちに手を合わせ感謝する。
その後眠りについた。

この間小僧たちは念仏の声を断たず、
夜半から早朝まで読経を続けていたところ、あけがた、「しぬべくおぼゆ」
と小声で言った。

周囲はいよいよあわただしく急ぎ起きて、
娘たちが、「苦しくおわすか」と尋ねると、
釈阿(俊成)はうなずいた。
健御前がそれなら
「念仏して極楽へ往生しなされ」と言うと、
釈阿(俊成)は、またうなずく。
最後まで歌道に生涯を捧げた俊成にとって、
形式的なものだったかもしれない。
「起した方が楽ですか」と言って、少し抱き起す。

しかしいよいよ苦しそうに見えるので、
小僧を近寄せ念仏を進め小僧が念仏を唱えているうちに
やすらかになり、遂に息絶えた。

「明月記」藤原定家 元久元年(1204年)十一月三十日 項
※東野利夫さんの美しい訳文から、
さらに詳しく注釈を付けたもの


11月11日から亡くなる6日前の11月24日まで最後となった仕事「秋篠月清集」の合点(評価をつけること)を行い、亡くなる3日前にあたる11月27日には定家と和歌の話をしていた。まさに生涯現役

この時代の臨終の様がこれほど鮮明に書かれているのは、他に無いのではないだろうか


印象に残る美しい表現

理知的な興味や確かさよりも、
感性的な余情が重視されるのである。
俊成が切に求めたものは、形ではなく影であり、
高音大声ではなく、かすかなこだまであり、
明確な概念ではなく朦朧たる余情であった 

 臨終の雪 P125

自然美の結晶である雪を、
最後に求めた俊成の往生こそ、
究極の美を最後まで求めた見事な大往生であった

(めでたきものかな)
(えもいはぬものかな)
(おもしろきものかな)とは。

歌に生き、有限な人生を、その情熱のすべてを、
無限の歌の美の殿堂を築きあげることに注いだ、
人間「俊成」にふさわしい最期であったと言えよう。

臨終の雪 P156



長生きの秘訣は自然と芸術

東野さんの文章から、この美しいリズムに似ているなと美術評論家の高階先生の文章を思い出した

春の桜花の華やかな美しさも、秋の紅葉の鮮烈な輝きも、やがては失われる、自然とともに、自然の美しさもまたうつろう。そのことは、美とははかない、うつろいやすいものであり、それゆえにいっそう貴重で、愛惜すべきものだという「うつろいの美学」を生み出した。廃墟はまさしく、その「うつろうもの」の代表である。
栖鳳がこの作品で描き出そうとしたのは、西欧の画家たちが目指したように、遠い時代の遺跡が今どうなっているかという現状報告ではなく、自然とともにうつろう古代の遺跡が見る者に呼び醒ます感興、栖鳳自身の言葉を借りるなら「一種云フベカラザル神韻」、つまり「詩情」にほかならなかった。そのことに思い至るとき、われわれは卓越した「眼の人」であった栖鳳が、同時にまた、日本的感性を受け継いだ優れた「心情の人」でもあったことを知るのである

「日本人にとって美しさとは何か」高階秀爾 
日本画家 竹内栖鳳についての部分

一般人と歌人の平均寿命について
社会環境も悪く、不衛生、疫病流行、医療の未発達な時代を生きた、 古代中世近代までの有名歌人の平均寿命は、 昭和初期の現代人よりも長寿で、それはなぜかというと、 おそらく、自然を友とし、四季の移り変わりに「もののあはれ」を感じ、 無常感を甘受し、自由闊達な生き方をしたからではないか

「臨終の雪」東野利夫

書かれている内容が、
うつろうもの」「もののあはれ
和歌と日本画、共通する日本の美意識

東野利夫さん (95歳没)  医師・作家
高階秀爾先生 (現在92歳) 美術評論家

お二方ともご長寿!まさに自然と芸術を愛し、楽しむ姿勢が長生きの秘訣なのだろうと納得

芸術を愛し、それを説明する言葉自体も芸術的に美しく表現できる才能は素晴らしい


「臨終の雪」東野利夫著

本との出会いのこと

藤原俊成のことが知りたくなり、俊成関連の本を図書館で何冊か借りた中にあった本。まさに雪のエピソードがタイトルとなっていた

臨終の雪 一究極の美を求めた藤原俊成の生涯一
東野利夫 

早速開いて驚いた

達筆な字で「 謹呈 東野利夫 」著者のサインと寄贈本印。 なんだかご本人の熱意が伝わってくるようで感動。 俊成に感動し、本を出すまでに至った方とは どんな人なのだろうと調べてみたところ、

なんと、実話をベースにして書かれた遠藤周作「海と毒薬」その元となる経験をしたお医者さんだった。

「臨終の雪」は2010年10月出版
東野さんがこの本を書かれたのはおそらく84歳頃
2021年に95歳で亡くなられていた


藤原俊成の美と著者東野利夫さん

本の最後は静かな俊成の「臨終の雪」の場面

若い頃の不幸な出来事を乗り越え、この静かで美しい俊成の世界を愛され、晩年に本として残したいと強く思われたのだ。背景を知るとより深みが増す。本にサインを書かれ寄贈された時、どんな思いだったのだろう

俊成への熱い思い、
時を超えてしっかり受け取りました!


本との出会いに感謝

たまたま著者が寄贈された図書館を利用していたからこそ出会えた本。 ご存命であればお手紙書きたいくらい感動してしまった。 せめて購入したいと調べたら新品の在庫が無い、、、 やむなく中古を検索。なんと、サイン入り初版が販売されていたので購入。大事にしよう


■藤原俊成と定家を祖とする冷泉家 唯一現存の公家邸宅

藤原定家の日記や冷泉家の書物が奇跡の伝来をしてきた経緯。書物も蔵も徳川家康・秀忠、天皇に守られ、書物散逸危機には蔵を天皇が封印するほど大事にされた。現代の家存続の危機には稲盛和夫さんにも寄付を受け守られていた 今では現在唯一の公家邸宅となっている


今だったら参加したい勢いのイベント(開催済)

俊成の人柄伝わる


公家と武士という立場を超えて和歌を愛する者どうしの繋がり。素敵な話だなぁ


◼️調べて分かった藤原定家の日記が残るのは超奇跡

天皇の書物すら失われる中、この時代の本人が書いた日記原本が残るのは稀で奇跡。道長と定家の日記の違い、宮廷儀式に奮闘する定家と息子の為家が垣間見られる記録など



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