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夕暮れ時にゆっくり読みたい物語たち

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#エッセイ

潮騒の缶ビール

潮騒の缶ビール

ぼんやり海を眺める土曜の昼下がり。茅ヶ崎の海岸で一人、ぽつりぽつりと言葉を置いた。

あてもなく乗り込んだ電車に揺られること小一時間。駅の発車ベルがサザンオールスターズの『希望の轍』なのは、訪れるたびにいいなと思う。

降り立った湘南のど真ん中に、秋の気配はない。電車の進行方向からして向かうべきは南口。すれ違う人々から、喧騒とまではいかない活気を感じながらロータリーに出た。これまでも何度か足を運ん

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夕闇に沈むモレの橋

夕闇に沈むモレの橋

「この絵の場所を知りませんか」

フォンテーヌ・アヴォンの閑散とした駅舎で、ぼくは息を切らしながら駅員に尋ねた。正確には、ガラケーに保存していたその絵の画像を差し出した。充電はもう残りわずかしかない。

聞き取れないはずのフランス語でも「知っている」と言っているのがわかった。彼は線路の下り方面を指さして、2つ先の駅で降りろとだけ教えてくれた。橋の詳しい場所までは、知らないようだった。

晩秋のパリ

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便座とバスタオルと宇宙

便座とバスタオルと宇宙

便座を上げないで使用するようになったのは、当時の恋人のおかげだ。
「そんなの当たり前でしょ」
なんて彼女にしてはいやに強い口調で怒られた。
トイレ掃除は僕の担当だから良いじゃないかとも思ってたけれど、どうやらそういう問題ではないらしかった。
うんうん、ごめんね。
次からは使い終わったらちゃんと蓋を閉じるようにします。
「そうじゃなくて座ってしてって言ってるの」
はいはい、ごめんね。
そういう何気な

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先をゆくあなたは、ずっとわたしの憧れなんだから

先をゆくあなたは、ずっとわたしの憧れなんだから

あなたと初めて会ったのは、16年前だったかな。

わたしがまだ特許翻訳者の見習い、あなたは弁理士になって数年のころ。“はじめまして”は、翻訳スクールの講座だったよね。

あなたの第一印象は、柔和で穏やかなひと。わたしがもっていた『女性弁理士』のイメージをぬぐいさった。

スクールの帰り道、あなたは翻訳者見習いのわたしに、気さくに声をかけてくれたね。おそれ多いなと思って言葉を選んで話したのを、いまで

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生老病死のご近所物語

生老病死のご近所物語

今日はあたたかだった。
一歳半の次男あっちゃんと庭で遊んでいると、お隣のおばあちゃんがやってきた。

以前別のnoteにも書いた90歳近いおばあちゃん、佐藤さん。
4歳長男の発音だとシャトーさん。

庭に来たシャトーさんに、あっちゃんは即座に抱きつく。
遠方の祖父母とは会えないこのご時世、シャトーさんがあっちゃんにとってのおばあちゃんだ。
シャトーさんも同じく、まだ一度も会えていないひ孫がいる。

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卒業式のあと、70代の友人とパフェを食べた

卒業式のあと、70代の友人とパフェを食べた

卒業式にいい思い出がない。

小学校の卒業式は「やっとこのクラスから解放される」とせいせいしたし、中学は不登校だったから参加していない。高校は通信制で卒業にたいした感慨もなく、思い出いっぱいの専門学校も、卒業式は「こんなもんか」という感じだった。

卒業式について書こうと考えたとき、真っ先に浮かんだのは、もっとも印象の薄い高校の卒業式だ。正確には、卒業式のあと、すすきのの老舗喫茶店でおじいさんとパ

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変化の波を越えたら

変化の波を越えたら

今日、46歳になった。
「アラフィフ」になって1年。
この1年で何が変わったのか? 
老眼が恐ろしく進んだ。もはや、近視用のコンタクトレンズでは自分の爪先は見えないし、iPhoneの画面も日に日に顔から遠ざかっている。
ダイエットしたので、体型が変わった。最近急に「痩せた」と言われることが増えた。それが褒め言葉であることが多いが、時として批判として言われるようにもなった。こんなことは初めてで驚いて

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思い出、道路に転がして

思い出、道路に転がして

小学…何年生の頃だったろうか。
2年…いや、3年生だったかも知れない。

クラスに転校生がやって来た。
先生がにこやかに彼の紹介をし、「じゃあ一言、あいさつを」と振ると、彼は挨拶をする代わりに私達をギリッと睨んだ。
強い黒目が白目の光を引き立たせ、短く濃いまつ毛の線が、眼球を際立たせていた。

──蛇。

人の目が蛇のそれに見えることがあるのだと、その時、初めて知った。

          丨

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もう一つの「わたし」

もう一つの「わたし」

最近、本名じゃないアカウントで発信する人の気持ちがなんとなくわかってきた。いいよね、もう一つのなまえ。

もう一つのなまえは、もう一つのことばをもっている。だから、もう一つの思考だし、もう一つの人格だから。フルスイングでくだらないことも言える。何より、もう一つの「わたし」には締切がないのだ。

じぶんが「じぶん」であることに疲弊する。じぶんが「じぶん」を消耗する。そんな時、もう一つのなまえにいのち

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『エピローグ』 #ナイトソングスミューズ

『エピローグ』 #ナイトソングスミューズ

でも、ほんとうは
彗星は、あなたであって
わたしだった
暗くて冷たい、とおいとおい雲のかなたからある日
わたしたちは旅をはじめた
わたしたちは、ずっと 旅をしていた

彗星の尾っぽにつかまって、わたしたち 旅をしてきた
そして 今、
燃え尽きた彗星は塵となり 残るのは、ふわり宇宙に
揺られ漂うふたり
宇宙の片隅で、肩を寄せあって そう、やっと
辿りついたのね

つかんでも逃げていく
世界でたったひ

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