便座とバスタオルと宇宙
便座を上げないで使用するようになったのは、当時の恋人のおかげだ。
「そんなの当たり前でしょ」
なんて彼女にしてはいやに強い口調で怒られた。
トイレ掃除は僕の担当だから良いじゃないかとも思ってたけれど、どうやらそういう問題ではないらしかった。
うんうん、ごめんね。
次からは使い終わったらちゃんと蓋を閉じるようにします。
「そうじゃなくて座ってしてって言ってるの」
はいはい、ごめんね。
そういう何気ない記憶を、さすがにトイレに行くたびにではないけれど、ふと思い出すことがある。
昨日で世界は一区切り付いた。
新しかったり、変わらなかったりする多様な生活は、春という季節にあてられて少しだけ特別に感じる。
春が嫌いだ。
寒さが和らいでいくと、この春の暖かさが膜のように纏わりついてくる。
さらさらと吹く風の中に、独特の憂いを孕ませている。
散っていく花弁に、命の儚さを思い知らされる。
そんな気がするから。
好きも嫌いも、ようは心持ち一つなのだ。
一水四見。
先人が遺してくれた言葉や思想には、当たり前のようなことが仰々しく書いてある。
けれど僕らは忘れてしまうから。
どんなに当たり前のことでも、それが大切なことであっても、時折思い出さないとすっぽり抜け落ちてしまう。
「そんなの当たり前でしょ」
どんな声だったのか、もう上手く思い出せないことも増えた。
隣にいるのが当たり前だったのにな。
「こんなに何枚もいる?」
春から二人で暮らすために、家具屋で日用品を買いに出かけた時、彼女が五枚も六枚もバスタオルをカゴに入れるものだから思わず口をついて出た。
僕の言葉に彼女は不思議そうな顔をした。
「当たり前じゃん」
なるほど、当たり前か。
一枚のバスタオルを二回使ったら洗濯するという僕の当たり前は、彼女にとっては当たり前ではないらしかった。
お皿をいつ洗うかも、風呂に入る時間帯も、洗面台に物を置く位置も、全部が僕の当たり前とは違っていた。
彼女が当たり前と口にするたびに、僕は頭の中で山崎まさよしの『セロリ』を一生懸命反芻していた。
気がついたら今までは許容できていた仕事時に言われる当たり前という単語にすら、僕の脳内は勝手に反応して山崎まさよしを流し始めるのだから指示や説教が全く入ってこなくて困った。
誰もが沢山の当たり前を持っていて、それがマジョリティを得ればマナーやモラル・常識になっていく。
昨日で世界は一区切りついた。
新しさはいつだって戸惑いを生む。
その戸惑いが消え、受け入れた時、僕らに中に新しい当たり前が生まれる。
水のように流れ続けなければ、思考すらやがては腐敗する。
順応と堕落は異なる。
けれどその境界は曖昧で気が付きにくい。
たまに遠くを思うようにする。
星とか宇宙とか果てしないものを思う。
自分を縛り付けている何かが、ひどくちっぽけなものだと再確認するために。
泣き腫らした彼女を思い出す。
「本当に好きなの?」
ドラマみたいだな、なんて思った。
「当たり前でしょ」
人づてに子供が生まれたと聞いた。
当たり前なんて儚いものだ。